128. 春告花
「俺には、ないのか?」
気づけば晧月の顔がすぐ傍に迫っていて、重華は慌てて自身の身体を引いた。
「へっ?あ、そ、その……まだ、あんまり上手くはないので……」
絵を描いているようでも、絵を描く時とはまるで勝手が違うのだ。
比較的簡単だと聞いたはずの梅の花も、なかなか思うようにきれいな形にならないし、それより難しいと聞いた燕はさらに上手くいかない。
練習がてら春燕と雪梅の名に因んだ刺繍をしようと考えたのは他でもない重華だったけれど、最初は二人にだって渡すつもりはなかったのだ。
ただ、用意してもらった手巾は、練習だけで終わらせてしまうにはあまりにももったいないと思うほど、手触りのよい上質なものだった。
さらには、二人からせっかくならば欲しい、という言葉も貰った。
それならば、日頃のお礼も兼ねて、未熟ながらもなんとか二人に渡せるくらいのものを作れるよう頑張ってみよう、という考えに至った。
だが、あくまでそれは練習にすぎない。
現時点で晧月にまで渡そうだなんて、とてもではないが今の重華には考えられないことだった。
「へ、へい……っ」
強く腕を掴まれ、晧月の顔がまたしても重華のすぐ傍へと迫る。
重華は再び自身の身体を後ろへ引きながら、陛下、と呼びかけようとした。
だがその瞬間、晧月の目がすっと細められる。
今二人がいるのは重華の部屋であり、まごうことなく二人きりである。
「こ、晧月様……」
慌てて名前で呼んでみたところで、腕の力が緩むこともない。
離れようにも、腕を掴まれているため、あまり距離を取ることもできない。
重華は、行き止まりにでも追い込まれたような気分だった。
「それは、上手くなったら、と考えていいのか?」
本当は上手くなくともかまわない。
一番最初に手にするのは、自分がいい。
そんな思いが晧月の中には強くあったけれど、重華を困らせてしまうだろうことは明らかだったので、晧月はなんとかその思いを飲み込んだ。
「欲しい、と思って、くださるなら……」
「もちろん、欲しい」
迷いもなく即座に言い切る晧月に驚きながらも、重華は小さく頑張りますとだけ呟いた。
(晧月様、なら、やっぱりお月様かな……)
思い浮かぶのは、月見をしようと誘われて一緒に見上げた美しい満月の浮かぶ夜空。
輝く月に由来する名前を持つ晧月にぴったりだ、と重華はようやく重華の手を放し満足そうに笑う晧月を見ながら思った。
数日後、重華はまた皇太后の宮に居た。
前回訪れたときと同様に、また次から次へと着物を着るため、ではなく、今度こそこれから必要となるだろう知識や教養を皇太后から学ぶためである。
晧月のおかげで長時間拘束されるようなことはなかったけれど、先日と同じ人物だとは思えないほどの厳しい指導に、重華は終わる頃にはすっかり疲れ果ててしまっていた。
(お、終わった……)
頻繁に実施することも晧月から禁止されているようで、こうしてまた皇太后の元を訪れるのは数日後のことになる予定だ。
しかし、その代わりといわんばかりに、次に訪れるまでにこなすべき課題もたくさん貰った。
(これから、頑張らないと)
晧月の言う皇太后の厳しさを身をもって実感しながらも、自身で決めたのだからと重華は着合いを入れながら皇太后の元を後にした。
「えっ?陛下……?」
外へと出た重華の目に、最初に飛び込んできたのは、晧月の姿だった。
思わぬ人物の登場に、重華は慌てて駆け寄った。
「待っていて、くださったんですか?」
晧月はその問いかけに、答えることはなかった。
代わりにふわりと微笑み、それから重華へと手を差し出してくる。
その手を取るだけで、重華は先ほどまで感じていた疲労感が全て吹き飛んでしまったような気がした。
「そろそろ、終わる頃だと思ってな。疲れただろう」
「いいえ。まだまだ頑張れそうです」
重華の言葉に、晧月は少し驚いた様子を見せた。
確かに、つい先ほどまでは、重華の中にもうこれ以上何もしたくないと思うほどの疲労感があったのは間違いないのだが。
今ならまだまだ頑張れる気がする、というのは嘘偽りのない今の重華の本音だった。
「それならいいが。あまり、無理はするなよ」
そんな一言さえも、今の重華にとってはもっと頑張ろうと思わせてくれるものだった。
「はい、もっともっと頑張りますっ」
「今、俺の話を聞いていたか?」
「はい?」
どうやら、重華は少しばかり会話が噛み合っていないことに気づいていないらしい。
しかしながら、重華が嬉しそうに笑っているので、晧月はそれ以上は追求せず、ただ苦笑するだけに留めた。
「せっかくだ。何を教わったのか教えてくれ」
「はい。今日はですね……」
重華は、今日教わったことを一つ一つ晧月に話していく。
その楽し気な声に心地よさを感じながら、晧月は重華の手を引いて歩いた。
そして、もう間もなく、琥珀宮が見えてくる、そんなところまで歩いた頃だった。
晧月の目にあるものが留まり、晧月はふと足を止める。
「梅か。もう、春なのだな」
晧月がそうぽつりと呟いたのが聞こえ、重華もまた晧月の視線の先を見上げる。
そこには、ようやく一輪だけ花開いた梅の木があった。
『ああ、もう梅が咲く時期か。もう、春なのだな』
重華ふと、以前のそんな晧月の言葉を思い出した。
まだ重華がこの後宮に来たばかりで、何をして過ごせばよいのかさえわからなかった頃だった。
その時も晧月は、今のように重華の手を引いてくれていた。
(あれから、もう一年……)
再び、梅の花が咲く季節を二人で迎えられることを、きっとあの頃の重華は想像すらできなかったことだろう。
「梅は、春を告げる花、なんですよね」
それもまた、晧月が教えてくれたことだった。
「ああ。じきにおまえの好きな花も咲くだろう」
きっと、雪中花や桃のことを言っているのだろう。
春に咲く花の中でも、重華が特別気に入ってる花たちだ。
「そうですね。でも、私、梅も好きですよ」
重華にとって、晧月とはじめて眺めた花であり、花を眺めることの楽しさを教えてくれた花でもある。
雪中花や桃とはまた違った意味で、重華にとって特別な花だった。
「そうか。もうじき、梅の花を描くおまえも、見られそうだな」
冬を迎えてから、重華はすっかり外に出て絵を描くことをしなくなった。
だが、こうして梅をはじめとした春らしい花が庭に咲けば、また外で絵を描くことも増えるだろう。
重華は決して、絵を描くことが嫌になったわけではないのだから。
「そう、ですね」
まだまだ外は寒い。
それでも、梅の花を眺めていると、久々に外で花を眺めながら絵を描くのも悪くないと思えてくる。
「明日、久々に外で絵を描くのも、いいかもしれませんね」
予定らしい予定も特にはない。
課題はたくさんあるけれど、息抜きも兼ねて久々にそんな時間を過ごすのもいいだろう。
「それは、楽しみだ」
「えっ?」
確かに重華は、久々に外で絵を描くのが楽しみだった。
だが、それを晧月が楽しみにするのは理解ができなくて、重華は首を傾げる。
「俺は、花を愛でるより、花を描くおまえを眺めている方が好きだからな」
「えっ、な、ええっ!?」
重華は途端に顔が熱くなるのを感じ、顔を隠すように俯いてしまい、その場にはしばしくすくすと笑う晧月の声だけが響いていた。




