118. 懇願
「もう、ここに他に用はないのか?」
丞相は、重華の問いかけに答えを返すことなく、別の問いかけをしてきた。
せっかく勇気を出して聞いたのに、答えて貰えないまま終わってしまうのではないか、重華はそんな不安に襲われる。
「その話をするなら、ここじゃない方がいいだろう。他に用がないのなら、場所を変えよう」
確かに埃っぽい、離れの小さな部屋でする話ではないのかもしれない。
なかったことにはされていなかったことに安堵しながら、重華は頷いて丞相に従った。
(豪華な部屋……)
案内された場所は、重華がはじめて訪れた煌びやかな装飾品が多数並ぶ部屋だった。
ついきょろきょろと室内を見渡してしまう重華に対し、丞相はその中でも一際豪華な椅子に座るよう勧めてきた。
自分が座るのはなんだか恐れ多い気がしながらも、重華がそこに腰を降ろすと、丞相が向かい合って腰を降ろした。
そして、それを待っていたかのように、使用人が重華と丞相の目の前にお茶を出し、重華の前にだけ共に甘味も出された。
丞相は当然のようにお茶を手にしたが、重華は緊張からか目の前のお茶にも甘味にも手を伸ばす気にはなれなかった。
「あ、あのっ」
「おまえの問いに答える前に、一つ聞きたい。おまえは、皇后になりたいのか?」
「え……?それは、その……」
重華は、痛いところをつかれたようなそんな気分になった。
皇太后や丞相に反対されることが悲しいという気持ちは確かにある。
だが、賛成されたところで、ならば皇后になるのかと言われると重華の中でその答えはまだ出ていないのだ。
「やはり、陛下が望んでいるだけで、おまえは望んでいないのだろう」
鈴麗ならば、後宮に入ってさえいれば最も高貴な立場を望んだだろうと丞相は思っている。
母子ともに権力や金に執着したようなところがあったからだ。
一方で、丞相は正直重華の性格を鈴麗ほどよく知っている、というわけではない。
だが使用人として働いていた姿や、母である青蘭の性格を考えてみても、そういった立場を望むようには思えなかった。
「確かに、娘が皇后になればいいと思っていた。鈴麗を輿入れさせようとしたのも、そのためだ」
皇后の父となれば、皇帝である晧月と利害の一致から得た現在の地位を、より盤石なものにすることができる。
それに、他の家門に安易に皇后の座を奪われたくはないという思いもあった。
当時の丞相にとって、娘の存在はそのための道具でしかなかった。
「だが、おまえには望まぬことをさせる気はない」
「え……?」
「そもそも、輿入れだって儂が無理矢理させたものだ。おまえが望んだものではなかっただろう。すぐに、とはいかないが、近いうちに後宮からも出してやろう、待っていなさい」
丞相は、それが今まで辛い思いばかりさせてしまった重華に対し、少しでも償いになればと思ってのことだった。
だが、重華に喜ぶ様子など微塵もなかった。
「こ、後宮は、出られないって……」
ようやく絞り出した言葉は、丞相でさえその違和感に気づくほど震えていた。
重華は確かに晧月からそう聞いたのだ。だから大丈夫だと、自身に言い聞かせるように重華は震える手を握りしめた。
「安心しなさい。確かに本来はそうだが、儂がその気になればこの国でできぬことなど何もない」
晧月がこの場で聞いていれば、怒りに震えただろう言葉を、丞相は得意気に言ってのけた。
だが、その言葉は重華にとって、不安を覚えさせるものでしかなかった。
「たとえこの地位を失うことになったとしても、必ずや……」
がたん、と大きな音がして、丞相の言葉は不自然に途切れてしまった。
音の発生源は重華で、丞相はその姿を見て目を見開いた。
「何を……」
「お願いします。なんでもしますっ!だから、後宮に居させてくださいっ!!」
椅子に座っていたはずの重華はいつの間にか床に跪き、額を床に擦りつけるように頭を下げている。
「お願いします、どうか……っ」
そう言った重華の頭は下げられたままなので、丞相からは見えないが、その瞳には涙が溜まっており、今にも流れ落ちそうだった。
同時に、重華の脳裏には晧月にかけられた数々の言葉が浮かぶ。
『重華か、良い名だな』
『この先入れ替わることは許さぬ、よいな?』
重華自身を妃だと認め、名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
