「えぇっ!? そ、そんな大げさなぁ……!」
家に帰り着いた乙羽たちは、ようやくひと息つくことができた。
学校であんな騒ぎに巻き込まれるなんて、朝の時点では思いもしなかった。配信を見て応援してくれる人がいるのはありがたいことなのだろうが、実際に大勢に取り囲まれると、どう対応すればいいのか分からなくなってしまう。
「ただいまぁ……」
「おかえり、乙羽。……あら、どうしたの? みんな、ずいぶん疲れた顔をしているわね」
リビングから顔を出した静は、帰ってきた乙羽たちを見て、不思議そうに首を傾げた。
「えっ、そ、そんなに顔に出てる?」
「出ているわよ。学校で何かあったの?」
「うぅ……。実はね、学校の帰りに……」
乙羽は、校門のところでティンカーベルのメンバー全員がファンに取り囲まれたこと、帰ろうとしてもなかなか通してもらえなかったこと、最後は副会長の綾小路政宗に助けてもらったことを説明した。
話を聞いていた静は、途中から笑顔を消していた。
「……なるほどね。配信を見た人たちが、直接会いに来るようになったわけか」
「う、うん……。応援してくれるのは嬉しいんだけど、あんなにいっぱい来るとは思わなくてぇ……」
「乙羽が悪いわけじゃないわ。相手が節度を守らなかった、それだけよ」
静はそう言って、妹の頭を軽く撫でた。
「でも、これからも同じことが起こる可能性はあるわね。今日みたいに学校で騒ぎになるだけならまだしも、家まで特定されるようなことになったら面倒だわ」
「お、お家まで……?」
乙羽の顔が、さっと青ざめる。
「まだ家が知られたと決まったわけじゃないわよ。そこまで心配しなくてもいいから」
「そ、そうだよねぇ……。よかったぁ……」
ほっと胸を撫で下ろす乙羽を見て、静は小さく息をついた。
「……朝、話していたことだけど、やっぱり引っ越しは進めたほうがよさそうね」
「……あっ、そうだったねぇ」
乙羽も、そこでようやく朝の話を思い出した。
今朝、静と母親は、配信や冒険者としての活動がこれからどう影響してくるかを考え、引っ越しについて相談していた。候補となる物件の下見もすでに済ませていて、帰宅したら改めて乙羽に話すつもりだったのだ。
「今日帰ってきたら、朝に話していたことを乙羽にも詳しく説明しようと思っていたのよ。まさか、その前にこんなことが起きるなんてね」
静は困ったように笑った。
「もう配信の影響が出ていたわね。私たちが思っていたより、早かったみたい」
「う、うん……。わたしも、こんなに早く影響が出るとは思わなかったよぉ……」
「もちろん、今日のことだけで急に決めたわけじゃないわ。前から考えていたことだし、下見も済んでいるから、あとは家族で話を詰めていく段階ね」
「そ、そっかぁ……。もう下見まで終わってたんだねぇ」
「ええ。実際に見てみたら、かなり条件のいい物件だったのよ」
「も、もう!?」
「だから、下見は済ませてあるって言ったでしょう?」
静は少しおかしそうに笑った。
「というより、冒険者協会のほうから紹介してもらった物件なのよ」
「冒険者協会?」
乙羽が首を傾げると、静はうなずいた。
「神奈川県冒険者協会と提携しているマンションがあるの。冒険者、特に高ランクの人たちが安心して暮らせるように、セキュリティ面を重視している物件ね。協会からの推薦もあるし、条件を満たした冒険者なら割引も受けられるのよ」
「へぇ……。そんなところがあるんだぁ……」
「一般のマンションより警備がしっかりしているし、部外者が簡単に出入りできない仕組みになっているわ。コンシェルジュもいるから、何かあったときに相談しやすいのもいいところね」
「す、すごい……」
乙羽は感心したようにうなずいた。
冒険者協会が関わっているのなら、確かに普通のマンションとは違うのだろう。ダンジョンに潜る冒険者は留守にすることも多いし、装備や貴重品を持っている人もいる。安全面に力を入れる理由は、乙羽にも理解できた。
「それに、冒険者向けの設備も充実しているの。ジムはもちろん、個人で使えるトレーニングルームもあるらしいわ」
「個人用のトレーニングルーム……?」
「ええ。周囲を気にせず訓練できる場所があるのは便利でしょう?」
「た、たしかに……」
乙羽は曖昧にうなずいた。
便利なのは間違いない。けれど、自分がその設備をどこまで活用することになるのかは、少し考えたくなかった。
「建物は40階建てで、私たちが住むのは35階。眺めもいいわよ」
「さ、35階!?」
乙羽は思わず声を上げた。
「そ、そんな高いところに住むの!?」
「そうよ。プールもあるし、スカイラウンジもある。建物の中にはコンビニまで入っているから、ちょっとした買い物にも困らないわね」
「ぷ、プールまで!? コンビニも!?」
次々と出てくる情報に、乙羽の頭は追いつかなくなっていた。
セキュリティがしっかりしていて、トレーニングルームがあって、プールがあって、建物の中にコンビニまである。しかも35階に住むという。
