120. 帰還
(なんだか、すごく懐かしく感じる)
琥珀宮、と書かれた文字を見上げて、重華はそう思った。
離れていたのはほんの数日だったけれど、その間に何度恋しく思ったかわからない。
ようやく戻って来られたことが、重華は嬉しくて仕方なかった。
「おいしい」
戻るや否や、目の前に並んだのは雪梅が淹れたお茶と、春燕が作った点心。
どちらもまた、丞相の家に居る間、重華が恋しくて仕方なかったものである。
丞相の家でもおそらく高級だと思われるお茶と甘味が何度も出されたが、今重華の目の前に並ぶ物に敵うものなど一つもなかった。
(やっぱり、私、ここに居たい)
この場所がいつの間にか、最も落ち着き安らげる場所になったと感じながら、重華は笑みを浮かべて点心を頬張った。
「あれは、なんだ?」
重華が戻ったという知らせを聞き、晧月はすぐにでも琥珀宮を訪れたいと思った。
けれど、何かと政務が立て込んだり、こんな時に限って謁見の依頼が多かったりで、結局訪れることができたの暗くなってからになってしまった。
たかが数日離れただけ、それなのに随分久しぶりに会うような感覚を覚えながら訪れた晧月の目に映ったのは、にこにこと笑う重華と、本来なら自身が座るはずの重華の向かい側の椅子に置かれたあるもの、である。
「丞相に買っていただいたそうですよ」
晧月の疑問に答えたのは雪梅だった。
重華が嬉しそうなのは喜ばしい限りだが、それが丞相に貰った物を眺めているから、というのはなんだか癪に障るような気がして、晧月はつい顔を顰めてしまう。
(そういえば、欲しいと言っていたな……)
それは、重華が丞相の前で子どものように泣きじゃくった日。
買って欲しかった、と言っていたのを思い出しながら、晧月は重華の目の前に座るように置かれている人形に再度目を向けた。
(気に入らないな……)
重華に嬉しそうにそれを見つめるのも、それを買ったのが丞相だというのも。
(俺に言えば、もっと早く買ってやったものを)
晧月だってわかっているのだ、あくまで欲しかったのは幼い頃の重華であり、その時の重華が買って欲しいと願った相手は存在も知らなかっただろう自分ではないことを。
だからこそ、自身が今さら買い与えても意味はないだろうことも。
それでも、一歩一歩とそれに近づく晧月は、妙な対抗心が沸き上がるのを抑えることができなかった。
「あ、陛下っ」
晧月が近づいたことでようやくその存在に気づいた重華が、ぱっと顔をあげる。
久しぶりのその顔が見られたことが、重華はただただ嬉しく、笑みが深まる。
だが、それもほんの一瞬のことだった。
「違うだろう?」
「えっ?」
重華の表情は、あっという間に戸惑いの表情に変わる。
何かを間違えたという認識は、重華には全くなかったからだ。
「名前を呼ぶ、約束だったではないか」
「そ、それは、二人のときで……」
「今は、二人きりではないか」
そんなはずはない。
今は春燕と雪梅がすぐ傍に居たはずだ。
だから、陛下と言う呼び方で間違ってないはずである。
そう思いながら、二人が居たはずの方へと目を向けたが、そこには誰も居なかった。
(あ、あれ……?ついさっきまで、確かに……)
同じ場所に居なくとも近くにいるだろうと、慌てて周囲を見渡したが二人の姿はどこにも見えない。
「う、うそ……いつの間に……」
晧月が二人きりだと言ったから、春燕と雪梅は晧月の意図を察し、慌ててその場から姿を消したのだが。
当然ながら、重華の知るところではないため、重華は予想外の事態におろおろすることしかできない。
「ほら」
「う……こ、晧月様……」
数日ぶりに口にするその名は、まだまだ呼びなれない。
満足そうに笑う晧月の前で、重華は顔が熱くなるのを止められなかった。
「あ、あの、それは……っ」
恥ずかしさに耐えていたのもほんの束の間、重華は慌てて立ち上がった。
なぜなら向かい側の椅子に置いていた人形を、晧月がひょいと持ち上げたから。
「ご、ごめんなさい。こういうの、子どもっぽくて、駄目、ですよね……?」
晧月の目のつくところに置いておくべきではなかったのかもしれない、と重華は不安になる。
「いや、そんなことはない」
