119. 決心
「儂が……?」
呆けた表情に間の抜けた声で、丞相がぽつりと呟いた。
そこに重華が期待した得意気な様子など微塵もなければ、この国の丞相らしい威厳も欠片も感じられない。
今、丞相が何を思っているのか、重華には察することができず、戸惑ってしまう。
「や、やっぱり、駄目でしょうか……?」
自身の考えが甘かったのかもしれない。
なんでもしてくれるようなことを言っていたが、やはりそこまで娘にするつもりはないのかもしれない。
そんな不安を抱えながら、重華が恐る恐る問いかけると、丞相はようやく我に返った。
「い、いやっ、そんなことはないっ!そう、そうだな、おまえには儂がいる。もう二度と冷宮に入れられるような事が、起きるはずなどないっ」
任せろといわんばかりに、丞相は自身の胸をどんっと叩いた。
しかし、その表情は重華が期待した得意気なものとは、少し違ったように見えた。
(なんだか、嬉しそう……?)
それは、重華の気のせいだったかもしれない。
だが、どことなく声が弾み、口元が緩んだ様子が、重華には喜びを抑えきれていないかのように映った。
「で、皇后には、なりたいのか?」
改めて問われ、重華はひゅっと息を吞んだ。
(そうだった、そういう話をしていたんだった……)
すっかり話が脱線してしまっていたことに、重華は今さらながらに気づかされた。
(どうしよう……)
話が脱線したことで少しばかり時間を置いたとはいえ、そんな僅かな時間で重華の中に答えが出ているはずもなく、重華がすっかり困り果て視線を彷徨わせていたそんな時だった。
『考えてみてくれないか。皇后になることを』
また、脳裏に晧月の言葉が浮かんだ。
(陛下……)
重華はぐっと両手を握り締め、真っ直ぐに丞相を見つめる。
「皇太后陛下の仰る通り、私は皇后に相応しいとは思えません」
「ああ」
「でも……陛下が望んでくださるなら……、私は、立派な皇后になりたいですっ」
丞相は顔には出さなかったものの、非常に驚いていた。
なぜなら、重華はきっと、皇后になりたいわけではないと言うだろうと思っていたから。
「お父様もやっぱり、何の勉強もして来なかった私には、相応しくないと思いますか?」
「過去にそういう皇后が、居なかったわけではない」
結局のところ、皇后を誰にするかは皇帝の意向次第となることが多い。
そのため現皇太后のように政治に明るい人物が皇后になる事例が多かったものの、過去には読み書きの全くできなかった娘が、皇后になった前例もあった。
「だが、本気、なのか……?」
問われて重華はこくりと頷いた。
「陛下にはいつも、貰ってばかりだったから。私でも、できることがあるなら、頑張りたいです」
そう思えたのは、後宮から離れることになるかもしれない、そう考えたからこそかもしれない。
貰ったのは、決して物だけではなかった。
重華に寄り添ってくれた優しい言葉や行動、それらを改めて思い返したことで、その全てに対して少しでも何か返したいという気持ちが沸き上がったのだ。
「わ、私、必要なら、これから一生懸命勉強しますっ!他にも、必要なことがあるなら、それもちゃんと頑張りますからっ」
「おまえが本気なら、儂には反対する理由などない」
丞相にとっても、娘が皇后であることは悪い事ではないし、かつてはそうなることを望んで娘を輿入れさせたのだ。
重華自身が本気で臨むなら、丞相にとっても願ってもない話だった。
「儂はただ、陛下が一人で推し進めようとしているだけで、おまえは望まぬだろうと思って反対していたにすぎん」
その言葉を聞いて、重華の表情はようやくぱっと明るくなった。
「じゃあっ」
「ああ。おまえを皇后に推してやろう。おまえが勉強したいと言うなら、よい教師もつけてやる」
今まで勉強をさせてやれなかった分、鈴麗につけた教師よりずっといい教師を見つけてやろうと丞相は考えを巡らせる。
自身の娘である、というだけで皇后になるには十分だと丞相は考えているものの、やはり周囲に舐められない程度の教養はあるに越したことはないだろうから。
「ああ、皇太后陛下のことは、心配せずともよい。陛下と儂がともにそなたを皇后に推せば、皇太后陛下もこれ以上反対することなどできぬであろう」
これまでも丞相と晧月が同じ意見であれば、皇太后は意を唱えることができなかった。
今回もきっと、引き下がってくれるはずだと、丞相は自信満々だった。
だが、その言葉は、重華の表情を一瞬にして曇らせてしまう。
(それじゃあ、駄目な気がする……)
晧月と丞相が押し通してしまえば、きっと重華は皇后になれるのだろう。
重華がそれを疑うことは、決してない。
けれど、それでは皇太后に認めて貰えたことにはならず、それでは意味がないように思えたのだ。
「お父様、お願いがありますっ」
「なんだ?なんでも言ってみなさい。どんなことでも、儂が必ず……っ」
「何も、しないでください」
「は?」
重華のためなら、どんなことでもしようと意気込んでいた丞相は、何もするなという言葉に理解が追いつかず、言葉を失ってしまう。
「皇太后陛下には、私からお話しさせてください」
「いや、だが、そんなことをしなくとも……」
わざわざ重華が面倒なことをしなくとも、晧月と丞相の意向さえ伝えれば話はすぐにでも終わるだろうと思っている。
だからこそ晧月は丞相の意向を聞いてきたはずだし、おそらくは娘を皇后にできるのだからと丞相に皇太后の説得まで任せるつもりだったはずなのだ。
「私は、陛下にも、お父様にも、皇太后陛下にも、きちんと認めていただきたいんです」
「それなら、儂が皇太后陛下を説得してだな……」
「それじゃあ、駄目なんですっ!」
重華からびっくりするほど大きな声が出て、丞相はまたしても言葉を失ってしまった。
「私が、自分で認めていただかないと、意味がないんです。だから、お父様は何もしないでくださいっ」
丞相が先に動いてしまえば、重華が話をする前に全てが終わってしまうだろう。
そうなれば、重華は一生、皇太后に自身の力で認めてもらう機会を得られないような気がして、重華は必死だった。
だが、その勢いは突然失われ、その瞳は不安そうに揺れ始める。
「あ、で、でも、その……もし、どうしても駄目だったら、その時は、助けていただけますか……?」
先程のようなことを言っておいて、虫が良すぎるかもしれない、とは思った。
けれど、重華はどうすれば認めてもらえるか、まだ何も考えられてはいないし、必ず認めてもらえるという自信もなかった。
そのため、頑張ってみても、やっぱり一人では駄目かもしれないという不安を拭い去ることができなかったのである。
「ああ、その時はいつでも連絡してきなさい。儂がなんとかしてやろう」
丞相としては、何もするなと言われるより、少しでも何か頼られる方が嬉しかった。
そのため、重華を安心させるかのようなその一言は、どこか弾んでおり喜びを隠しきれてはいない。
だが、重華はそんな丞相の様子には全く気づくことはなく、ただほっと安堵の息を吐き出した。
そして、ようやく、少し冷めてしまったお茶へと手を伸ばすことができたのだった。




