126. 肯認
「あ、あの、重く、ないですか……?」
「気にするな。これくらい、たいしたことではない」
皇太后の侍女によってまとめられた、持って帰るように言われた着物とそれにあわせた装飾品の一式は、現在晧月の手にあった。
重華が持とうとしたところ、あまりの重さに思わず呻き声をあげてしまったため、見かねた晧月が代わりに持ってくれたのだ。
自身が重いと感じる物を、よりにもよって皇帝に持たせてしまっているのが、重華は非常に申し訳なかった。
しかし、だからといって、自分の力で無事に琥珀宮まで運べる自信もなく、結局晧月に甘えることしかできなかった。
「昼食は、ちゃんと食べたのか?」
晧月の一番の心配はそこだった。
朝早くから呼び出されていたのに、食事すらできずに、ずっとあの様子だったのではないかと案じていたのだ。
「はい、おかあさまが、用意してくださって……」
「おかあさま?」
「あ、えっと、皇太后陛下が、その、そう呼ぶようにって……」
晧月は驚いたように目を見開き、立ち止まった。
だが、それもほんの一瞬のことで、すぐに何事もなかったかのように歩き始めてしまう。
先程までよりも歩く速度が速くなっていて、重華は慌てて小走りになりながらもなんとか晧月に遅れないよう努めた。
「あのっ、嫌、ですか?私がそう呼ぶの、だったら……」
「そう呼ぶよう言われたんだろう、気にしなくていい」
嫌ではない、とは晧月は言わなかった。
それが、重華には嫌だとそう言われているように感じられた。
「お嫌なら、私は……っ」
「そうではない」
今度ははっきりと否定の言葉が返ってくる。
それでも、重華はなぜか腑に落ちないような感覚を覚えてしまう。
「でしたら……」
「おまえは何も気にしなくていい。たいしたことではないんだ」
晧月はそう言うと同時に、何かに引っ張られるような感覚を覚え足を止める。
すると、重華が立ち止まり、自身の着物の裾を引っ張っているのが目に入った。
「どうした?手でも繋ぐか?」
重華は俯いていて、とてもそうしたいようには見えなかった。
けれど、晧月は他に重華の意図として思いつくものもなく、暗くなりそうな空気を振り払うかのようにそう問いかけることしかできなかった。
そして晧月の予想通りそれを望んでいたわけではない重華は、無言でただ静かに左右に首を振ってみせた。
「たいしたことないなら、お聞きしたいです」
重華の真っ直ぐな視線が晧月へと向けられる。
晧月は、やはり自身はこの瞳には弱い、と改めて思い知り、ため息をついた。
「本当にたいしたことはないんだ。ただ、俺にはそんなこと、一度も仰らなかったと思っただけなんだ」
晧月と皇太后はあくまで名目上の母子という関係でしかなく、母と呼びたいと考えたことも、母の代わりを望んだこともなかったはずである。
けれど、重華を娘と言った皇太后と、皇太后を実の母のように呼ぶ重華を見ていると、心がざわついたのだ。
「陛下も、呼んでみてはいかがでしょう?」
「言っただろう。俺にはそんなことは一言も……」
「きっと、お喜びになると思います」
どうも会話が成立していないような気がして、晧月は再度小さくため息をついた。
だが、重華は晧月のそんな心情などまるで知らないかのように、にこにこと笑っている。
「そんなわけが……っ」
今さら呼んだところで、変な顔をされるだけに決まっている。
そもそも、晧月自身、呼びたいなんて思っていないはずなのだ。
それなのに、不自然に言葉が途切れてしまったのは、舜永のことが思い浮かんだから。
『殿下とはご協力して争わないようにできるのではないのでしょうか?』
かつて、重華にそう言われた時、晧月はそんなことは決してありえないと思っていた。
帝位を守る皇帝と、その座を狙う先帝の息子、きっとどちらかが死を迎えるその日まで争いは終わらないのだと信じていた。
だが、実際はそうではなかった。
『そもそも俺、そんな皇帝になりたいなんて、思ってはなかったし』