当然ながら、後宮に人形を持ち込んではいけない、などという規則があるわけではない。
人形を持っていることは特に気にする必要はないのだと晧月に説明され、重華はほっと息を吐いた。
そして、晧月が持ったままの人形を受け取ろうと手を差し出してみたのだが、晧月はなぜかまじまじと人形を見つめていて、渡してくれる様子がない。
「あ、あの、晧月様……?」
「ああ、すまない。おまえに似ていると思ってな」
晧月はようやく差し出された重華の手に気づき、つい眺めてしまったそれを手渡した。
「似て、いますか……?」
渡されたそれを、重華もまたまじまじと眺めてみた。
丞相にも同じようなことを言われたが、やはり重華としては髪の色が同じなだけで似ているとは思えなかった。
「なんだ、似ているからそれにしたわけではないのか」
選んだのが丞相なのか、それとも重華なのか、晧月は知らない。
けれど、人形を見たとき、購入の決め手となったのはてっきり重華に似た姿だと思っただけに、晧月は少し拍子抜けしてしまった。
「違います、ただ、その……寂しそうだったから……」
「寂しそう?その、人形が?」
晧月はあらためてまじまじと見てみたが、人形は決して悲し気な表情で作られているわけではなく、寂しそうには見えなかった。
「この子以外は、みんな綺麗な黒い髪だったんです。きっと、みんな黒い髪のお人形が好きで、この子はずっと一人なのかなって思ったら……」
たくさん並ぶ黒い髪の人形の中に、ぽつんと一つだけ並べられた赤毛の人形。
きっと、黒い髪の人形ばかりが売れるから、赤毛の人形は一つしか置いていないのだろうと重華は思ったのだ。
もし、あの場で重華が選ばなかったら、この先も黒い髪の人形が次々と売れていく中で、一人だけずっとあの店に居ることになるのではないか、そう思うと、赤毛のせいで寂しい幼少期をすごした自身とどこか重なるような気がして、手に取らずにはいられなかったのだ。
「それは、違うんじゃないか?」
「えっ?」
「きっと、人気があったのは、赤みを帯びた髪の人形だったんだろう。だから、赤い髪の人形は、もうそれしか残っていなかったんだ」
「そ、そんなはずは……っ」
ない、とはっきり言い切ることはできなかった。
それは、決して重華が、そうかもしれない、と思ったからではない。
晧月の手が、重華の髪に触れ、一房掬い上げたことで、息をのんだからだ。
「あ、あの……」
「こんなに美しいんだ。皆、欲しがるに決まっているだろう?」
重華はまたしても、息とともに言葉を飲み込んでしまった。
(に、人形の、話、よね……?)
確かに人形の話をしていたはずだ。
それなのに、晧月はまっすぐと重華を見つめていて、重華は息苦しさを感じながら、しばし煩くなっていく自身の心臓の音を聞いていた。
「お茶っ!お茶、飲みますか!?」
結局、居たたまれなさに耐えかねた重華にできたのは、話題を変えることだった。
それでも、晧月はくすりと笑いながらも重華の髪から手を放してくれたので、重華はほっと息を吐く。
だが、先ほどまで人形が置かれていた椅子に腰をかける晧月を見ながら、重華はまだ試練は終わっていない、と思い知らされた。
(どうしよう、春燕さんも雪梅さんも居ないんだった)
お茶の用意をお願いしようにも、二人はいつの間にか姿を消してしまっている。。
一方で、使えといわんばかりに用意された茶器が、すぐ傍に置いてあった。
まるで自分でやれ、とでも言われているような感覚を覚えながら、重華はその茶器に手をのばすことしかできなかった。
「俺がやろうか?」
さすがに震える手で茶器を手にする重華がかわいそうになり、晧月はそう声をかけた。
そもそも、ここに春燕も雪梅も居ないのは、晧月のせいなのだから。
だが、重華はふるふると首を横に振る。
「だ、大丈夫です」
晧月ができることは、当然知っている。
淹れてもらったお茶がおいしかったことも、よく覚えている。
それでも、自ら皇帝にお願いする、という行為は気がひけて重華は緊張で震えながらも、なんとか自分でお茶を用意した。
本編完結まで、あと10話となります。
最後まで、お付き合いいただけますと嬉しいです。




