114. 困惑
(疲れた、帰りたい……)
できることなら、丞相の家ではなく後宮に。
そして、雪梅に暖かいお茶を淹れてもらって、春燕に甘いものを用意してもらいたい。
皇宮を離れて、まだ一日と経っていないはずなのに、早くも琥珀宮での日常が重華は恋しくてたまらなかった。
あの後、もう1つ選べば終わるという重華の予想に反し、丞相は計10枚も反物を選び、その全てを重華の寸法にあわせて仕立てるよう話をつけてしまった。
重華が恐ろしいと思うのは、この10枚というのは、丞相が妥協した結果だということである。
それはそれは楽しそうに選んでいた丞相は、重華が止めなければ、さらに多くの反物を選んで仕立てさせたことだろう。
いくらなんでもそんなに必要ない、重華が何度もそう訴えたことで、ようやく10枚で妥協してくれたのだ。
(本当に、何を考えているのかわからない……)
機嫌良さそうに店を後にする丞相とは対照的に、重華はすっかり疲れ果てた表情を浮かべていた。
だが、丞相の奇妙な行動は、これで終わってはくれないらしい。
重華の心情などまるで届いていないらしい丞相は、意気揚々と次の店へ向かっていた。
「さぁ、重華、どれでも好きなものを選びなさい」
「えっ?」
連れて来られた店は、先ほどの店からそれほど遠くない場所にあった。
だが、たいした距離を歩いていないはずなのに、重華はたくさん歩いてようやく辿り着いたかのような錯覚を覚えていた。
(今度はなに?)
目の前に並ぶのは、たくさんの人形だった。
着せられている着物も、表情も、人形によって異なり、同じものは一つとしてないようである。
人形など手にしたことのない重華は、着物と違ってその価値はさっぱりわからず、高価なものかどうかさえ見当がつかない。
「どうした?欲しかったのだろう?」
その一言で、重華はようやく丞相の一連の行動を少し理解できた気がした。
(あの時、私があんなこと言ったから……)
思い出されるのは数日前、子どものように泣き叫んでしまった日のこと。
重華にとっては、できることなら記憶から抹消したいと思うほど恥ずかしい出来事でもある。
綺麗な着物も、かわいいお人形も、その時、ぐちゃぐちゃの頭で吐き出してしまった、幼い頃に抱いていた願望の一つである。
(今さら、こんなことされても……)
幼い頃は一着も持っていなかった着物も、今は晧月のおかげで季節にあわせて様々用意されている。
人形だって、欲しかったのはあくまで幼い頃であり、今の重華に必要なものではない。
だが、頭ではそう思っているのに、心の片隅に喜んでいる自分を見つけて重華は戸惑った。
今この瞬間も、目の前に並ぶ人形のうちの一つが、自分のものになるかもしれないと考えるだけで、重華は嬉しいと思ってしまっている。
「気に入ったものは全て買ってやるから、好きなだけ選びなさい」
ここでも、丞相は決して一つだけ選ぶことを想定しているわけではないらしい。
(そんなこと言って、私がお店にある人形全部、なんて言ったらどうするつもりなの……)
重華にそんなつもりは全くない。
ただ、そんなことでも考えていないと、嬉しさのあまり頬が緩んでしまいそうだっただけである。
もちろん、全部と言ったところで丞相は喜んで全て買うつもりなのだが、重華はそんなことは予想すらしていない。
(あ、この子……)
たくさんの人形が並ぶ中、重華の目についたのは、重華と同じ赤毛の人形だった。
その他の人形は全て漆黒の髪だったこともあり、一際重華の目を惹いたそれを、重華はおそるおそる抱き上げるように手に取った。
「おお、それがいいのか?」
重華が手に取った人形を、丞相は覗き込むかのようにまじまじと見つめてくる。
なんだか、自分がじろじろと見られているような気がして、重華は居たたまれなかった。
「ふむ……こうして見ると、そなたにそっくりだ」
そう言われ、重華はあらためて人形をじっくりと見た。
(髪の色が同じだから、そう見えるだけなんじゃ……)
さすがにかわいらしい人形の顔立ちまで、重華に似ているとは思えなかった。
それでも、あえて否定する必要性も感じなくて、重華はそのことについては何も触れず、ただ無言で手に取った人形を丞相に差し出した。
(どうしよう、こんなにも嬉しいなんて)
店と出ると、重華はぎゅっと買ってもらったばかりの人形を、強く抱きしめた。
この歳になって人形を抱えて歩くなんてきっとおかしい、そんな考えも頭の片隅には浮かんだものの、今の重華には腕の力を少し緩めることすら難しかった。
「他に行きたいところはあるか?」
着物も買って、人形も買って、これ以上は何も思いつかなくなったといったところだろうか。
丞相は、ようやく重華に意見を求めてきた。
「それなら、甘いものが食べたいです」
疲れたし、甘味でも食べながらゆっくりお茶をしたい、そんな気持ちも確かにあった。
だが、これは重華にとって、精一杯の嫌がらせでもあった。
なぜなら、昔、丞相は甘いものがあまり好きではないらしいという話を、使用人たちから聞いたことがあったから。
しかし、きっと嫌がるだろうという重華の予想は、見事に外れてしまった。
「おお!それなら、いいところを知っておる!連れて行ってやろう!」
困った様子もなければ、怒るわけでもない。
ただ嬉しそうに胸を叩いてみせる丞相の姿に、むしろ戸惑い困惑の表情を浮かべたのは重華の方だった。
(こんなはずじゃなかったのに……)
生き生きとした様子で次の店へと案内する丞相を見ながら、重華は小さくため息をついた。
(落ち着かない……)
丞相が重華を連れてきたのは、人通りの少ない場所に店を構える小さな茶館だった。
机を挟んで向かい合って座ることになり、少し後ろを歩いたり、隣に立っていた時よりも居たたまれなさが増すような気がして、重華は自身の発言を後悔し始めていた。
終始機嫌のよさそうな丞相は、視線を逸らすことなくずっと重華を見ている。
それが、より一層、重華を落ち着かない気持ちにさせた。
「ここは、そなたの母、青蘭のお気に入りの店だったのだ」
「えっ?」
重華は驚いた。
丞相が、母のお気に入りの店を知っていることも、そこへ重華を連れてくることもあまりにも意外だったから。
なにより、重華自身、母からそんな場所があったなんて聞いたこともなかったし、甘いものを食べるような人だったことさえ知らなかった。
「きっとそなたも気に入るだろう」
どこか懐かしそうに店内を見渡す丞相を見ると、重華はまた落ち着かない気持ちになる。
「なんでも、好きなものを頼みなさい」
お品書きに書かれた文字は、なんとか読めるものもあった。
だが、種類も多く、知らない名前もあったりで、重華はどれがいいのかさっぱりわからない。
「お母様は、いつも何を頼んでいたのですか……?」
「ふむ、季節によっていろいろだったが……一番のお気に入りは、胡麻団子だったはずだ」
思いのほか、丞相が母の好みをよく覚えていたことに重華は驚いた。
それほど、母は丞相にとって大切だったのかもしれない、そう思うと同時に、だったらなぜ信じてもらえなかったのだろうという思いが強くなってしまう。
今さらそんなことを考えたところで、過去が変わるわけではないと、わかっているはずなのに。
「私も、その胡麻団子を食べてみたいです」
重華はただ、母が好きだったというものに、少し興味を持っただけ。
何を頼むか迷っていたから、選択肢としてもちょうどよかった、ただそれだけのこと。
それなのに、丞相がびっくりするくらい嬉しそうに笑うから、重華はますます落ち着かない気持ちになった。