そう言った舜永は、今では晧月にとって頼もしい弟であり、心強い味方だ。
「いや、おまえがそう言うなら、考えておこう」
そう言った晧月の口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。
翌日、晧月は一人で皇太后の元を訪れた。
重華をむやみやたらに呼び出させないよう、それから長居させないよう釘を刺すためである。
晧月は重華を呼び出してよい頻度や、滞在させてよい時間などを細かく決めて皇太后へと提示し、指導においても自身の時のように厳しくしすぎないよう念を押した。
皇太后は少しばかり不満そうな表情を浮かべたものの、体調を崩させるようなことは本意ではないらしく、晧月の要求は全て受け入れられた。
「では、そういうことで。よろしくお願いしますね……母上」
それは、全ての話を終え、あとは立ち去るだけとなった時の晧月の一言だった。
目を丸くし、非常に驚いた様子を浮かべる皇太后を見て、晧月は自身が想像していた反応とは少し違ったようだと思った。
「重華に、母と呼ぶように言ったのでしょう?だったら、俺にも、そう呼ぶ権利はあるはずですが?」
「え、ええ。もちろん、もちろんです」
何度も頷く皇太后の目尻には、光るものが見えた。
(重華の言う通りだったようだな)
呼びたいと思ってなどいないつもりだったが、呼んでみると思ったより悪くない気分だった。
嬉しそうな笑みを浮かべる皇太后を背に、晧月はどこか晴れやかな気持ちで皇太后の宮を後にした。
だが、残念ながら、そんな晴れ晴れとした気分は長くは続かなかった。
「却下だ」
一際低い、晧月の声が天藍殿に響き渡った。
晧月は差し出された紙を破り捨て、それを差し出した人物を睨みつけた。
だが、目の前の相手はそのくらいで怯むような人物ではなく、それがわかっているからこそ晧月は腹立たしさが募った。
「陛下、お考え直しください」
破り捨てられ、ひらひらと舞う紙を眺めながら、それを差し出した人物、丞相は頭を下げた。
それが、形式的なものでしかないというのもまた、晧月はよくわかっている。
「これは、珠妃様の望みでもあります」
その一言は、晧月をさらに苛立たせる一言だった。
「珠妃様は、勉強されたいと仰っておりました。この者は非常に優秀な教師で……」
「男ではないかっ!!」
がたんと一際大きな音を立てて、晧月が立ち上がった。
だが、そんな怒りさえ予想していたかのように、丞相はまるで驚く様子はない。
「教師というのは、だいたい男でしょう」
この国では、皇太后のように非常に聡明な女性もいるものの、女性が学ぶ機会は男性より圧倒的に少ない。
良家の娘であっても、かろうじて字が読める程度の教育しか受けていない、ということもよくあることなのだ。
そんな中、優秀な女性の教師を探すなんて、至難の業である。
優秀な指導者といえば、たいてい男性だと相場が決まっているのだ。
「とにかく駄目だ。そもそも教師なんか必要ない。珠妃が学びたいなら、朕がいるし、皇太后陛下もいる。指導者に困ってなどいない」
そもそも、後宮というのは本来皇帝以外の男性が簡単には出入りできない場所のはずなのだ。
あまりに妃嬪に興味がなさすぎた晧月が、まるで気にする様子もなければ、全く咎めることもなかったため、いつしか当たり前のように舜永や丞相が自身の目的のために出入りするようになってしまったけれど。
だから、男の教師など出入りさせる気はないという晧月の主張は、皇帝として何もおかしいところはないはずだ。
それなのに、丞相はまるで引き下がる様子を見せず、晧月の怒りは増すばかりだった。
「ですが……」
「うるさいっ、珠妃も納得するはずだ!用がそれだけなら、帰れっ!朕は忙しいっ!!」
これ以上話す気はない、という様子の晧月に、丞相は仕方なく立ち去ることにした。
「残念ですね。珠妃様もさぞ、残念がられることでしょう」
去り際にそんな言葉を残したことで、さらに苛立ちを露わにする晧月に背を向け、くすりと笑いながら。




