127. 萌動
その日、晧月は少し不機嫌な様子で重華の元を訪れた。
「丞相から、何か連絡はあったか?」
「いえ、何も、なかったと思いますが……」
重華の知る限り、晧月とともに確認したのが最後である。
「あの……父と何か、ありましたか?」
不機嫌さの原因がどうも自身の父にあるような気がして、重華はおそるおそる問いかける。
だが、晧月はその問いに答えることはなく、ただ無言で重華の隣に腰掛けた。
すぐさま否定の言葉が返ってこない辺り、どうやらその推察は間違ってはいないようだと重華は思った。
「やはり、丞相が勝手に言っているだけなんだな」
重華が望んでいるというのなら、重華の元にも連絡があるはずだと晧月は思った。
何もないということは、きっと丞相の独りよがりでしかないのだろう。
晧月はそう考えることで、ようやく少しだけ気持ちを落ち着けることができた。
だが、それもほんのわずかの時間でしかなかった。
「父が、何か?」
「おまえに教師をつけたいそうだ」
「つけて貰えるんですか!?」
ぱっと花が開いたように嬉しそうに笑う重華を見て、晧月はすぐさま丞相の言葉は嘘ではなかったと悟る。
「前に父が言ってはいたんですけど、難しいのかなって思っていたんです」
教師を探すだけでも、きっと時間がかかることなのだろうと思ったし、見つかったところで、後宮内で教師とともに勉強ができるかもわからなかった。
だからきっと、丞相は気休めに言ったのだろうくらいにしか考えておらず、自ら催促したり状況を確認するようなことは何もしていなかった。
にもかかわらず、こんなにも早く話があがったことを純粋に喜ぶ重華は、目の前の人物がそのための書状を破り捨ててしまったなんて夢にも思ってはいない。
「あの、それで、いつから……」
重華はそこでふと、違和感を覚えた。
(あれ?陛下はどうして……)
丞相との会話が自身の教師についての話だったのなら、なぜ晧月は不機嫌そうな様子で現れたのか。
「もしかして、私が勉強するの、嫌ですか?」
「そうではない」
今度はすぐさま否定の言葉が返ってきた。
これからいろいろと勉強を頑張らないといけないと思っていただけに、嫌だとは言われず、重華はとりあえずほっとした。
(でも、じゃあ、なんだろう……)
晧月が不機嫌だった理由はわからず、重華は首を傾げる。
(教師の件とは、関係ないのかな?)
もしかしたら、別件でなにか揉めたのかもしれない。
重華がそう考えはじめた時、重華の身体は突然晧月の方へと引き寄せられる。
「ひゃっ」
「教師なんか、必要ないだろ?」
突然のことに甲高い声があがる重華とは対照的に、晧月の声は低く沈んで聞こえた。
「えっと、勉強するなら、必要、なのではないでしょうか……?」
一人で学ぶには、限界がありそうだ。
できることならば、優秀な教師にいろいろと教わりたい、と重華は思う。
「俺がいるだろう?皇太后陛下だっているではないか」
「や、でも、お二人とも、お忙しいですし……」
戸惑いながら、重華は晧月を見上げた。
晧月の表情はやはりどこか不機嫌な様子だったけれど、怒っているよりは拗ねているようにも見えた。
「私、文字だって、なかなか覚えられなくて」
そもそも絵を描いたり、好きなことをする時間の方が圧倒的に多かった所為もある。
今後はもっと勉強時間を増やしてがんばろうとは思っているけれど、それでも様々な書物をすらすら読めるようになるまでかなり時間を要してしまいそうだと思っている。
「きっと、他のことを学ぶのも、すごく時間がかかると思いますよ」
そう言うと、重華はゆっくりと晧月の着物に触れる。
「それでも、ちゃんと教えてくださいますか?」
そう問いかけると、晧月は面白いほどに目を見開いた。
「いい、のか……?」
それが、晧月の望みだった。
とはいえ、やはり先ほどの嬉しそうな重華の顔を思い出すと罪悪感も覚えずにはいられなかった。
だが、重華はまるでそんな晧月の不安を吹き飛ばすかのように、先ほどと同様の笑みを浮かべて頷いてみせた。
「それは……?」
教師の件が一段落ついたことで、晧月はようやく周囲の様子にも目を向けられるだけの余裕を得られた。
そこで、最初に目についたものが、机の上に置かれた、おそらく自身が来るまで重華が何かをしていただろう痕跡だった。
「あ、これは……、えっと、こっちが裁縫道具で……」
重華がそう指し示した古びた箱は、晧月にも見覚えのあるものだった。
「前にも言っていたな。随分と古いようだが……」
「はい。実はこれ、元々は母の物で、ここに来るまでは、私も使っていて……」
晧月の中に最初に浮かんだの、大丈夫なのかという問いかけだった。
だが、大切そうに裁縫道具の箱を抱える重華を見て、晧月はその言葉を飲み込んだ。
(いろいろ、吹っ切れたんだな……)
深く聞かなくとも、重華の中で母に対する感情に変化があったというのは一目瞭然で、晧月はあえてそれ以上このことについて何かを聞こうとは思わなかった。
「それで、その裁縫道具で、何をしていたんだ?」
「刺繍です」
重華は今度は箱の傍に置かれていた手巾を手に取り、晧月によく見えるように広げて見せる。
そこには、未完成の花模様があった。
「雪梅さんに、教えてもらったんです。刺繍用の糸も、手巾も、雪梅さんが用意してくださって」
「ああ。そういえば、そんな話をしていたな」
人形用の着物を作る予定がなくなってしまった重華に、雪梅が裁縫道具の別の使い道を教えることになっていたのを晧月は思い出した。
(なるほど、刺繍か。考えたな。重華が好きそうだ)
おそらく、雪梅も重華が気に入ると思っての提案だったのだろう。
そして、弾んだ声で楽しそうに話す重華を見る限り、雪梅の目論み通りになったようだと晧月は思った。
「やり方も雪梅さんが教えてくださったんです。まだ上手くはできないんですけど、糸で絵を描いているみたいで、楽しいんです」
「そうか、よかったな」
「はい」
嬉しそうに頷く重華を横目に、晧月はその手にある手巾をあらためてまじまじと見つめる。
細かく刺繍を見られるのが恥ずかしいのか、重華の頬はほんのりと赤く染まり、目は伏せ目がちになった。
しかし、晧月はそんな重華の様子に気づかないほど、真剣に刺繍を眺めている。
「これは、梅の花、か?」
まだ、慣れていない様子も見て取れるけれど、はじめてにしては上手くできている、というのが晧月の評価だった。
しかしながら、てっきり好きな桃の花を刺繍しているかと思ったのに、梅の花であったことに違和感を覚えずにはいられなかった。
「そうなんです。雪梅さんに渡そうと思っていて」
きちんと梅の花だと晧月に伝わったことが嬉しくて、重華は弾んだ声で答える。
それから、別の手巾を手に取ると、同様に晧月に広げて見せた。
「で、こっちは春燕さんに」
そう言って広げられたのは、こちらも未完成だがおそらくは燕になるだろう刺繍だった。
雪梅と春燕、それぞれの名前にあわせて刺繍しているのだろうことは、説明されずとも晧月には容易に察することができた。
「燕は梅より難しくて、ちょっと時間がかかりそうなんですけど……」
そう言って、重華は少し困ったように笑う。
そんな重華の姿を見た晧月の中に沸き上がったのは、なんだかおもしろくないという感情だった。




