108. 偶然
晧月がその歩みを止めたのは、皇太后の寝殿の姿が見えなくなってからのことだった。
「まったく、断ればいいものを、どうしてもいつも、素直に応じてしまうんだ」
今日に限ったことではない。
晧月はいつだって重華が断っても問題ないように手を打っているはずなのに、重華自身が受け入れてしまうが故に、全くと言っていいほどそれが効力を発していない。
しかしその理由を問うたところで、重華はその理由を話すことはなく、ただ謝罪の言葉を口にしながら、ばつが悪そうに俯くだけだった。
「で、皇太后陛下は何と?」
「あ、その、えっと……」
なんとなく、先ほどの話の内容を晧月に伝えるのは憚られ、重華は困ったように視線を泳がせた。
「だいたいの検討はついている。だが、俺がおまえから聞きたい」
「あ、その……」
重華の中で、自身の言葉できちんと伝えたいという思いと、やはりなんだか告げ口でもしているような気がして自分から話すことは憚られるという思いがせめぎ合い、しばし葛藤していた。
けれど、その間ただじっと重華の言葉を待ってくれている晧月を見ると、伝えたいという気持ちが徐々に強くなっていった。
「その、皇后になるというお話を、私からお断りするように、と……」
「やはり、その件か。悪かった、まさか皇太后陛下も、おまえの生い立ちについてお調べになっているとは、思わなかったんだ」
賛同してもらえると思ったから、重華の返答を待たずして伝えても何の問題もないと考えたのだと晧月は重華に打ち明けてくれた。
その表情には、先ほど皇太后に向けていたような怒りは微塵も感じられず、ただ重華を安心させるように笑みを浮かべている。
「だが、心配しなくていい。今回の件は丞相を味方につけられるだろうし、反対するのが皇太后陛下だけなら、どうとでもなる」
自身の娘を皇后にするのだから、きっと丞相は協力的なはずだと晧月は言う。
晧月がそう言うならば、きっとそうなのだろうと重華は思う。
けれど、先ほどの皇太后の言葉を思い返すと、それではいけないような気がしてならなかった。
「でも、皇太后陛下の仰ることはごもっともだと思いますし、従った方がよいのではないでしょうか」
皇太后の言い分は正しいと重華は感じたし、無理に反発する必要性も感じられなかった。
穏便に済ませられるなら、それが一番いいだろうと、そう考えての一言だった。
「なら、どうして泣いているんだ?」
「え……?」
重華はそこで、ようやく自身がはじめて涙を流していることに気づいた。
「あ、れ……なんで……?」
重華が涙に触れ、その感触を確かめると、涙はさらに溢れてきた。
(どうしても皇后に、なりたかったわけでもないのに、どうして……)
いつの間に流れ始めたかわからないその涙に、重華はただただ戸惑った。
今この瞬間だって、皇后になりたいという強い意志があるわけではなかった。
それにも関わらず皇太后の言葉に傷ついている自分がいることが、重華には理解できなかった。
「大丈夫だから、おまえは何も心配しなくていい」
「だ、だめですっ、お召し物を濡らしてしまいます……っ」
ぎゅっと抱き寄せられて、重華は先ほどとは別の戸惑いを覚えた。
未だ流れる涙が、晧月の着物に触れてしまいそうで、必死に晧月の身体を押し返すように抵抗をみせる。
しかし、何度となく繰り返された、大丈夫だという言葉に、結局最後は抵抗を止め、晧月の着物をおもいっきり濡らしてしまうこととなった。
(恥ずかしい……)
すっかり泣きはらした顔は、晧月の命で先に戻っていたらしい雪梅と、ともに出迎えてくれた春燕にしっかりと見られてしまった。
だが、心配し世話はあれこれと焼かれたものの、涙の理由を根掘り葉掘り聞かれることはなかったことに、重華は心底ほっとしていた。
自分でもよくわかっていないその理由を、二人に説明などできる気がしていなかったから。
