「これからはいつでも遊びに来ていいからねぇ」
翌日、乙羽がリビングへ行くと、母の奏とリーゼロッテ、そして姉の静が揃っていた。
テーブルには飲み物が用意されており、三人は何やら話をしていたようだ。乙羽が顔を出すと、静がこちらを向いた。
「あら、乙羽。ちょうどいいところに来たわね」
「んぅ? どうしたのぉ?」
「新しい家のことよ。いつでも入居できる状態になったから、報告に来たの」
静はそう言って、手元の資料をテーブルに置いた。
新居については以前から話を聞いていたが、契約だけでなく、入居の準備まで済んだらしい。静は冒険者協会とも相談しながら物件を選び、すでに購入も済ませている。
あとは家族の荷物を移せば、新しい生活を始められるというわけだ。
「あらー、では早めに準備しないといけないわねぇ」
奏は家の中を見回しながら、少し考えるように首を傾げた。
「荷物もたくさんあるものね。普通に引っ越しをするとなると、少し時間がかかりそうだわ」
「お母様、私が魔法で引っ越し先に荷物を送れますよ?」
リーゼロッテが手を挙げて申し出た。
「あらー、リーゼロッテちゃん便利ねぇ」
「荷物を運ぶだけなら問題ありません。もちろん、運んだあとに必要な整理はしなければなりませんが」
「それなら助かるわねぇ。あとは何を持っていくか確認しないと」
奏はほっとしたように笑った。
荷物を一つずつ運び出す必要がないのなら、引っ越しそのものはかなり早く終わるだろう。もっとも、運んだ荷物をどこへ置くかまでは魔法で決まるわけではない。部屋ごとに必要なものを整理する作業は残っている。
「そうね。荷物の移動は先生にお願いするとして、今日は新居についても話しておきたいことがあるのよ」
静は改めて乙羽たちを見た。
「まず、私自身のことだけど、今後はティンカーベルとコラボする機会も作りたいと思っているの」
「おぉ、コラボ?」
乙羽は少し意外そうに声を上げたあと、首を傾げた。
「お姉ちゃんとコラボねぇ……」
「なによ、その反応は」
「いやぁ、今までずっとソロだったからぁ」
「私だって、ずっとソロをしたいわけではないわ」
静はすぐに言い返した。
「一緒にダンジョンへ潜ろうと思っても、私のペースについてこられる冒険者がいなかっただけなんだから」
Sランク冒険者である静は、普段から単独でダンジョンの深い階層まで攻略している。実力差が大きければ、パーティーを組んでも相手の負担が増えるだけだ。無理に誰かを連れていくより、一人で活動するほうが都合がよかった。
つまり、本人が望んでずっと一人で活動していたというわけでもないらしい。
「なるほど。静はぼっちではなかったのですね」
「先生、失礼ね!」
リーゼロッテの一言に、静が即座に反応した。
奏はくすくすと笑い、乙羽も楽しそうに二人を見ている。
「ふふっ。じゃあ、今度一緒に行こうねぇ」
「ええ。日程はあとで相談しましょう」
静は気を取り直して頷いた。
「それで、もう一つ。新居には部屋がいくつもあるから、そのうちの一部屋をティンカーベルの会議室として使っていいわよ」
「会議室?」
琴や柳がいないため、乙羽は一人で聞き返した。
「そう。これから三人は正式な冒険者として活動していくことになるでしょう。乙羽はSランク、琴と柳もAランクになるわけだからね」
静の表情が少し真剣になる。
「そうなれば、扱う情報も今まで以上に重要になる。ダンジョンの攻略情報や冒険者としての秘匿情報を、そこらでべらべら話されても困るのよ」
「んぅー、確かにそうだねぇ」
「いつもファミレスとかで作戦会議をしていたのでしょう? 絶対にやめてちょうだい。人の出入りがある場所で、重要な話をするものじゃないわ」
静の言葉には、姉としての心配だけでなく、Sランク冒険者としての経験もにじんでいた。
これまでは、三人が学校の生徒として活動する範囲で済んでいた。しかし、これからは冒険者協会との関わりも深くなり、攻略情報を扱う機会も増えるだろう。
作戦会議を落ち着いて行える場所があるのは、三人にとっても大きな利点だった。
「そっかぁ。じゃあ、これからはお家で会議だねぇ。ありがとぉ」
「ええ。好きに使いなさい。ただし、会議室として使う部屋は、必要なものをきちんと揃えておくこと。使いやすいように整えるのは、あなたたちに任せるわ」
「はぁい」
乙羽は素直に頷いた。
静は三人のために場所を用意してくれた。ならば、実際に使うための準備は自分たちですればいい。
「それじゃあ、引っ越しの準備を始めましょうか」
奏が立ち上がる。
「荷物を送る前に、持っていくものを確認しないとね」
「その点は、私もお手伝いします」
リーゼロッテも資料を手に取った。
こうして、引っ越しの準備が始まった。
もっとも、リーゼロッテの魔法があるため、荷物を運び出す作業そのものはあっという間だった。
