115. 蟠り
やっぱり、甘いものを食べると幸せな気分になれる。
運ばれてきた胡麻団子を一口食べた重華は、そう思った。
(おい、しい……)
丞相の手前、言葉に出すのは憚られた。
それでも、優しい甘さが疲れた身体に染み入るようで、頬が緩み笑みが漏れるのは止められなかった。
(これが、お母様の好きだった食べ物なんだ……)
思えば、重華は母の嗜好など、ほとんど何も知らなかったし、気にしたことさえなかった。
それが母が亡くなった今になって、あらためて知ることになるなんて、想像もできなかったことである。
「ここには、お母様と来られたことがあるんですか?」
特に丞相と会話を楽しむつもりなんてなかった。
けれど、母が好きだったという胡麻団子を眺めていると、重華はなぜだかどうしても聞いてみたくなった。
「ああ、おまえが生まれる前には、二人でよく来ていた」
重華が生まれてからはきっと、二人で出かけることすらしていなかっただろう。
やっぱり、自分さえ生まれて来なければ、母は今でも幸せな時と過ごしていたのかもしれない。
そう考えると、それ以上胡麻団子を食べ進める気にはなれなかった。
「儂は甘いものがあまり好きではなかったが、こうして茶を飲みながら、青蘭が幸せそうに食べるのを見るのが好きだったんだ」
そう言った丞相は、かつて重華を怒鳴ってばかりだった姿からは想像できないほどの穏やかな笑みを浮かべている。
けれど、その表情は重華の心までは穏やかにはしてくれず、重華はますますだったらどうして、という思いを強くするだけだった。
「おまえは本当に、青蘭によく似ている」
重華をまじまじと眺めながら、丞相は懐かしむようにそう言った。
しかし、重華はあまりそうだとは思えなかった。
母親の顔は、ぼんやりとしか思い出せないし、髪の色のこともあって、これまで父親にも母親にも似ていると感じることはあまりなかった。
(そういえば、お母様はお父様に似ているって、仰っていた気がする……)
幼い頃の朧げな思い出だった。
母は何度も、重華は丞相に似たところがあるから、間違いなく丞相の娘なのだと言っていた。
「その人形……」
甘味を食べる間は抱えていられないから、と重華の隣に座らせた人形。
丞相の視線がそちらに映り、重華も覗き込むように隣を見た。
「それを買った店は、おまえの母が、いつか娘が生まれたらここで人形を買ってやりたい、と話していた店なんだ」
「えっ?」
「着物を仕立てに行った店も、昔、青蘭の着物をよく仕立てていた店だ」
重華は驚きのあまり息を吞んだ。
そういったことを一つ一つ丞相が覚えていることにも驚きだったし、重華が今日訪れた場所が全て両親の思い出のある場所になるというのもまた驚きだった。
重華は二人が一緒にいる姿を見たことがないため、そうやって二人であちこち出かけていた姿を、話を聞いても上手く想像できなかったから。
「じゃあ、奥様や、鈴麗も……?」
重華の母が着物を仕立ててもらっていた場所なら、鈴麗はその母とも訪れていても不思議ではないと思った。
けれど、丞相はすぐに首を横に振った。
「いや、あいつらは金遣いが荒いし、新しい着物も頻繁に欲しがるからな。あのような高級な品しか置いていないような場所に連れて行ってしまえば、さすがに我が家が破産する」
言われてみれば、頻繁に新しい着物を目にした気がする、と重華は思った。
いくらこの国の丞相といえど、無限にお金が沸いて出るわけではない。
あれほど頻繁に新調できたのは、あくまで質がそれなりだったから、ということなのだろう。
「お母様は、よかったんですか?」
「ああ。一つの着物を大切に、長く着ようとしてくれる女性だった。だからこそ、最もいいものを贈りたい、と思ったのだ」
重華の母は、物持ちもよかった。
質の高い品ばかり贈っても、長く使ってもらえるため、贈りがいがあったし、結果的に鈴麗や鈴麗の母ほどの浪費にもならなかったのである。
「も、もし、私が、鈴麗みたいに、お父様が破産してしまうくらい、着物を欲しがったら……」
丞相は知らないはずだ。
重華が母のように物を長く大切にするか、それとも鈴麗のように次から次へと新しいものを欲しがるか。
それなのに、安易に母と同じ店に連れて行ってよかったのか、重華は疑問に思った。
一歩間違えば、破産しかねない、それを考えられないような人ではないはずだから。
「かまわん」
「え……?」
丞相は即答した。
何の迷いもなく言い切った姿に、重華はまたしても驚く。
「今まで随分と酷いことをしてしまった。その分、これからは儂にできることなら、なんでもしてやるつもりだ。そのために、今の地位も、名誉も、富も、全て失ってもかまわん」
