116. 墓前
その日、重華ははじめて丞相の屋敷に部屋を貰った。
これまで過ごしてきた離れの小屋ではなく、丞相が暮らし、かつては鈴麗とその母も暮らしていた本邸に。
(豪華な部屋……)
どこもかしこもきらきらしている、それが貰った部屋に対する重華の最初の印象だった。
全体的に物が少なく、落ち着いた雰囲気の琥珀宮よりも、ずっと煌びやかに思えた。
だからだろうか、部屋に通されてから、重華はずっと落ち着かなった。
(部屋なんて、今さら貰っても……)
もう二度と、帰って来ないかもしれないのだ。
そう考えると、ただただもったいない、と思ってしまう。
さらに丞相は、滞在期間中、専属の世話係までつけてくれた。
春燕も雪梅も居ないこの状況ではありがたいと思う一方で、元々はここで働く使用人たちのお手伝いをし、対価として食事を分けてもらっていたことを考えると、少し変な感じがした。
「こ、こは……?」
翌日、連れて行きたい場所がある、と重華はまたしても丞相に連れ出された。
慣れない場所で寝付けないかもしれない、昨夜はそんな心配もしていたが、上質な寝具のおかげか、それとも疲れていたからか、気がつくと人形を抱きしめてぐっすりと眠ってしまっていた。
そして、昨夜ともに眠ったその人形を、つい抱いたまま連れてきてしまったけれど、丞相は微笑まし気に眺めるだけで何も言わなかった。
またどこかの店に連れて行かれるのだろう、そう思いながら丞相について来た重華は、全く予想と異なる場所に辿り着いたことに戸惑いを隠せない。
「青蘭の墓だ」
「お、母様、の……?」
母が亡くなった日のことは、重華は今でもよく覚えている。
けれど、その後亡骸がどのように埋葬されたのか、重華は全く知らなかった。
重華は当時、ただ必死に丞相に助けて欲しいと伝えに行き、そして母はすでに死んでいてもう助からないのだと知らされただけだった。
「こんなところに、あったんですね」
「ああ。ここは、他にも我々の先祖が眠っている場所だ」
それは、つまり、ここは蔡家の墓地であるということだ。
重華の母は、重華が生まれて以降はずっと酷い扱いを受けていたけれど、死後はちゃんと一族の者として扱われ埋葬されたということになる。
しかし、だからといって、重華はそれを喜ばしいこと、とは思えなかった。
(お母様はここに埋葬されたことを、喜ばれただろうか……今も、私をお恨みなんだろうか……)
墓前で拝礼することすら、嫌がられるかもしれない。
重華はそう考えてしまって、つい一歩後ろに下がってしまった。
だが、丞相はそんな重華の行為を違った意味に捉えたようだった。
「あの日のことは、陛下から聞いた」
「あの、日……?」
なんのことを言っているのか、重華にはわからない。
だが、首を傾げてみたところで、丞相から明確な答えは返ってこなかった。
「儂のことは、一生恨んだまま、許さなくてもかまわない。だが、青蘭のことは、許してやってくれないか?」
「許すって、何を……?」
やはり重華には、丞相の言うことがさっぱりわからなかった。
(むしろ、許してもらうべきなのは、私の方なんじゃ……)
今まさに、今も恨まれているのだろうと考えていたところである。
その上、ここで必死に頭を下げたとしても、その行為すらさらに母からの恨みを買ってしまいそうな気がして、重華は許される想像さえできないでいる。
だが、そんな重華の心情を知らない丞相は、重華の疑問に答えることなく話を続ける。
「青蘭は、本当に優しい女性だった」
丞相の言葉を、重華は否定しなかった。
優しかった母の記憶が、重華の中にはしっかりとあるから。
辛く当たられるようになっても、時折優しさを見せてくれることはあった。
だからこそ、重華は母に恨まれていると思うことはあっても、母を恨む気持ちはないのだ。
「きっと、あの日、そなたを傷つけたまま逝ってしまったことを、ずっとあの世で後悔し続けているはずだ」
ようやく、重華は丞相の言う『あの日』を理解した。
「そ、そんなはず……っ」
脳裏に母の最期の姿が浮かび、重華はぎゅっと目を閉じた。
だが、視界が真っ暗になっても、母の姿は消え去ってはくれず、縋りつくように人形を強く抱きしめる。
「青蘭は、そなたが生まれるのを本当に楽しみにしていたし、そなたのことを本当に大切に想っていた。そなたを傷つけようなどと、思っていたはずがない」
「そ、れは……知らなかったから……私が、こんな姿で生まれてくるなんて……っ」
「ちがう、そうではない」
重華は知らなくとも、丞相は今も鮮明に覚えている。
生まれたばかりの重華を幸せそうに抱いていた、重華の母の姿を。
そして、重華よりも重華の母をよく理解している自信もあった。
だからこそ、その笑顔を壊したのは、決して重華の髪色ではなく、それを元に重華の母を疑った丞相だったというのも痛いほどよくわかっているのだ。
「ただ、儂の所為でおかしくなってしまっただけなのだ。きっと、今も自分を責めていることだろう。どうか、青蘭だけは許してやってくれないか?」
重華は目を見開いた。
丞相が、深々と頭を下げて見せたから。
「ほ、んと、う、に……?」
発した声は、重華自身も驚くほど震えていた。
「お母様は、私を、お恨みなのでは、ないのですか……?」
問いかけたところで、本人からの返答はもう得られない。
それがわかっているのに、重華は問いかけずにはいられなかった。
「おまえは何も悪くないのだ。それなのに、青蘭がおまえを恨むはずがないだろう」
「わ、私が、ここに来たこと、嫌がって、いないでしょうか……?」
「そんなこと、あるはずがない。とても喜んでいるはずだ」
「拝礼することを、怒ったり、しないでしょうか……?」
「それも、ありえない。喜ぶに決まっている」
重華の身体から、ふっと力が抜けていった。
腕から落ちてしまいそうになった人形は、なんとか抱えなおしたものの、足の踏ん張りはきかずぺたりとその場に座り込んでしまった。
それは、決して、本人からの返答ではなかった。
丞相の想像でしかなく、それが正しいという保証もなければ、確かめることもできない。
それでも、恨まれてはいないのかもしれない、そう思えるだけで重華の瞳からは涙が溢れた。
(また、お父様の前で……っ)
重華には、泣くつもりなどもちろんなかった。
何より、できることなら、丞相の前では二度と泣きたくないとさえ思っていたくらいである。
それなのに一度流れ出した涙は簡単には止められないばかりか、丞相が優しく重華の頭を撫でることで、さらにその勢いを増していってしまう。
「あの日、青蘭が恨んだのはおまえではなく儂だった。きっと、儂のせいでおまえに何もしてやれないことが、青蘭を追い詰めたのだ」
重華の誕生日の前日、きっと重華に何ができるか一生懸命考えただろう。
そんな妻の姿が、丞相には容易に想像ができた。
だが、当時は、丞相の所為で、誕生日だからと何か特別なことをできる境遇にはなかったのだ。
その事実が、元々病んでいた重華の母の心を、さらに蝕んでいってしまい、最悪の結果を選ばせてしまったのだ。
晧月から話を聞いた丞相は、そう確信していた。
「だから、おまえはもう、自分を責めないでくれ」
以前の丞相からは考えられないほどの、優しい声だった。
そうして、またしても優しく頭を撫でられるのを感じると、重華はもうどうすれば涙を止められるのかわからなかった。




