真夏の夜の幻夢 第一節
「お疲れサマンサ~」
文綾丸の前甲板に立つ有馬に、礼佳が近づきながら声をかけた。
開け放しにした船楼の三階通路は暗く、彼女が腰に灯している懐中電灯をまぶしく感じる。両手には大ぶりなトレーを持っていた。
「もう外のほうが涼しいですねえ。……ちょっとバーベキュー臭いけど」
腕時計に内蔵された計器は、船外の空気を三〇℃、一〇八〇ヘクトパスカルと表示した。
夕暮れから数時間が経過している。湿度は低く、海風もあることから、空調機器が止まっている文綾丸の船内よりも時間とともに快適になるだろう。
海上では(アサンロンによると、やはりここは海だそうだ)昼夜の温度変化は小さい。地球の常識が通用するならば、明日が快晴であれ午前までは、それほど暑くなることはない。
隣から礼佳にトレーをさしだされ、有馬は乗せてある飲食物を見た。
液体を満たしたガラスの水差が、その中で動いた氷でカチャリと鳴った。ケーキの入った紙箱はブリッジの冷蔵庫にあったものだった。
水差の一つを持ちあげ、それを前方の炎に有馬はかざした。
「それ、アイス・コーヒー」
船内から出してある折りたたみ椅子に、細腕には重いらしいトレーを礼佳は置いた。この前甲板へ、死体を運び出すための担架として用いたものだ。
有馬が見張る舳では、直径三メートルほどの炎に、二人の男が照らされていた。
「あっという間に暗くなりましたね。ラウンジも真っ暗になってて、コップやジュースを探すのにもたいへんでした」
弾倉ポーチの上縁にさしこんだ懐中電灯を手でなおし、礼佳がつぶやいた。閉じた雨蓋で、ポーチに電灯の棍棒部を固定してある。銀色のトレーと食器類はブリッジの備品ではなく、六階ラウンジから持ってきたもののようだった。
船内に今夜の照明は必要ではない。しかし各所の冷蔵庫、特に船倉の食料庫は早急に復旧させたかった。やるべきことが多すぎる状況だ。
アサンロン一行はさらに仕事を増やしてくれたが、とりあえずは制圧し、有用な捕虜も得た。津波に船団を散らされたあとで左右へ分遣したという二隻の僚船にも、この程度の連中ならば対処は容易だった。
有馬は、かすかなチラつきを視覚に生じさせる、明るい光源から目をそらした。
舳の炎は大きいが、さほど明るくはない。搔き棒で燃料を動かす二人の男は、焚き火のあつかいに習熟しているらしく、火勢を一定に保っていた。
「こっちのほうが、ずっと明るい。窓の外も星明りだけって都会人にはきついお」
「……」
礼佳が飲み物になにかを混ぜこんでいるのではないか、という偏執病的な猜疑心を抑制し、有馬は水差に口をつけた。
夜になった空には、満天の星があらわれている。
その満天の星々のなかに、見わけがつく星座やメシエ天体は一つもなかった。天の川からして日本の夏ではありえないほどに明るい。
そして日の光が去ったあとは、東の満月が、夜の空には度外れた光を放っていた。
「月も異様に明るいし、動かないし、ホログラムみたい。三日月は沈んだのに……それで、なにかわかりました?」
独り言を言っていた礼佳に問いかけられ、有馬は星空から目を戻した。
「ああ。ここは赤道にかなり近いらしい、とはわかった」
黒々とした海のすぐ上に見える、かなり明るく赤い星を、あいている手で有馬は指さした。
「あれが北極星だそうだ。コンパスでも、むこうが北だ」
「あの赤色巨星っぽい星? ずいぶん低いとこにありますけど」
「この星の地軸の先にあるのが、あの星ということだ」
「ああ、なるほど。だから緯度が低いとわかるわけね……。ここは北半球だと、彼らが言ってたんですか?」
炎の番をする小型船の乗員に、礼佳は顔を向けた。
二人は小型船から持ってきた縄と桶で水を汲み、自身や甲板に、量を加減しながらかけつづけていた。
文綾丸の舳は、左右の舷牆で海風を避けられる場所ではあるが、ときおり熱気がここまで届く。
炎中には可燃物が浅く敷かれ、その上で七〇〇~八〇〇キログラムほどになりそうな地球人の残骸が焼かれている。船内を探して集めた切断死体と変死体だ。
「いや、そこまで日本語は通じなかった。片言で、あれが『空の中心』の『動かない星』と言っただけだ。地球のコンパスと磁極が合うのは偶然の一致だろう」
「日本語ペラペラの人は? 自称☆予言者の」
「今は医務室だ」
「日本語を完璧に話せるのは、その人だけだったんですよね。どうでした? ケガの具合は」