地位も、名誉も、富も、丞相が何よりも大事にしてきたものだと重華は思っている。
それを自分のためなら全て捨てられると言っているのが、他でもない自身の父親だということが、重華は信じられなかった。
「おまえが望むなら、さっきの店ごと買い取ってやってもいいくらいだ」
さすがに重華は望むつもりはない。
けれど、皇宮でも見られないような品がたくさん並ぶ店である。
もし望んでしまったら、いくらこの国の丞相といえど家が傾いても不思議ではないだろう。
「儂には、それくらいしか、してやれんからな」
丞相には、娘の望むことも、愛情の注ぎ方もよくわからない。
思いつく限りの自分にできることが、持っているものの全てを娘のために使うことだった。
「しかし、好みまで似ているとは驚いたな」
「えっ?」
何かは思い出すように、丞相が呟いた。
重華はすぐには丞相の言葉の意味を理解できなかったが、少し遅れてあることを思い出す。
『おまえも、このような品を好むのだな』
仕立て屋で生地を選んだ時、丞相が言った言葉だった。
「青蘭も、ああいう品を好んでいた」
その丞相の言葉が、今重華の中に浮かんだものを、肯定しているようだった。
(あれは、お母様も、ってことだったんだ……)
そんな些細な母の好みまで、本当によく覚えていて、重華は本当に驚かされてばかりだった。
「お母様のこと、本当にお好きだったんですね」
「ああ」
「だったら……っ」
つい勢いでどうして、と言いかけて、重華はその言葉を飲み込んだ。
聞いたところで、結局は何も変わらないし、不毛だと思ったから。
「ごめんなさい、なんでもないです」
「言ってみなさい」
丞相の声も、表情も、どこまでも穏やかなものだった。
けれど、幼い頃からの刷り込みによるものだろうか、重華は逆らってはいけないような気分になってしまう。
「どうして、お母様の言葉を信じてくださらなかったんですか?私は、お父様の子どもだって、お母様は何度も……っ」
丞相の表情が、何かに耐えるかのように歪む。
促されるままに言ってしまったが、やはり言うべきではなかったかもしれない、と重華は思った。
「言い訳にしかならないが、青蘭は本当に儂にとって、誰よりも美しいと思う女性だった。だからこそ、いつも、いつか誰かに奪われるのではないかと不安でもあった」
地位や名声、富といったものでは、その辺の男になど決して負けないという自負が、当時からあった。
だが、重華の母はそういったものに執着するような人ではなかったため、それだけで繋ぎとめられるとは思えない。
当時の丞相には、ずっと重華の母に思いを寄せてもらえる自信がなかったのだ。
「青蘭の妊娠がわかってすぐのことだった。玉慧が、青蘭が夜な夜な出かけて誰かと会っていたようだ、と言い出してな」
「奥様が……」
「だから妊娠したのは、儂の子ではないかもしれない、と。もちろん、儂も最初からそんな話を信じたわけではなかったが……」
重華の母に限って、そんなことはありえない、最初のうちはそう考えられたし、相手にもしなかった。
何度も、何度も、同じようなことを言われるたびに、気づけば丞相は自信のなさもあって、もしかしたら、とほんの少しだけ考えてしまうようになっていた。
それも今思い返せば、全て鈴麗の母による策略で、丞相は愚かにもはまってしまったということなのだと丞相は理解している。
何より、重華の母が心配で、簡単には外へと出かけられないようにしていたのは他でもない丞相だった。
今思えば、屋敷の警備の者たちの目を盗み、重華の母が夜な夜な出かけられたとは考えにくい。
だが、当時の丞相には、そのような判断ができる冷静さが欠けていたのだ。
「おまえの髪の色を見た時、やはり青蘭には他に男が居たのだと思ってしまったのだ。居てもおかしくないほど、魅力的な女性だと思っていたからこそ、尚更……」
「で、でも、調べたら、簡単にわかることだったのに……」
「情けない話だが、怖かったんだ。はっきりと私の子ではないとわかってしまうことが。どちらかわからないままなら、まだ耐えられる気がしたんだ」
それも、今となっては、調べておけばそれ以上疑う必要もなく、幸せに過ごせただろうと丞相も思う。
だが、当時の丞相には万が一違うという結果が出た場合、それを受け止められる気がしなかった。
他に男がいるかもしれない、そう思っても尚、その男に重華の母を奪われたくなくて、丞相は重華の母を追い出すことさえできなかったのだから。
「本当に、情けない父親ですまない」
そうして頭を下げられると、それ以上は何も言えないと思ってしまう。
だからといって、すっきりとした気持ちになれたわけでもなく、重華はやはり聞くべきではなかったかもしれないと思った。




