123. 母徳
皇太后の話を聞いて、重華の頭の中は自分が皇后になってはいけない、そんな思いで埋め尽くされていた。
他でもない晧月が望んだことであるとはいえ、晧月のためにならないことならば、重華はやはり受け入れたくはなかったから。
(皇太后陛下の仰る通り、陛下にお断りする方がいいのかもしれない)
晧月は悲しむかもしれない。
けれど、最終的にはそれが晧月のためになるのだ。
そう考えて、皇太后の説得を完全に諦めようとした時だった。
今度は、先ほどとは対照的に、晧月の嬉しそうな顔が重華の頭をよぎる。
(あんなに、喜んでくださっていたのに……)
それは、皇后になると決めたと告げた時に見た、晧月の表情だった。
あの表情を曇らせてしまうかもしれない、そう思うと、やはり簡単に諦めてはいけない気がした。
「私はきっと、今のまま皇后になれば、皇太后陛下の仰る、愚かな皇后になってしまうと思います」
「そう。だったら……」
「だから、皇太后陛下が、私を聡明な皇后に育ててくださいませんか?」
諦めろ、きっとそう言われるだろうと思った重華は、言われる前に畳みかけるように言葉を紡いだ。
結果、皇太后は少しだけ驚いた様子を見せたが、それもほんの一瞬のことだった。
「あら、そんなことを言っていいのかしら?私があなたを私の思い通りに操って、陛下を陥れるために使うかもしれないのに」
皇太后がそうしなくとも、他の誰かがそうするかもしれない。
だからこそ愚かな皇后は不要なのだ、そう言って皇太后は重華を追い返すつもりだった。
しかしながら、事は皇太后の想定通りには進まなかった。
「皇太后陛下は、そんなことはされないと思います」
「そんなの、わからないでしょう?今だって、陛下とは意見が違うのだから」
「確かにお考えは違いますが、全て陛下のためですよね。だから、陛下のためにならないことは、なさらないはずです」
重華に冷宮へ行くよう告げた時も、晧月とは違う意見だったが、晧月のことを思ってのことだった。
今も、他でもない晧月の負担を考え、重華が皇后になることに反対している。
誰よりも晧月のことを考えている人だと、重華は感じていた。
「今はそう見えていても、本心は違うかもしれない。それに次もそうだとも、限らないでしょう?」
自分の意見を通すために、それらしい理由付けをしている可能性だってある。
また、今回はたまたまそうだっただけかもしれない。
皇太后が暗にそう指し示してみても、重華は揺らぐことはなかった。
「私、陛下にお聞きしました。陛下は幼い頃にお母様を亡くされ、それ以降は皇太后陛下がお母様だったと」
「それがどうしたの?確かに、名目上は私が母ということになっているけれど、血の繋がりもないし、母子の情なんてお互いにないわよ」
「そんなこと、ありません」
確かに、仲のいい親子とはいえないとは聞いた。
けれど、そこに情がないなんて、重華はとても思えなかった。
「皇太后陛下は厳しい方だったとお聞きしています」
「ええ、そうね。だから、陛下には嫌われているでしょうね」
晧月の生みの親である花婕妤は、慈愛に満ちた優しい母親だったと皇太后は記憶している。
一方で、ただひたすらに厳しく育て優しさなど見せたことのない自身は、さぞ恨みを買っているだろうといつも思っていたのだ。
「いいえ、きっと感謝されているはずです。『教わったことは全て、皇帝になってから非常に役に立っている』と、仰っていましたから」
「え……?」
晧月がそんな風に考えているということは、皇太后も知らないことだった。
「陛下が立派な皇帝になれるよう、あえて厳しくされたのですよね」
幼い頃の晧月は、もしかしたらそれを嫌だと思うこともあれば、本当の母と比べ疎ましく思うこともあったかもしれない。
しかし、今の晧月にはきちんとその意図は伝わっているはずだと、重華は確信している。
「幼い頃からずっとそうして陛下を第一に考え、導いてこられた方が、陛下のためにならないことはしないはずです」
そう言った重華の姿が、皇太后の中に花婕妤の姿を思い起こさせた。
『もし、私に何かあった時は、晧月の面倒は皇后陛下がみてください。皇后陛下なら、たとえ私をよく思っていらっしゃらなくとも、晧月や皇帝陛下にとって悪いことはなさらないでしょうから』
かつて、まだ皇后だった頃の皇太后にそう言った花婕妤は、真っ直ぐな瞳で皇太后を見つめていた。
先程までは怯えた様子しか見せていなかった重華もまた、今は同様に真っ直ぐな視線を皇太后へと向けている。
(別に、花婕妤を嫌っていたわけでは、ないのだけれど)
皇太后は懐かしむように、当時を思い出した。
当時の皇太后は、よくも悪くも、ただ無関心だっただけである。
皇后として政治に携わりたい気持ちばかりが強く、妃嬪たちの寵愛を求めた争いなどまるで興味がなかった。