『明日、また来る』
そう言われるだけで、翌日が楽しみで仕方なかった。
『そなたが無事である事の方が大事なんだ』
大切にされていると感じられて、幸せだった。
『そなたの瞳は、宝石のように美しい』
『この赤みを帯びた髪も、美しいと思う』
何度も恨んだ自身の容姿を、少しだけ好きになれた瞬間だった。
『俺はおまえが好きだ』
『おまえが生まれてきたことに、感謝したい』
自分は必要な存在なのだと、言って貰えたような気がした。
そうして一つ一つ思い出すたびに、晧月の傍に居たいという思いが重華の中に沸き上がった。
「やめなさい、そのようなことをする必要はない」
丞相がそう声をかけ、立ち上がらせようと手を差し出す。
だが、重華はその手を取るどころか、頭を上げることさえしなかった。
「さっきも言っただろう。おまえが望まぬことをさせる気などない、と」
ようやく、重華の顔がゆっくりと上がり、涙に濡れた瞳が丞相を見つめた。
「皇帝の妃が、そのように簡単に頭を下げるものではない。ほら、立ちなさい」
そう言われ、重華はようやく丞相の手を借りて立ち上がり、再び豪華な椅子へと腰を降ろした。
「そんなに、後宮がいいのか?」
問われて、重華はこくりと頷いた。
「陛下に、よくしていただいているのだな」
重華はまたしても無言で、こくりと頷いた。
「だが、後宮は華やかなだけの場所ではないだろう。何が起こるかわからないし、常に安全とも限らない」
晧月がかなり重華を気にかけているようだ、とは丞相も思ってはいる。
きっと、後宮でもよい待遇を受け、よい暮らしをしているのだろうという想像もできた。
だが、丞相は後宮が穏やかに暮らしていけるだけの場所ではないと、よく知っている。
皇帝の寵愛を一身に受けたことで、妃嬪達から数多の悪意を向けられた妃もいれば、皇帝の寵愛を失ったことで、持っていたものを全て失ってしまった妃もいるのだ。
「おまえだって、冷宮に入れられたのだろう?」
それは、丞相にとって、まだ記憶に新しい出来事であり、今となってはどうして助けようとしなかったのかと悔やまれてならない出来事でもある。
「あ、それは、私がお願いしたことで、陛下は最後まで反対されてて……」
それもまた、丞相のよく知るところであった。
当時、一刻も早く重華を冷宮から出そうと日々頭を悩ませる様子を、間近で見ていた一人であるのだから。
しかし、あの状況では、一度入ってしまえばそう簡単には出て来られないだろうと丞相は考えていた。
それ故に、重華が思っていたよりずっと早く出てきたことに、非常に驚いたのもまた記憶に新しい事である。
「知っている。だが……」
「つ、次はないって、陛下はそう仰っていましたっ」
晧月は後悔しているようだったが、重華は微塵も後悔などしていない。
きっと、また同じような状況になれば、同じ選択をするだろうと思っている。
けれども、そのことが後宮に居られなくなる理由にはなって欲しくなくて、重華は必死だった。
だが、勢いでそう言ってみたところで、丞相はあまり良い顔をしてはくれない。
「先のことはわからぬ。次はもっと酷い目にあうかもしれん」
「そ、それでも、私はかまいませんっ」
進んで苦しい思いをしたいわけでは決してない。
それでも、後宮に居られなくなってしまう方が、今の重華にとってはずっと辛いことだった。
「もっと静かな場所で、穏やかに生活したいとは思わないのか?」
重華にはきっと、そういう場所の方が似合うだろうと丞相は思っていた。
だが、問われた重華は必死に左右に首を振っている。
「わかっているのか?次は、冷宮から二度と出られぬかもしれないのだぞ」
「じゃ、じゃあっ、お、お父様が助けてくださいっ」
重華自身、父親にこのようなことを言う日が来るなんて想像もしなかった。
それだけ必死だったというのもあるが、今の丞相ならこんな重華の言葉を邪険にはしない気がしたのである。
「さっき、お父様がその気になれば、できないことはないって……っ」
先程のように、得意気な表情で助けると言ってくれるのではないか、そんな淡い期待を抱いて重華は丞相を見上げた。
(あ、あれ……?何か、間違えた……?)
重華が見つめた先に、丞相の得意気な表情はなく、丞相はただ驚いた様子で重華を凝視するだけだった。




