109. 悲哀
走り去ってしまった重華に、晧月が追いつくことはなかった。
すぐに追いかければ、追いつくことは非常に容易なことだったはずだと晧月は思っている。
だが、慌てて追いかけようとしたところで、晧月は重華がその場に落としていった包みに気づき、それを拾い上げて確認していたため少しばかり遅れをとってしまった。
けれども、それだけならば、やはり簡単に追いつくことができただろう、と晧月は思っている。
追いつくことができなかった一番の要因は、強い力で晧月の歩みを止めた志明の手である。
「放せ」
一際低い声を放ち、晧月は志明を睨みつけた。
だが、志明は怯むこともなければ、その手を放すこともなかった。
「志明っ!!」
振り払おうにも、残念ながら晧月は武芸においては志明に勝てた試しなどなく、びくともしなかった。
それがより一層晧月を苛立たせ、声をとげとげしいものにさせたが、それでも志明の様子が変わることはない。
「今は、止めておいた方がいいのでは?」
「何を言う、あのままでは……っ」
「確かに珠妃様も混乱した様子でしたけど、陛下も今は冷静ではないでしょう?」
志明がそう問えば、晧月の身体から力が抜けていく。
それは掴んだ腕を通して、志明にも伝わった。
追いかけたところで、重華に何を言えばいいか、確かに今の晧月はその答えを持ち合わせていなかった。
前回と同様に泣かれてしまった場合、同様に大丈夫だと言える根拠が今の晧月にはなかったから。
「だが、今のままで放っておくのも……っ」
最後に見た重華の表情を思うと、そのままにしてもおけないと思う。
何も言えないかもしれないけれど、やはり追いかけるべきではないかと晧月は思った。
「大丈夫ですよ。珠妃様には、春燕と雪梅がいますから」
きっと重華は二人が落ち着かせるはずである。
なんといっても、晧月が最も信頼を置く侍女二人なのだから。
だから、今、目の前の皇帝を落ち着かせるのが自分の役目なのだと志明は思っている。
「そう、だな……」
少し冷静になってから、あらためて重華と話すべきだと、晧月は腕の中にある包みを見ながら思った。
そして、もう追いかけるつもりがないことが伝わったのだろう、志明の手はすっかり晧月から放れていた。
「珠妃様?お一人ですか?雪梅は……?」
久々に走ったせいなのか、息も絶え絶えて一人戻ってきた重華を、春燕は目を丸くして出迎えた。
すぐ傍に雪梅の姿が見えないことを不思議に思いながらも、疲れた様子の重華を椅子に座らせ、お茶を差し出した。
差し出されたお茶を一口含むだけで、重華はほっとして少しだけ気分が落ち着いたような気がした。
そして、お茶を全て飲み終えて一息ついた頃、ようやく雪梅が戻ってきた。
「ご、ごめんなさい、勝手に先に戻ってしまって」
重華は雪梅に声をかける余裕すらなく、一人何も言わずに戻ってきてしまったが、あらためて思い返せば随分酷いことをしてしまったと思った。
こればっかりは、怒られたり文句を言われても仕方がないかもしれない、と思ったけれど雪梅は怒った様子などなくいつも優しい笑みを浮かべていて、それを見るだけで重華はひどく安心した。
「大丈夫ですよ、事情は陛下にお聞きしましたので」
「陛下、に……?」
「はい。陛下から伝言です。差し入れはありがたくいただく、と。それから、後ほどこちらに来られるそうなので、待っているようにとのことです」
「えっ?」
差し入れを食べてくれるのはいい。
直接手渡せなかった上に、包みを落としてしまったけれど、それでも食べてもらえたら嬉しいと重華は思う。
だが、後ほど来る、というのは今の重華にはあまり歓迎できなかった。
できれば、今はあまり顔をあわせたくない。
どんな顔をして、何を言えばいいのか、わからなかったから。
(どうしよう……)
