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殴り賢者はバレている  作者: 七風


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「……今日は、行かない」

 家に帰り着いた乙羽は、いつものように「ただいまぁ」と声をかけた。


「おかえり、乙羽。ちょうどよかったわ。今日の配信のことで――」


「……配信?」


 リビングから顔を出した静の言葉に、乙羽は足を止めた。


「ええ。先生と一緒に配信したのよ。なかなか面白い話もできたし、視聴者たちも喜んでくれたわ」


「……先生も?」


「はい。静に誘われまして、少しお話しさせていただきました」


 リーゼロッテは、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。


 乙羽はしばらく2人の顔を見比べていたが、やがて何も言わずに自分の部屋へ向かった。


「あら? 乙羽?」


 静が不思議そうに呼びかける。


「どうしたのですか、乙羽?」


 先生も首を傾げた。


 しかし、乙羽は振り返らなかった。


 部屋に入るなり、扉を閉める。鞄を床に置き、制服のままベッドに腰を下ろした乙羽は、無言でスマートフォンを取り出した。


 画面には、通知が大量に並んでいた。


『乙羽、今日の配信見たか?』


『ちょっと、先生の話って本当なの?』


『乙羽、大丈夫?』


『ねえ、これどういうこと?』


 柳からも、琴からも、何通もメッセージが届いている。


「…………」


 乙羽は唇をきゅっと結んだ。


 そして、震える指で配信のアーカイブを開いた。


 最初は、ただ内容を確認するつもりだった。


 先生が何を話したのか。静が何を話題にしたのか。自分の知らないところで、どんな話が進められていたのか。


 それを知りたかっただけだった。


 けれど、再生を進めるにつれて、乙羽の表情は少しずつ変わっていった。


 先生がティンカーベルについて話している。


 柳や琴のことまで、何のためらいもなく口にしている。


 そして静は、乙羽の実力について話題にし、普段の振る舞いについても触れていた。


 目立たないようにしていること。


 実力を隠そうとしていること。


 普段の様子と、実際に戦っているときの姿が違うこと。


 まるで、それが面白い秘密でもあるかのように。


「…………なに、それ」


 乙羽の口から、かすれた声が漏れた。


 もう一度、該当する部分を再生する。


 聞き間違いではなかった。


 自分が何を考え、どんなつもりで振る舞っているのか。それを、勝手に話されていた。


 乙羽はスマートフォンを握りしめた。


 これまで、どれだけ気を遣ってきたと思っているのだろう。


 強くなりすぎないように。目立ちすぎないように。周りから不審に思われないように。


 普通の女の子として、普通に学校へ通って、普通に友達と過ごしたい。


 そのために、言葉遣いも、立ち振る舞いも、戦い方も、できるだけ周囲に合わせようとしてきた。


 失敗して目立ってしまうことはあっても、最初から何も考えずに過ごしていたわけではない。


 自分なりに、ずっと努力してきたのだ。


 それなのに。


「……なんで」


 ぽつりと呟いた声が、少しずつ震え始める。


「なんで、勝手に言っちゃうの……?」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 先生に対してなのか。


 静に対してなのか。


 それとも、何も知らないまま配信を見ている人たちに対してなのか。


 乙羽はスマートフォンの画面を消した。


 もう見たくなかった。


 もう聞きたくなかった。


 何より、これ以上、自分のことを誰かに話されるのが嫌だった。


 そのとき、扉の向こうから声がした。


「乙羽? どうしたの? さっきから様子がおかしいわよ」


 静だった。


「何か気に入らないことでもあった?」


 続いて、リーゼロッテの声も聞こえてくる。


「乙羽、もし何か気になることがあるのでしたら、私たちに話してくれませんか?」


「…………」


 乙羽は答えなかった。


「乙羽?」


「どうしたのですか? 何か怒っているようにも見えましたが……」


 怒っている。


 そうだ。怒っているのだ。


 自分でも驚くくらい、腹が立っていた。


 普段なら、多少のことは笑って済ませられる。先生にからかわれても、静に呆れられても、困ったように笑っていれば何とかなった。


 けれど、今回は無理だった。


「……もう、やだ」


 乙羽はベッドから立ち上がった。


 机の上には、読みかけの本が何冊か積まれている。そのうちの1冊を、ほとんど考えることもなく掴み取った。


 そして――。


 ドンッ!


 扉に向かって、思い切り投げつけた。


「きゃっ!?」


 外から静の驚いた声が聞こえた。


 投げた本は扉にぶつかり、床に落ちる。


 乙羽はすぐに次の本を掴んだ。


 ドンッ!


 もう1冊。


 ドンッ!


 さらにもう1冊。


 普段の乙羽からは想像できないほど荒々しい音が、部屋の中に響いた。


「お、乙羽!? ちょっと、どうしたの!?」


 静の声が明らかに慌てたものへ変わる。


「乙羽、落ち着いてください! 何があったのですか!?」


 リーゼロッテも扉の向こうから呼びかけた。


 けれど、乙羽は答えなかった。


 机の上に残っていた本を手に取り、最後の1冊まで投げつけると、荒い息を吐きながら扉へ歩み寄った。


 カチャリ。


 鍵をかける。


 その小さな音が、今の乙羽には妙にはっきりと聞こえた。


「……乙羽?」


 扉の向こうから、静の戸惑った声がする。


「ねえ、開けて。ちゃんと話しましょう?」


「…………」


「乙羽、私です。先生ですよ。どうか、返事をしてくださいませんか?」


「…………」


 返事はなかった。


 静が何度名前を呼んでも、先生が何を尋ねても、乙羽は一切答えなかった。


 やがて、扉の向こうが静かになった。


 乙羽はその場に立ち尽くし、しばらく扉を見つめていた。


 それから、ゆっくりとベッドへ戻る。


 スマートフォンには、まだ通知が届き続けていた。


 柳から。


 琴から。


 そして、配信に関するさまざまな通知。


 乙羽は画面を伏せ、布団を頭までかぶった。


「……もう、配信なんてしたくない」


 小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。


 今まで楽しかったはずの配信。


 柳と琴と一緒にダンジョンを攻略して、先生に助けてもらって、コメント欄の人たちとやり取りして。


 もちろん、目立ちたくないという気持ちはあった。それでも、みんなと一緒に過ごす時間まで嫌いだったわけではない。


 なのに、今はもう、何もかも嫌だった。


 配信をすれば、また何かを話されるかもしれない。


 自分が隠していることを、また誰かが勝手に明かしてしまうかもしれない。


 そう考えるだけで、胸の奥が重くなった。


 翌朝。


「……乙羽、起きている?」


 静は、いつもの時間になっても部屋から出てこない妹を心配して、扉を叩いた。


「学校へ行く時間よ。そろそろ起きなさい」


「…………」


 返事はなかった。


「乙羽?」


 もう一度呼びかけても、何の反応もない。


 静は困ったように眉を寄せた。


「……まさか、まだ怒っているの?」


 その言葉にも返事はない。


 隣にいたリーゼロッテが、そっと扉を見上げた。


「乙羽。昨日は何か、気に障ることをしてしまったのでしょうか?」


「…………」


「もしそうなら、きちんと謝ります。ですから、少しだけでもお話しできませんか?」


 沈黙。


 静とリーゼロッテは顔を見合わせた。


 普段なら、乙羽はどれだけ眠くても、学校へ行く時間になれば渋々ながら起きてくる。具合が悪いときでさえ、ひと言くらいは返事をする子だった。


 それなのに、今日は何を言っても反応がない。


「……どうしましょう、静」


「私にも分からないわ。昨日、配信の話をしたときから様子がおかしかったけれど……」


 静は腕を組んだ。


「まさか、本当に学校へ行かないつもりなの?」


 扉の向こうでは、乙羽が布団にくるまったまま、じっと天井を見つめていた。


 学校へ行きたくない。


 誰にも会いたくない。


 配信のことも、先生のことも、お姉ちゃんのことも、今は何も考えたくなかった。


 スマートフォンが震える。


 柳からのメッセージだった。


『乙羽、今日学校来るよな? 昨日から連絡つかねえけど、大丈夫か?』


 続いて、琴からも届く。


『乙羽。心配してるよ。何かあったなら、話せるときに教えてね』


 乙羽は画面を見つめた。


 2人のことが嫌いになったわけではない。


 むしろ、心配してくれていることは分かっていた。


 けれど、今は返事をする気になれなかった。


 スマートフォンを枕元に置き、再び布団をかぶる。


「……今日は、行かない」


 誰に聞かせるでもなく、乙羽はそう呟いた。


 結局、その日、乙羽は学校を休んだ。


 静が何度声をかけても、先生が心配そうに話しかけても、部屋の扉が開くことはなかった。


 2人は、乙羽がなぜここまで怒っているのか分からず、ただ困惑するばかりだった。


 乙羽が普段から、どれほど目立たないように気を遣っていたのか。


 そのために、どれほど自分なりの努力を重ねてきたのか。


 そして、仲間たちとの配信を、どれほど大切に思っていたのか。


 2人は、まだ本当の意味では理解できていなかった。


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