「予言者のほうは、ここの設備でも治療できる。重傷のほうは何日かは生かしておけるが、助かるかどうかはわからん。本人の体力しだいだ」
「有馬さんが、えーっと、殺っちゃった八人は?」
「後ろのロビーに並べていた。後まわしだそうだ」
「お仲間より悪魔の火葬が先とは、気合が入ってますね。本気で信じてるんでしょうか」
「この船に残った死体が悪魔と化して襲ってくる、か」
礼佳は二人の現地人を見たまま、軽く笑った。
予言者と自称したり、それを信じたりする者を語るときに、現実主義者が浮かべがちな笑いだった。
有馬としてはアサンロンの予言を鼻で笑える気分ではなかった。
「死体の処理は、やらせておいても不都合ではない。坊主の念仏よりは役立つ」
「腐っても困りますしね……急いで焼いているのは、やっぱり防疫のためでしょうか」
「疫病を恐れての行動とは考えづらいな……陸地からは二日の距離があると、予言者が言っていた。文綾丸を手に入れるついでに邪魔者を消毒しようとしたにしては、迂闊すぎる動きだ。やつは少なくとも、こちらのことをよく調べている。通常の調査では知りえない情報もつかんでいるし、それを小出しにする知恵もある。現地人にとって危険な疫病が文綾丸で湧くならば、できるだけの装備は持ってくるはずだ」
「悪魔に乗っとられた異世界からの船を征服せよ!」
礼佳はフルーツジュースをそそいだワイングラスを、この星の輝かしい夜空に掲げた。
「て感じなのかも」
アサンロンの悪魔退治より、文綾丸の設備に興味を向けていた戦士がいたことを思い出して、有馬も水差を口元にあげた。
「傭兵や冒険商人を募るには良さそうな宣伝文句だ」
「トリックがあるとしても、確かにアストラル・ゲートがここに開くと予知できたのは不思議ですね。あの船で」
舳の先に舫いである小型船を、礼佳は指さした。
文綾丸の船楼を背にしたここからでは、あちらでもおこしている火の明かりと帆しか見えない。
「長期間、広い海を巡回してはいられないでしょう。なにか前兆現象があったとか、観測機器があるんでしょうか」
「いや、そうは言っていなかった」
有馬はアイス・コーヒーを飲んだ。
「予言者はこのことを……文綾丸が今日、ここへあらわれることを、何年も前から知っていたそうだ」
「何年も前から、文綾丸の名前も、出現位置も時間も知っていた?」
「我々の名前まで知っていた。やつが詐欺師にすぎないとすれば、文綾丸に乗った五〇〇人以上のなかから、なぜたった二人の生存者を正確に言い当てることができたのか?」
「隠しマイクで、わたしたちの会話を盗聴してたとか……ちょっと無理がありますね。そこまで念入りに小細工できるにしては、凡ミスが目立つ感じです」
そう言って礼佳は、椅子の一つに腰かけた。思索しているというよりは、精神的な緊張がつづいて疲れ始めているという動きだった。
いくつもかさねて置かれている木製の椅子は、二階船尾の大食堂から運ばれたものだった。死体を焼却する燃料の一部だ。
「波については、予知していたが想定よりも大きすぎて転覆した、と言っていた」
「生存者の名前は言い当てられるのに、波の大きさはわからなかった? それはなんとも偏りがあるっていうか」
「予言者によると、予知は視覚や聴覚で……つまり体感で再現されるものでは、ないらしい」
「いわゆる『予知夢型』ではない?」
「いや、夢を介して予知を得てはいる……まあ、予知夢とは違うだろう」
医務室でアサンロンに聞いたことを、有馬は要約して礼佳に話した。
「予言者は、夢の世界に住む導師と会うそうだ。その導師が、アカシック・レコードにアクセスして未来を体験する」
「タバーリッシ チュパチビリ、ウラーー?」
「グルのほうだ」
「ああ、導師」
「その導師に、予言者は未来の出来事を伝えてもらうというわけだ」
「予言者の未来知識は、マハー・グルから問答で伝えてもらえることに限定されているわけですか。ポカをしでかしたときの抜け道としては、いい設定です」
「日本語もそいつに習ったと言っていた。予言者の本拠地に生きた日本人はいない」
「ほう、グルは現代の日本語をなぜか喋っちゃう、と。その設定は、やっつけ感がありますね」
「……一応のつじつまは合っている。予言者は生まれたときから夢の世界で導師と語りあい、さまざまな教えを授かった、と言っていた」
「それで日本語がペラペラ? じゃあ、他の人が喋ってる日本語は?」
「予言者が教えたそうだ。この日のためにな」




