113. 再来
(こんなはずじゃ、なかったのに……)
隣にいる丞相を見上げながら、重華は先日と同様の思いを抱えていた。
子どものように泣きじゃくる姿は、今隣にいる父にはもちろん、晧月にも、春燕にも、雪梅にもしっかりと見られてしまったわけで。
一通り泣き終えて、さらにはすっかり眠ってしまった後、我に返った重華はしばらく誰にも会いたくないとさえ思うほどの恥ずかしさに襲われた。
だが、ありがたいことに、誰もそのことに触れてくることはなく、今まで通りに接してくれたおかげで、重華もすぐにいつも通りに振る舞えるようになった。
しかし、一方で、重華の知らないところで、別の話が進んでいた。
それは丞相からの申し出によるものだったそうで、晧月の返事は重華がそれを望むなら了承する、というものだったと重華は聞いている。
晧月としては、重華がそれを望むことはないと考えての判断だったのだが、それは重華の知るところではなかった。
未だ目的を果たせていなかった重華は、晧月の予想に反し、それも必要かもしれないと丞相の申し出を受け入れてしまったのだ。
その丞相からの申し出、というのが重華を里帰りさせる、というものだった。
本来なら後宮入りした妃嬪に簡単に許されるものではないが、重華が頷いてしまったが故に、皇帝が特例として許可を出すという形で承認されてしまったのである。
重華の傍には今、晧月も、春燕も、雪梅もいない。
ただ、なぜだか非常に楽しそうな丞相が、傍にいるだけだった。
「あのっ」
「ん?これはどうだ?」
勇気を出した重華の呼びかけは、機嫌の良さそうな丞相の声にあっさりとかき消された。
楽し気なその手には、一枚の布がある。
どうだ、と問われても、ただ非常に高そうだという感想しか重華にはなかった。
「これは気に入らないか。では、こっちはどうだ?これほどの品となれば、皇宮にもなかなかないだろう」
うきうきとしながら別の布を手にした丞相は、重華の身体にその布をあてようとした。
だが、そんな高価な品物、万が一にも汚してしまったら恐ろしいと、重華は慌てて身を引いた。
その行動を、丞相は違う意味に捉えたらしい。
「これも駄目か」
そう呟くと、他の布を探し始めてしまった。
皇宮を出てから、丞相の家に辿り着くまで、それほど時間はかからなかった。
だが、馬車の中では丞相と二人きり、輿入れの時とは比べ物にならないほどの良い馬車に乗せられたが、重華は息が詰まりそうでとても長く感じた。
そうして、ようやく辿り着いた家、そこで一息つくのかと思いきやそんなことはなく。
使用人たちに荷物を運び入れさせるのを横目に、重華は時間が惜しいとそのまま町へと連れ出されてしまったのだ。
そうして連れて来られた仕立て屋らしき店、高そうな反物を手にしては意気揚々と重華に差し出してくる丞相の隣で、重華はただただ戸惑いの表情を浮かべることしかできない。
(何を考えていらっしゃるんだろう……)
重華が丞相の提案に頷いたのは、その方が今度こそ目的を果たせそうな気がしたからである。
間違っても、並んで高価な反物を眺めようなんて考えてもいなかった。
そのため、目の前で次から次へと高価な反物を手に取って眺める丞相の意図が、さっぱりわからなかった。
「あ、あのっ」
もう一度勇気を出して発した声は、今度はかき消されることなく丞相に届いた。
だが、嬉しそうに振り返る丞相と目があうと、呼びかけたものの何を言えばいいかわからなくなりそうだった。
「どうした?気に入るものが見つかったか?」
「い、いえ……」
見つかるどころか、そもそも重華は探してすらいない。
「なんでも、好きなものを選んでいいんだぞ?」
そもそも、何のために連れて来られたかすら知らない重華からすれば、初耳である。
「え、選んで、どう、するんですか……?」
「もちろん、そなたの着物を仕立てるに決まっているだろう」
丞相の中では、当然のようにそう決まっているらしい。
だが、重華の中では驚くべき事実である。
