真夏の夜の幻夢 第八節
スコープに映る老年のアジア人は無表情だった。
ゴーグルやヘッドセットは装備しておらず、手には厚手の布を一枚づつ持ち、身につけているアロハシャツと半ズボンには汚れがない。異変に気づかず客室で寝ていた文綾丸の宿泊客、といったおもむきだった。
しかし有馬の右目には、男がいるところに黄昏めいた仄明るい光が見えていた。P90をずらし肉眼視と機械視を交代させると、左右の目には逆のものが見える。スコープを通した右目に見えたものは、発光などしていない普通の人間だった。
「明かりなしでよく動けますね」
「ああ……、足もとは自分の光で照らしているのか」
「自分の光?」
怪訝そうに礼佳が言った。
琥珀色の光をまとったヒト型の塊が廻縁を歩き、空中階段の上に立った。腰のあたりから長く、光を後ろに引きずっていた。
「あれは悪魔か魔術師だ。できれば生け捕りにしたい」
「夜目が利くだけの佐藤さんってことも」
「いや、違う」
有馬が銃口を向けていても、男はおちつき払った態度と無表情のままだった。三階を見まわし、両腕を広げ、カーテンか家具の掛け布らしい二つの織物を腰の横で揺さぶる。
男の意味不明な行動に、有馬は銃撃で応じた。ゆっくりと狙う暇があった一発で膝を、さらに次弾で太腿を撃つ。
二発の五.七ミリ弾を右脚に受けた男は、高く飛び跳ねた。
「オーノー」
礼佳が後退しながらつぶやく。
それらの音とは別に、耳鳴りのような鼓膜を震わせない距離感のない叫びを、有馬は聞いた。
男が片脚を撃たれて転倒もせず、一メートルを超える跳躍をやってのけた理由は、腰背から生えている太い尾だった。スコープに映ったウナギに似た『尾』が、のけぞる体勢となった体を宙で支えていた。
そして彼が、正確には『尾』の片端についているヒトの形状をした部位が、宙にとどまっていられる理由がその後ろに姿をあらわした。
多数の脚で空中階段に踏み出したそれは、全体的にはムカデに似ている。大きさと外皮はワニに似ていた。頭には触手が多弁花状にかさなって生え、目や触角や顎肢は見当たらない。
男の体はアンコウの疑似餌のごとく、一本の触手の先に連結された存在だった。一メートルほどの触手は軽々と男を吊りあげている。
奇妙な多脚動物は流れ落ちるように階段を動いた。
P90で連射を浴びせても、なめらかに駆けおりてくる動きは乱れない。下段の踊り場から最後の数メートルを跳びおり、まっすぐ有馬に突進した。
多脚動物が触手を広げる。中心には食欲をあらわにした口があった。
先頭部に密生した触手も数が多く、巻きつかれてしまえば身動きができなくなるだろう。長さが不揃いな触手は瞬時には数えきれないが、最も長い四本が回避するべき間合いだった。
間合いは伸びて三メートルと見定め、弾倉に残した数発を撃ちこむ。パクパクと開閉していた軟体の口が縮んだ。
それでも前進はやめない多脚動物から、有馬はロビーの円柱へ跳び退った。
有馬を追う触手が、次々に床を叩く。障害物を避けた左右からの袈裟懸けだった。
剣を右手で抜き、衝力を本体より早く失った触手を大上段に斬る。打ち落とした一本を、硬い手応えにかまわず床で断ち切った。
組みつきと体当たりに失敗した多脚動物は、革鎧を弾き飛ばして有馬の横を通過し、前半身の跳躍と後半身の蛇行を同時におこなって向きを変えた。あざやかな身のこなしだった。
有馬は弾倉を交換している時間はないP90を捨て、剣を左手に持ち替え、拳銃を抜いた。
五.七ミリ弾は、多脚動物の外皮で完全に止められているわけではなかった。右側面の数ヶ所から、鈍いオパール様の色彩がにじんでいる。
きらめく色彩に変換されていながら、それを傷口からあふれる体液だと有馬は感覚的に確信した。
切断した触手は、まだ床で動いているが体液をほとんど散らしていない。
「……話を……」
宙吊りになったままの男が言葉を発した。
「話を聞いてくれ」
多脚動物がうねり、海水を撥ねてロビー外壁まで後半身を伸ばした。
有馬は拳銃を向けて、男の日本語に応答した。
「聞こう」
男との距離は五メートル、三本に減った長い触手が二メートル。
振られた触手が『ゴムのように伸びる』ということはなかったが、三メートルの距離を、多脚動物は停止状態から速ければ一秒でつめられる動きを見せていた。
「あんたがたは民間人……船の乗客か?」
「そうだ」
「鉄砲はどうした?」
「船首で発砲していた連中から奪った。この船の乗務員のようだ」
「乗務員……人の形をしたまま動いているやつらは、ゾンビだ」
「ゾンビ?」
礼佳の意外そうな声がロビーにひびいた。
男が体をよじり、頭の位置を変えた。礼佳たちを見たらしい。
「そっちの二人は現地人だな。好きに船内をうろついていたが、よくやつらに殺されなかったものだ」
「死体をかたづけてたから、それが済むまではやらせておこうという考えではないでしょうか」
「死体を回収するのは、こいつだ。こいつにやらせていたんだ」
男は布を握る手で、自身につながっている多脚動物を荒々しく示した。
「あのボートもおかしい。どうやって即座にあらわれた? なぜ、真っ先に死体を狙う……待ちかまえていたとでもいうのか? なぜ、他の値打ち物に目もくれない」
「まあ、あの、佐藤さん。苦境はわかりますがおちついてください」
激しい苛立ちを声に出した男を、礼佳は宥めた。
有馬はP90を拾い、男が話しだしたときから行動を待機している多脚動物から遠ざかった。
足元の切断した触手が、肺魚のように自律行動を始めていた。
「ごめんねー、ぼくの護衛がきみの脚を撃っちゃってゴホッ、ゴホン――えーっと、やつらとは誰のことでしょうか。ボコールみたいな親玉がいるということですか?」