部屋ごとに荷物をまとめ、必要なものを確認してから、リーゼロッテが新居へと転送していく。家具や日用品、衣類、書籍、パソコン関係の機材、そして大量のコレクション。
普通の引っ越しなら何度も往復することになるだろう荷物が、次々と新居へ移されていった。
「本当に早いわねぇ……」
奏が感心したようにつぶやく。
「転送そのものは簡単ですから。問題は、そのあとですね」
リーゼロッテはそう言って、運び終えた荷物のリストを確認した。
荷物を送ることと、部屋を片づけることは別だ。箱に入ったものを取り出し、必要な場所へ収納し、家具を整える。そこは結局、家族みんなで作業することになった。
それでも、運搬に時間を取られないだけで負担は大きく減る。
それぞれの部屋を整え、日用品を配置し、生活に必要な確認を済ませていく。
そうして、思っていたよりもずっと早く、新居での生活を始められる状態になった。
◇
新居は、地上四十階建ての高級マンション。その三十五階にある、約二百八十平方メートルの広い部屋だった。
玄関を入ると、ゆとりのある廊下の先に広いリビングダイニングがあり、その奥にはキッチンが続いている。部屋数にも余裕があり、家族それぞれの個室はもちろん、来客用の部屋や趣味に使える部屋まで確保されていた。
リーゼロッテのコレクションとパソコン機材を置くための部屋もある。人間サイズの机や椅子、パソコンを設置できるだけの広さがあり、妖精サイズの彼女にとっては相変わらず大きな空間だった。
それでも、本人は満足そうだった。
「これなら、機材を置く場所にも困りませんね」
「よかったねぇ、先生」
「ええ。新しいパソコンも届く予定ですし、環境を整えるのが楽しみです」
リーゼロッテは、すでに次の楽しみに思いを巡らせているようだった。
家の中を一通り確認し、日用品の整理もひと段落したところで、静が会議室を見学していたティンカーベルに声をかけた。
「そうそう。せっかくだから、マンションの共用施設も見ておきなさい。使える場所はいろいろあるから」
「共用施設?」
「ええ。プールもあるし、トレーニング設備もある。スカイラウンジもね」
「おぉー!」
乙羽の目が輝いた。
家の中だけでも十分に広いが、共用施設まで充実しているらしい。せっかく引っ越してきたのだから、どんな場所があるのか見て回るのも悪くない。
「じゃあ、見に行こうよぉ!」
「そうね。場所を把握しておくのは悪くないわ」
琴も興味を示し、柳も「ジムがあるなら見ておきてえな」と乗り気になった。
静に案内され、三人はマンションの共用施設を順番に見て回ることにした。
まず乙羽が気に入ったのは、プールだった。
広々とした水面はきれいに整えられていて、泳ぐにも、ゆっくり過ごすにもよさそうな空間になっている。利用できる時間やルールを確認しながら、乙羽はすっかり楽しそうな様子だった。
「わぁ、ここいいねぇ! いつでも泳ぎに来られるのぉ?」
「利用時間や予約のルールはあるけど、使えるわよ」
「やったぁ。今度来ようねぇ」
乙羽は満足そうに頷いた。
一方、柳が気に入ったのはジムだった。
トレーニング器具が揃っているだけでなく、体を動かすためのスペースにも余裕がある。冒険者として鍛えるには、なかなか使い勝手がよさそうだった。
「おお、ここはいいな! これだけ設備があれば、普段のトレーニングにも使えそうだぜ」
「柳は本当にそういう場所が好きね」
「当たり前だろ。使えるもんがあるなら使わねえとな!」
柳は、どんなトレーニングができるかを考え始めているようだった。
そして琴が気に入ったのは、スカイラウンジだった。
高層階から街を見渡せる、落ち着いた雰囲気の空間。大きな窓の向こうには広い景色が広がり、静かに過ごすにも、誰かと話をするにもよさそうだった。
「ここ、いいわね」
「琴はこういう場所が好きなのぉ?」
「ええ。静かだし、景色もいいもの」
琴は窓の外を眺めながら、気に入った様子で頷いた。
三人それぞれ、気に入る場所は違った。けれど、どの施設も普段の生活や冒険者活動の合間に利用するには十分なものだった。
ひと通り見て回ったあと、乙羽は二人に向き直った。
「これからはいつでも遊びに来ていいからねぇ」
「おう。ジムもあるし、ありがてえな」
「私も、またスカイラウンジに来たいわね」
「じゃあ、会議のあとにみんなで寄ってもいいねぇ」
乙羽がそう言うと、琴と柳も頷いた。
新居には、家族の生活の場だけでなく、ティンカーベルが集まれる場所もできた。
冒険者として活動するための会議室。鍛錬に使えるジム。ゆっくり過ごせるスカイラウンジ。そして乙羽のお気に入りになったプール。
これから三人がここに集まる機会も、自然と増えていくだろう。
新しい家での生活は、まだ始まったばかり。
けれど、乙羽はもう、この場所を気に入っていた。