重華は居心地の悪さを覚えながら、視線を彷徨わせた。
(そんなこと言っても、こんな高そうな生地の着物なんて、鈴麗だって仕立ててもらってなかったのに……)
後宮に入り、晧月から着物を贈られることがなければ、重華は一生鈴麗の着ているものが最上級だと信じて疑わなかっただろう。
だが、今の重華は、鈴麗が着ていたものよりも一目で上質だとわかるような着物が存在することを、よく知っている。
なぜなら、今では毎日そういう着物ばかりに袖を通しているからだ。
だからこそ、店に並ぶ生地がどれも重華が後宮で着ている着物と遜色ない、もしくはそれ以上の上質なものばかりだというのがよくわかる。
丞相の言うように、皇宮でもなかなかお目にかかれないような高級品まで取り扱うこのお店には、逆にお手頃な価格のものは何一つ置いていないように思えた。
「わ、私、その、着物は別に……」
後宮に戻れば、晧月に貰った着物がたくさんある。
今の重華は、着る物に困ったりはしていない。
新たな着物を仕立てる必要性など、重華は感じていない。
しかし、丞相との意思疎通はなかなかに難しいようで、またしても丞相は違う意味に捉えてしまったようである。
「ここには、おまえが気に入るような品はないか?」
そんな丞相の問いかけとともに、店内の片隅で所在なさげに立っていた店主らしき人物が顔を青くするのが、重華の視界の端に映り込んだ。
もし、そのことに気づくことがなければ、重華は着物を作る必要もないからと丞相の言葉に頷いて店を出ようとしただろう。
しかし、店主の様子を見てしまった今、そうして出てしまってはいけないような気がした。
「お、お嬢様、こちらはいかがですか?あ、こちらも他ではなかなか見られない珍しいものでして……」
重華は心の中でひぃっと悲鳴をあげ、一歩下がった。
必死な形相の店主が、いつの間にか重華の傍まで来ていて、特別高そうな生地ばかりを広げて差し出してくるようになったから。
声をあげなかったことを褒めてほしい、と思うほど重華の心臓は煩く音を立てている。
(お父様も、この人も、重華が何か選ぶまで引き下がってはくれなさそう……)
あいかわらず目の前の父親の考えは読めないが、それだけは間違いなさそうだと重華は思った。
とりあえず、何か選んでしまって、早くこの奇妙な状況を終わらせてしまおう、そう思って重華はきょろきょろと再び視線を彷徨わせる。
すると、ある生地に目がとまった。
派手な柄や刺繍が入っているわけではないが、生地そのものがきらきらと輝いているような気がして、一際重華の目を惹くものだった。
「あ、あの、これで……」
おそるおそる目に留まった反物を手に取り、おずおずと丞相へと差し出す。
すると、丞相は驚いたように目を見開いた。
(ひょっとして、これは駄目だったのかしら……)
無言でじっと生地を見つめる丞相の様子に、重華は不安を覚えずにはいられない。
だが、しばしの無言の後、丞相が穏やかな表情で反物に触れるのを見て、重華は機嫌は損ねていないらしいとほっと息を吐いた。
「おまえも、このような品を好むのだな」
「えっ?」
思ってもみない一言に、重華は驚きの声をあげる。
(私、も……?)
他にも誰か、という疑問を抱いたが、重華にはそれを問う勇気はなかった。
「よし、一つはこれにしよう。他はどれがいい?」
終わった、と思い込んでいた重華は、まだ選べと言わんばかりの丞相の言葉にぎょっとする。
(二つも選ばないといけないの!?)
一つ選んだだけで、疲労感すら感じていた重華にとって、その事実はあまりに衝撃的で困り果てる。
「あとは、その……お父様が選んでくれませんか……?」
「おお、そうだな。よし、この父がおまえに似合うものを選んでやろう。任せておけ」
しまった、また父と呼んでしまった。
重華はそう思ったけれど、いつものように丞相の怒号が響くことはなかった。
むしろ父と呼ばれたことを喜んでいるようにすら見えるのが、重華に妙な違和感と複雑な思いを抱かせた。