(でも、泣いてすっきりしたかも)
晧月は、重華が泣き止むまでは傍に寄り添っていたが、泣き止むとすぐに政務に戻ってしまった。
重華には告げられていないが、晧月はここ数日いつもよりも忙しい日々を過ごしていた。
にもかかわらず、春燕からすぐに報告を受けた晧月は、急ぎの政務を全て放り出してまで重華を優先した。
そのため、天藍殿には今日中に処理すべき書状が山のように積みあがったままだったのである。
重華は慌てた様子で立ち去る晧月の姿を不思議に思ったものの、その心は皇太后の寝殿を後にした時よりもずっと穏やかだった。
それから、数日が過ぎたある日のことである。
後から振り返ると、この日はいろんな偶然が重なった、と重華は思った。
1つ目の偶然は、春燕と雪梅の会話から晧月が連日いつも以上に忙しい様子であることを知ったこと。
2つ目の偶然は、それを聞いた重華が、珍しく自ら差し入れをしたいと考えたこと。
3つ目の偶然は、差し入れの点心を持って天藍殿を訪れた際、晧月が不在だったこと。
4つ目の偶然は、いつも天藍殿にいる宦官が、庭で息抜きをしているだけだからと居場所を教えてくれたこと。
5つ目の偶然は、近くだからとともに来た雪梅を天藍殿の前に待機させ、重華一人で晧月が居るだろう場所へと向かったこと。
そんな偶然が重なって、重華は本来は聞くはずのなかっただろう会話を耳にすることになった。
その会話は、晧月の姿が見える前に聞こえてきた。
「え?丞相が!?」
最初に聞こえてきたその声は、晧月のものではなかった。
だが、自身の父が話題に上がっているのだと思うと、重華はつい耳をすませてしまう。
(この声、どこかで……誰だっただろう)
重華がそんなことを考えていると、今度は晧月の声が聞こえてきた。
「ああ。絶対に反対というわけでもないようだが、あまり乗り気でもないらしい」
「なんでですか?自分の娘でしょう?丞相なら飛び上がって喜びそうなのに」
晧月の声の後に続いたのは、またしても重華にとって聞き覚えのある、それでいて誰だかわからない声だった。
(お父様の娘……私……?)
父親だけでなく、自身も話題の中心らしい、そう思うとさらに会話の内容が気になり、重華はそっと一歩足を踏み出した。
「まさか、まだ娘だと認めてないとか?」
「いや、それはない」
「だったら、なぜ?」
「知らん。聞いても理由は話さないからな。だが、皇太后陛下が反対なら、無理してまで重華を皇后にする必要はないとの一点張りだ」
ため息交じりの晧月の言葉を聞いて、重華は大事に抱えていた点心の包みをその場にぱたりと落としてしまった。
その音に晧月と、その隣にいる人物が気づかないはずなどなかった。
「誰だっ!!」
一際鋭い声とともに、音の発生源である重華の元へ駆けてきた晧月は、重華の姿を見つけると驚き目を見開いた。
「陛下、危ないから先に……って珠妃様!?」
晧月のすぐ後に、姿を見せたのは志明だった。
危険かもしれない場所に、自分がいるというのに皇帝自ら先に突っ込んでいく晧月を窘めようとしたところで、志明もまた重華の姿に気づいた。
つい先ほどまで、自分たちが話題にしていた人物の登場に、志明は戸惑いを隠せなかった。
一方で、重華もまた戸惑いの表情を浮かべており、もう一人の人物は志明だったのだそう思う余裕さえなかった。
「聞いていた、のか……?」
晧月にそう訊ねられ、重華はなぜか一歩下がってしまった。
一刻も早く、ここから立ち去りたい、重華の中にあるのはそんな気持ちだけだった。
「ご、ごめんなさいっ」
重華はくるりと身体を反転させて、来た道を走った。
「待てっ」
すぐに自身を呼び止める晧月の声が、重華の耳に届いた。
晧月に追いかけられれば、きっと捕まるのは一瞬だと重華は思った。
それでも、その足は止められず、重華はただただ必死に走った。