それはもう、乙羽が知っている普通のマンションとは別世界だった。
「お、お姉ちゃん……。それって、ものすごく高いんじゃ……?」
「まあ、億ションね」
「おく……?」
乙羽は一度、言葉を頭の中で繰り返した。
そして、意味を理解した瞬間――。
「えぇ……どこからそんなお金がぁ!?」
思わず叫んでしまった。
静はそんな妹を見て、呆れたように笑った。
「私、Sランク冒険者なんだけど?」
「そ、それはそうだけどぉ……!」
「Sランクになると、依頼の報酬もそれなりに大きいのよ。私は無駄遣いをしているつもりもないし、これくらいの物件なら十分に手が届くわ」
「お姉ちゃんって、そんなにお金持ちだったんだねぇ……」
「今さら何を言っているのよ」
静は苦笑しながら、乙羽の額を指先で軽くつついた。
「それに、今回は冒険者協会の紹介だから、条件に合う物件を探す手間も省けたし、割引もあるの。安全面を考えれば、多少お金がかかっても悪い選択じゃないわ」
「う、うーん……。たしかに、安全なのは大事だよねぇ……」
乙羽も、そこは納得せざるを得なかった。
今日のように学校で取り囲まれることが続けば、いつかもっと困った事態になるかもしれない。家の場所まで知られてしまえば、静や母親にも迷惑がかかる。
そう考えると、引っ越しは決して大げさな話ではなかった。
「それでね、もうひとつ確認しておきたいことがあるの」
「な、何?」
「リーゼロッテと、フェンちゃんのことよ」
名前を呼ばれたリーゼロッテが、静のほうを向いた。
「フェンちゃんは暮らせるのかしら?」
「はい。問題ありませんよ」
リーゼロッテは、特に迷う様子もなく答えた。
「フェンちゃんは私の召喚獣ですから、私が召喚を維持している限り、一緒にいられます。新しいお家でも過ごせますよ」
「それならよかった。新しいマンションはペットも大丈夫みたいだから、フェンちゃんもいてくれると嬉しいわ」
「ペット可なのですね。それは助かります」
リーゼロッテは安心したようにうなずいた。
「ただ、ダンジョンへ行くときは、フェンちゃんには私のところへ戻ってもらうことになりますね。帰ってくる場所は、新しいお家に設定できますから」
「……そんなこともできるのね」
静は、少し驚いた顔をした。
「召喚に関することですから、それほど難しいことではありませんよ」
「それほど難しくない……」
静は小さくつぶやいた。
普通の冒険者にとっては、召喚獣の帰還先を自由に設定できるというだけでも、十分に驚くべきことのはずだ。けれど、リーゼロッテはまるで当たり前のことのように言っている。
相変わらず、彼女の常識はどこかずれているらしい。
「それじゃあ、フェンちゃんも一緒に新しいお家へ引っ越しだねぇ」
乙羽がそう言うと、リーゼロッテはにこりと微笑んだ。
「はい。フェンちゃんも、きっと喜ぶと思いますよ」
新しい家には、広い設備も、安全な環境もある。フェンちゃんも一緒に暮らせるとなれば、乙羽としても少しずつ引っ越しが楽しみになってきた。
――ただし。
「……あ、そうだ」
乙羽は、ふと何かを思い出したようにリーゼロッテを見た。
「先生ぇ……。コンビニが建物の中にあるって言ったよねぇ?」
「はい。そう聞きましたが」
「だったらさぁ……」
乙羽は、少しだけ言いにくそうにしながらも、思い切って口にした。
「自分のスマホ決済にしたらぁ?」
「……え?」
リーゼロッテが目を丸くした。
「先生、いつもコンビニでウェブマネー買ってるでしょ? スマホで支払えるようにしたら、わざわざ買いに行かなくてもいいんじゃないかなぁって……」
「スマートフォンで、支払いを……?」
リーゼロッテは自分のスマートフォンを取り出し、画面をじっと見つめた。
それから、はっとしたように顔を上げる。
「なるほど! そのような方法があったのですね! つまり、買い物をするときに、この端末で支払いを済ませられるようにすればよいのですね? そうすれば、わざわざウェブマネーを買いに行く必要もなくなる……!」
「そ、そうそう……」
「乙羽、あなたは天才ですか!?」
「えぇっ!? そ、そんな大げさなぁ……!」
突然目を輝かせたリーゼロッテに、乙羽は慌てて両手を振った。
静はというと、2人のやり取りを見ながら、完全に話についていけなくなっていた。
「……ちょっと待って。どうしてウェブマネーの話になったの?」
「えっとぉ……。先生が、スマホで課金したいみたいだから……?」
「ゲームね……、やりすぎじゃないかしらね……?」
「そ、それもそうなんだけどぉ……」
乙羽は困ったように笑った。
しかし、リーゼロッテはすでに新しい可能性に胸を躍らせているようだった。
「ふふふ……。これで、もっと便利に買い物ができるようになりますね!」
「……まあ、便利になるならいいけど」
静は、納得したような、していないような顔でため息をついた。
こうして、乙羽たちの引っ越し先は、少しずつ具体的な形になっていくのだった。