だから、特に相手から何かされない限りは、敵にまわることもなければ、味方になるようなこともしなかった。
今となっては、もう少し手助けしてあげてもよかったかもしれない、なんて思う気持ちある。
(真っ直ぐで印象的で、目を惹く瞳ね)
花婕妤を思い起こさせる重華の瞳を見ていると、皇太后は晧月が重華を選んだ理由が少しだけ理解できるような気がした。
(私の、負けね……)
何の勝負をしていたわけでもないけれど、ふとそんな気持ちが沸き上がり、同時に重華を諦めさせ追い返そうという気持ちは皇太后の中で薄れつつあった。
「私も、幼い頃に母を亡くし、母がいません。だから、今度は私の母の代わりに、私が立派な皇后になれるように導いてくださいませんか?」
真っ直ぐに皇太后を見つめていたはずの瞳は、突如不安そうに揺れ始める。
さっきまでの威勢はどこへ行ったのやら、とつい笑ってしまいそうになるのを、皇太后は必死に耐えていた。
「いいの?聞いているんでしょう?私は、とても厳しいわよ?」
「は、はいっ!頑張りますっ」
重華は決して勉強は得意ではない。
けれど、全ては晧月のためである、そう考えるといくらでも頑張れそうな気がした。
「いいでしょう。あなたは、責任をもって私が立派な皇后にしてみせるわ」
そんな返答を聞いて、重華はようやくまともに息ができるような気がした。
(本当は、娘も育ててみたかったのよね)
子を産まずとも、子育てを経験できただけでも、非常に恵まれていたと皇太后は思っている。
だが、結果的に3人の母になったというのに、全て男児だったということを少しだけ残念に思っていたのもまた事実だった。
「では、陛下に伝えなくてはいけませんね」
皇太后はそう言うと、侍女呼び晧月を呼びに行かせる。
(わ、私がお伝えに行った方がいいのでは……?)
来ないで欲しいとお願いした手前、政務で忙しいだろう晧月をわざわざここに来させてしまうのは非常に申し訳なく思う。
けれど、てきぱきと指示を出す皇太后を止めることもできなくて、ただおろおろと皇太后の侍女が出ていくのを見送るしかできなかった。
「重華っ!」
部屋に入ってきた晧月は、すぐ傍にいる皇太后の姿などまるで見えていないかのように、真っ先に重華の元へと駆け寄ってきた。
「陛下、あの……」
戸惑う重華をよそに、晧月は重華の顔に触れ、目元を中心に重華の顔をさまざまな角度から何かを確認するように眺めた。
(泣いては、いないようだな……)
一通り確認し、涙の跡がないことがわかると、晧月はようやく安堵したように息を吐き出した。
「ご用があるとお聞きしましたが」
ようやく晧月の視線は皇太后へと向けられた。
皇太后はそんな晧月の様子に内心ため息をつきながらも、そんな様子など微塵も見せず、それまで座っていた豪奢な椅子からゆっくりと立ち上がると、重華の傍まで歩み寄った。
「重華は私が立派な皇后に育てることにしました」
「えっ?」
「ええっ!?」
優雅な笑みを称えた皇太后の言葉に、晧月よりもより大きな驚きの声をあげたのは重華だった。
「なぜ、そなたが驚くのです?」
「おまえも聞かされていなかったのか?」
皇太后からすれば、先ほど重華と話していて決まったことを晧月に伝えただけ。
そこに重華が驚く要素など、あるとは思えなかった。
晧月からすれば、重華の反応は、今はじめて聞いたかのように思える。
だが、先ほど来たばかりの晧月とは違い、もっと前からここに来た重華もまた何も知らなかったというのが不思議で仕方がなかった。
そんなこんなで二人分の疑問の声と視線が、重華へと向けられる。
「あ、あのっ、その……っ、な、名前、呼ばれるとは、思わなくて……」
二人の視線を受け、居たたまれなさから、重華の言葉はどんどんと小さくなっていってしまう。
まるで悪い事をしてしまったかのような感覚を覚え、重華はそのまま肩を竦めて縮こまった。
「あら、母が娘の名を呼ぶことは不思議ではないでしょう?」
その言葉に目を丸くした重華の隣で、晧月は訝しげに首を傾げた。
(娘……?)
どういうことだと晧月が問いかけようとしたところで、ぱんっと皇太后の両手から小気味よい音が響く。
音に導かれるように、晧月の視線も重華の視線も自然と皇太后へと向けられた。
「ああ、でも、今すぐに皇后になれるなんて思わないことね」
皇太后から、先程までの優雅な笑みがすっと消え去った。
「私が立派に皇后の責務を果たせると判断できるまで、何があろうとも皇后になることは許しません」
そう言うと、一際鋭い皇太后の視線が重華へ、そして晧月へと向けられる。
「いいですね、二人とも!」
「は、はいっ」
あまりの迫力に、重華だけはなく晧月もただこくりと頷くことしかできなかった。