だからといって、来るなと言えるはずもなく、会いたくないとも言えない。
そんな重華の表情は、春燕と雪梅には一目で困っているとわかる、そんな表情だった。
「珠妃様、陛下と何か、ありましたか?」
「えっ?」
問いかけたのは雪梅だった。
重華はすでに雪梅には知られてしまっているような気がしていたため、驚きの声をあげる。
「陛下に、聞いたのではないんですか?」
「私がお聞きしたのは、珠妃様が先に戻られてしまった、ということくらいで詳細なことはお聞きしておりませんよ」
事情を聞いたというので、重華はてっきり先ほどの一連の出来事を全て聞いてきたのだろうと考えていたが、そうではないようである。
重華はしばし伺うように春燕と雪梅を交互に見た後、意を決するように両手を握りしめた。
「聞いて、もらえますか……?」
「もちろんです」
二人とも、二つ返事で頷いてくれて、返事まできれいに重なった。
重華はそのことにほっとしながら、全てを二人に話した。
晧月に皇后にと言われているものの、正直自分には荷が重いような気もしているし、なりたいと強く思っているわけではないこと。
けれど、皇太后に言われた言葉がとても悲しかったこと。
そして今しがた聞いた、晧月と志明の会話の内容。
なぜか逃げ出したくなって逃げてきてしまって、今どうすればいいかわからないこと。
自分の感情なのに、わからないことだらけで戸惑っていること。
重華自身の頭の中を表すかのように、説明は見事にぐちゃぐちゃだったけれど、春燕も雪梅も最後までしっかりと話を聞いてくれた。
「わ、私、その、陛下のことは、す……す、す、す……っ、すき、ですけれど……」
好き、という言葉だけ、やたら小さくなったのが微笑ましく、春燕も雪梅もくすりと笑みを漏らした。
同時の重華の顔が一気に赤く染まる。
「で、でもっ、その、本当に、どうしても皇后になりたいとか、そんなことを考えているわけではなくて……っ」
今のままでも十分に幸せで、不満などない。
皇后になれなくとも、今まで通り後宮で過ごせるならばそれでいい。
それは嘘偽りのない重華の気持ちなのだと、重華は必死に訴える。
だから現状を悲しいとか、残念だと思う必要などどこにもないと、重華自身わかっているからこそ、今の自身の感情が理解できないのだけれど。
「はい、わかっていますよ。でも、皇太后陛下や丞相が、珠妃様が皇后になるのが否定的なのは、やっぱり悲しいんですよね?」
春燕に問いかけられて、こくりと頷いた。
今思い出しても、やはりなぜか悲しいと思ってしまう。
「おかしい、ですよね……」
「そんなこと、ありませんよ。誰かに否定されることは、やっぱり悲しいものですよ」
「春燕さんも?」
「はい、もちろん」
当然だと頷く春燕を見て、重華はまたほっとした。
この感情はおかしくはない、そう思えるだけでも重華は気持ちが随分と落ち着いた気がした。
「それに珠妃様が皇后になられない場合、陛下の隣に別の方が皇后として並ばれるかもしれない。それも嫌なのではないのですか?」
今度は雪梅が問いかけた。
その通りかもしれない、と重華は思った。
泣きたくなるほど悲しくなったのは、皇太后の言葉で晧月の隣に並ぶ誰か、を想像してからだったような気もしたからだ。
想像するだけで、今もすごく胸が痛くて仕方がない。
けれど、理解できないと思っていた自分自身の感情を、少しずつ理解できていることで心には余裕も出てきた。
(お二人に話してよかった。お二人ならきっと……)
いつも重華を導いてきてくれた二人である。
きっと、今回も重華がどうするべきか、二人がよき助言で導いてくれるだろう。
この時の重華は、そう思っていたのだが、事態は重華の予想とは随分とかけ離れた方向へ転がっていってしまった。




