117. 追憶
あれから、重華が泣き止むまでには随分時間を要したが、丞相は嫌な顔一つせず重華に付き添ってくれた。
その後、ようやく溢れる涙を止めることができたぐちゃぐちゃの顔で、重華はなんとか母の墓前で拝礼することができた。
今まで母のお墓の場所さえ知らなかった重華にとって、それはとても嬉しいことだった。
「また、来ても、いいですか……?」
問いかけながら、重華はきっと駄目だとは言われないだろうと心のどこかで感じていて、そんな重華の予想通り丞相が駄目だと言うことはなかった。
とはいえ、晧月の許しがなければ二度目が訪れることはないのだけれど。
それでも、もし晧月が許してくれるのなら、次は涙を流すことなくこの場を訪れたいと重華は思った。
(いつか、陛下と来てみたい)
それは、重華がもう一度訪れるよりも、さらに難しいことだとわかっている。
それでも、母の記憶のことでたくさん心配をかけた晧月に、いつかこの場所でもう大丈夫なのだと伝えたいと思ったのだ。
母のお墓参りを終えた重華は、勇気を出してある場所へ行きたいと丞相に訴えてみた。
聞いた丞相は決してよい顔をしなかったものの、重華がどうしてもと言えば断ることはしなかった。
「今さら、こんなところに、何の用があるというんだ」
その場に訪れて尚、よい顔をしないどころか顔を顰めてしまってはいるけれど。
「おまえがここを出てから、ここは使っていないどころか、まともに手入れもしていない。今さら足を踏み入れる必要もないだろう」
重華が行きたいといった場所は、長年重華が過ごした離れの小屋だった。
そこは、狭く小さく物もあまりない部屋だった。
今更そんな場所に用があると思えなかった丞相は、きっと外から少し部屋の中を眺めて終わるのだろうと考えていた。
だが、そんな丞相の予想に反し、重華は当然のように室内へと足を踏み入れた。
(変わってない……)
誰も足を踏み入れず、掃除もなされていないその部屋は、重華が最後に見た時より少し埃がたまってしまったようだった。
けれど、それ以外は何一つ変わらず、重華の中に残る記憶と全く同じだった。
その光景は、重華にあまり楽しくはない記憶ばかりを次から次へと蘇らせたが、それでも重華は目的の物を求めて一歩一歩と歩みを進めて行った。
「あ!あった!」
見つけたそれもまた、変わらない場所に、変わらない姿で無造作に置かれていた。
重華は床にしゃがみ込み、それを大切そうに持ち上げた。
「なんだ、それは……」
余程、気になったのだろう。
最初は共に中へ入ることを躊躇した様子だった丞相が、気づけば重華のすぐ後ろまで来ていて、重華が手にしたものを覗き込んでいた。
「お母様の、お裁縫道具です」
それが、どこから持って来られたものか、重華は何も知らない。
重華が知っているのは、母が重華とともにこの離れの小屋で過ごしていた時、この裁縫道具はいつも母とともにあったということだけである。
「私は着物を持っていなかったので、お母様がこの裁縫道具を使って作ってくれていました」
重華の姿を見て、居もしない赤毛の重華の父を想像して憎悪を募らせていた丞相は、重華の母の着物を用意することはあっても、重華の着物を用意したことなど一度もなかった。
そこで、重華の母が古くなった自身の着物を利用して、重華の着られる着物を仕立ててくれていたのである。
「青蘭が居なくなってからは、どうして、いたんだ……?」
問いかけた丞相の声は震えていた。
重華の母亡き後も、丞相は当然重華に着物を用意した記憶などない。
幼い頃に仕立てた着物など、すぐに着られなくなったはずである。
だが、その後重華がどのような格好で過ごしていたか、丞相は上手く思い出せなかった。
「以前、ここで働いていた方が、お裁縫を少しだけ教えてくださったんです。なので、使用人の皆さんの使わなくなったお古の着物を貰って、繋ぎ合わせて着ていました」
ぼろぼろになってしまった着物から、少しでも使えそうな部分を切り出して繋ぎ合わせて作ったのが、晧月も狼狽えるほどのみすぼらしい衣の正体である。
丞相はその衝撃の事実に、その場に座り込んでしまいそうなのをなんとか耐えた。
「その使用人は、今もここにいるのか?」
「いえ、高齢の方だったので、今はもう……」
重華の母が亡くなって数年後、老婆だったその使用人は引退をしてしまった。
この屋敷で重華に温かく接してくれた数少ない人物であり、立ち去る直前までしわしわの両手で重華手を握り、重華の行く末を案じてくれていた。
「そう、か……」
そっと箱を開け、中身を確認する重華を眺める丞相に押し寄せるのは、後悔ばかりだった。
たとえ自身の娘だと認められなくとも、愛する妻の娘なのだからともう少し面倒を見てやっていれば。
もしくは、いっそのこと二人をこの家から追い出してしまっていれば。
だが、そのどちらも当時の丞相にはできなかった。
本当は妻に似た容姿の重華を、鈴麗よりも可愛がってしまいそうになる自分が丞相の中には居たのだ。
だが、そうすると見知らぬ男に全て負けてしまうような気がして、結局より冷たくすることを選んでしまった。
一方で、追い出してしまっていれば、おそらく二人で重華の母の実家に身を寄せることができただろう。
丞相の家ほどではないが、それなりに裕福な家であったため、二人が何不自由なく生活できるよう面倒を見てくれたはずである。
しかし、それもまた、見知らぬ男の元へ行ってしまう想像しかできなくて、結局離れの小屋に閉じ込めるという選択をしてしまった。
そんな過去の自身の行動を、丞相がどれほど悔やんだとしても現実は何一つ変わってはくれなかった。
丞相は、もしその使用人が今もここ働いているのならば、引き合わせてやりたいと思った。
また自身の代わりに面倒をみてくれた人物でもあるのだから、何か褒美を与えてもよいとも思った。
それがせめてもの償いになれば、そんな思いもあった。
だが、すでにここに居ないとなると、探し出すことは至難の業であり、それさえも諦めるよりほかなかった。
「重華、その……」
「お父様、これ、私がいただいてもいいですか?」
丞相は、その場で頭を抱えて項垂れてしまいそうになるのを耐えながら、それでも何か重華に声かけなければと必死に頭を巡らせていた。
すると重華が、裁縫道具を抱えたまま突然振り返り、丞相の言葉はすっかり途切れてしまった。
「駄目、でしょうか?」
重華は裁縫道具を少し高く持ち上げて問いかけながら、やはり丞相から駄目だとは言われないような気がしていた。
「いや、好きにするといい。そもそも儂の物ではないし、青蘭もおまえが持っている方がきっと喜ぶだろう」
その裁縫道具は、丞相でさえ存在を知らなかったものだった。
丞相が買い与えた物ではなく、おそらく重華の母が嫁入りの際にわざわざ実家から持ってきたものだろう。
年季の入った様子から、長く大切に使っていた物をわざわざ持ってきていたのだと丞相は悟った。
「ありがとう、ございます」
自分の物になったそれを大事に抱え、重華はゆっくりと立ち上がる。
(今ならちゃんと、聞ける気がする)
同時に、きちんと答えても貰える、そんな予感が重華の中に芽生えた。
「お父様、聞きたいことがあります」
重華は自身の気持ちを整えるように、ゆっくり息を吸い込んだ。
「お父様は、私が皇后になるのは、反対なのですか?」
まだ、答えを聞けたわけではない。
けれど、ようやく聞くことができたことに安堵し、重華はゆっくりと息を吐き出した。




