(んぅ~? 普通にしゃべってるけどぉ……?)
引っ越しの話もひと段落し、乙羽たちは新しい生活について、少しずつ具体的なイメージを持ち始めていた。
そんな中、リーゼロッテがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、転移魔法を使う際には、ひとつ注意点があるのですよ」
「んぅ? なぁに、先生ぇ?」
「転移魔法の詠唱には、私の世界の言葉を使う必要があるのです」
「……あちらの世界の言葉?」
静が興味を示すと、リーゼロッテはこくりとうなずいた。
「はい。こちらの世界の言葉では、うまく魔法が成立しないのですよ」
「なるほど。詠唱する言葉そのものが、魔法の仕組みに関係しているのね」
「そういうことです。ただ……」
リーゼロッテは少し困ったように笑った。
「こちらの世界の方には、私の世界の言葉を正しく発音するのが難しいようなのです」
「発音が難しい?」
「ええ。聞いて覚えればどうにかなる、というものでもないようでして」
静は腕を組んだ。
「それは、実際に聞いてみないと分からないわね。ちょっと聞かせてもらってもいい?」
「もちろんです」
リーゼロッテは軽くうなずくと、静の返事を待たずに詠唱を始めた。
「――――――――」
その口から、不思議な音の連なりが流れ出す。
高低の変化も、音のつながり方も、日本語はもちろん、地球で使われているどの言語とも似ていない。人間の声帯で再現できる音なのかさえ怪しく、聞いているだけで真似するのを諦めたくなるような響きだった。
やがて詠唱を終えたリーゼロッテは、何事もなかったかのように微笑んだ。
「このような感じですね」
「…………なるほど。これは確かに難しそうね」
静は真剣な顔でうなずいた。
「いくら発音を教わっても、同じように声を出せる気がしないわ。これじゃあ、地球で転移魔法を研究しようとしても、詠唱の段階で行き詰まってしまいそうね」
「そうかもしれませんね。ですが、私が使う分には問題ありませんよ」
「それはそうなんだけど……」
静は苦笑した。
転移魔法そのものが、地球ではまだ一般的に使える技術ではない。そこへ、地球の人間には発音できない言葉まで必要となれば、研究者たちにとっては頭の痛い話だろう。
一方、乙羽はというと。
(んぅ~? 普通にしゃべってるけどぉ……?)
不思議そうにリーゼロッテを見つめていた。
乙羽には、今の詠唱が奇妙な音の羅列には聞こえなかった。知らない言葉ではあるはずなのに、何を言っているのか、自然と意味が分かるのだ。
(先生、今の何だったんだろう……?)
乙羽は首をかしげたものの、口には出さなかった。
自分が分かっていると言えば、静から詳しく聞かれるかもしれない。そうなれば、説明するのが面倒なことになりそうだった。
そんな乙羽の様子に気づいたのか、静がふと視線を向けた。
「そういえば、乙羽。あなた、リーゼロッテから魔法を教わっているでしょう?」
「ふぇっ? う、うん」
「先生の世界の言葉で詠唱する必要があるなら、あなたはどうやって魔法を習っているの?」
「あ……」
乙羽は一瞬、言葉に詰まった。
もっともな疑問だった。静からすれば、乙羽が魔法を使えること自体は知っていても、その習得方法までは詳しく知らない。
リーゼロッテは乙羽の顔をちらりと見てから、いつもの調子で答えた。
「乙羽とは召喚の契約を結んでいますからね。その影響もあるのかもしれません」
「契約の影響?」
「はい。私の言葉を理解できるのも、そのためではないでしょうか」
先生は、あくまで可能性のひとつとして説明した。
静は少し考え込んだあと、納得したようにうなずいた。
「なるほど……。召喚契約には、そういう作用もあるのかもしれないのね」
「詳しい仕組みまでは、私にも分かりませんけれど」
「えっ、先生にも分からないの?」
乙羽が思わず口を挟むと、リーゼロッテはきょとんとした。
「ええ。自分が使えることと、その仕組みをすべて説明できることは、別ですから」
「あ、そっかぁ……」
乙羽は何となく納得した。
自分だって、使える魔法のすべてを理屈から説明できるわけではない。先生が何でも知っているわけではないのは、考えてみれば当然だった。
ただ、乙羽自身は、先生の言葉が分かる理由を知っている。
異世界へ転移したとき、言葉を理解できるようになっていたのだ。
それがどういう仕組みだったのか、乙羽にも詳しいことは分からない。けれど、少なくとも、今の自分にとって先生の言葉は日本語と同じくらい自然に理解できるものだった。
もちろん、そのことを静に話すつもりはない。
「ところで、リーゼロッテ。ひとつ聞いてもいい?」
静が話題を変えた。
「はい、何でしょう?」
「地球には召喚士がいるでしょう? ダンジョンで得たスキルなどを使って、召喚獣を呼び出す人たち。あなたの世界にも、そういう人はいるの?」
「ええ、いますよ」
リーゼロッテはあっさりと答えた。
「やっぱりいるのね。じゃあ、召喚獣についても、ある程度は共通しているのかしら?」
「どうでしょう……。地球の召喚獣を実際に見たことがありませんから、何とも言えませんね」
思いがけず慎重な返事だった。
静は少し意外そうな顔をしたが、すぐに話を続けた。
「私の知っている召喚士だと、召喚獣は基本的にモンスターとして扱われているの。言葉を話せる個体はほとんど見かけないし、意思疎通も、指示を理解しているように見える程度のことが多いわ」
「そうなのですか?」
「ええ。配信しているSランクの召喚士もいるけれど、召喚獣と人間が普通に会話しているようには見えないのよね」
リーゼロッテは、少し考えるように首を傾げた。
「私の世界では、言葉を話せる幻獣も珍しくありませんよ。人間と会話をすることもあります」
「……幻獣?」
「はい。ただ、地球で召喚獣と呼ばれているものが、私の世界の幻獣と同じ存在なのかは分かりません。名前や見た目が似ていても、違うものという可能性はありますから」
「なるほど……。そもそも、召喚という言葉が同じだからといって、仕組みまで同じとは限らないわけね」
「そうですね」
静は考え込んだ。
地球では、召喚魔法や召喚獣について多くの研究が進められている。それでも、分からないことは少なくない。
異世界にも召喚士がいて、そこでは人間と会話できる幻獣がいるという。地球の常識だけで、召喚という現象のすべてを説明するのは難しいのかもしれない。
「……ねえ、先生。さっきから気になっていたんだけど」
「はい?」
「あなたの世界と地球以外にも、世界はあるの?」
静の問いに、リーゼロッテは少しだけ目を丸くした。
「ありますよ。私の世界にも、ほかの世界から来た方がいましたから」
「ほかの世界から……?」
「はい。召喚されて来た方もいれば、自分の意思でこちらへ来たという方もいました。ただ、私もその方たちの世界を詳しく知っていたわけではありません。出身が違えば、文化も常識もずいぶん違うものですから」
「自分の意思で世界を移動できる人もいるのね……」
静は驚いた様子でつぶやいた。
「でも、それって誰にでもできることなの?」
「いいえ。少なくとも、私の知る限りでは、誰もが自由にできることではありませんでしたよ。どうやって来たのか、なぜ来られたのか、私にも分からないことは多いです」
リーゼロッテは、特別な秘密を打ち明けるというより、昔見聞きしたことを話すような口調だった。
静はしばらく考えていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そう……。世界がいくつもあって、そこから人が来ることもある。地球で知られている召喚魔法も、まだ全体の一部しか分かっていないのかもしれないわね」
「そうかもしれませんね」
「……なんだか、考え始めるときりがない話ね」
「ふふ、そうですね」
リーゼロッテは楽しそうに笑った。
その隣で、乙羽は少し困ったように頬をかいた。
(んぅ~……。世界がいっぱいあるのは分かったけどぉ……)
自分が異世界へ行ったことを思えば、別の世界が存在すること自体には驚かない。けれど、そこから召喚された人がいたり、自分の意思で行き来する人がいたりするとなると、ずいぶん大きな話になってしまう。
とはいえ、乙羽にとって今いちばん重要なのは、そんな壮大な謎ではなかった。
「えっとぉ……。それで先生、転移魔法を使えば、学校まで行けるんだよねぇ?」
乙羽がおそるおそる尋ねると、静は思わず吹き出した。
「ふふっ、乙羽はそっちが気になるのね」
「だ、だってぇ……。世界の話は難しいしぃ……。学校に行くのが楽になるなら、そのほうがうれしいもん……」
「はい。転移先をきちんと確認しておけば、登下校に使うこともできますよ」
「ほんとぉ!?」
乙羽の表情がぱっと明るくなった。
「それなら、お願い、先生ぇ……!」
「ふふ、任せてください」
リーゼロッテは、いつものように穏やかに微笑んだ。
こうして、乙羽たちの登下校には、転移魔法という新たな選択肢が加わることになった。




