「ちょっと触っただけなのにぃ…」
(め、面倒な人だぁ……。どうしよう。適当に流して、早く帰りたいなぁ……)
乙羽は困り果て、視線をあちこちへさまよわせた。
言い返したいわけでも、喧嘩をしたいわけでもない。そもそも、どうして自分がこんなふうに絡まれているのかもよくわからない。
できれば、何事もなかったようにその場を離れたい。
けれど、政宗は乙羽が黙っているのを、怯えていると受け取ったらしい。
彼は満足げに顎を上げると、制服の襟元を整え、わざとらしく髪をかき上げた。まるで、自分のほうが上の立場にいることを周囲に見せつけるような仕草だった。
「どうしたんだい? 主席ともあろう者が、先輩を前にして何も言えないのかい?」
(うう……。なんでこんな人に絡まれちゃうのぉ……)
乙羽は思わず肩をすくめた。
周囲には、柳と琴もいる。さらに、ダンジョン探索の記録を兼ねた配信も続いているのだ。
こんなところで騒ぎを起こしたら、目立つどころの話ではない。
(普通に探索して、普通に帰るだけだったのにぃ……。どうしてこうなっちゃうのぉ……)
そのとき、乙羽は足元に転がっている小石に目を留めた。
(……あ、そうだ。小石を飛ばせば……)
小さな小石を魔法で飛ばし、政宗を気絶させる。
そうすれば、少なくとも、これ以上絡まれずに済むかもしれない。
もちろん、気絶させたことが問題になる可能性はある。けれど、今のところ、相手は一方的に嫌味を言っているだけだ。こちらから手を出さなければ、どうにもならない。
それなら、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ力を使って、すぐに終わらせればいい。
(えっとぉ……。弱い魔法に設定して……小石も、指先より小さくしてっと……)
乙羽は政宗に気づかれないよう、手を身体の陰に隠しながら、指先をそっと動かした。
足元の小石が、音もなく浮かび上がる。
乙羽は、それを見て小さく頷いた。
(うん。これなら、そんなに目立たないよねぇ……)
彼女は知らなかった。
小石を小さくしたところで、込めた魔力の密度まで小さくなるわけではないことを。
そして、本人が弱いつもりで放った魔法が、地球の冒険者にとってどれほど危険なものになるのかも。
乙羽は指先を軽く弾いた。
本人としては、ほんの軽い一撃のつもりだった。
しかし、魔力を込める加減を間違えた小石は、目にも留まらぬ速さで飛んでいく。
そして――。
政宗の頬に、赤い筋が走った。
「……え?」
政宗は、何が起きたのかわからないという顔で動きを止めた。
頬に、わずかな痛みがある。
彼は恐る恐る指先で触れた。
そこには、細い傷ができていた。
指先に付着した赤いものを見た瞬間、政宗の表情が凍りつく。
「……血?」
数秒後。
彼の顔が、みるみるうちに怒りで染まった。
「キミィ! 今なにをした! この僕の美しい顔を傷つけたな!」
「や、やば……どうしよう」
乙羽は青ざめた。
(えええっ!? ちょっと待ってぇ! 気絶させるつもりだったのに、どうして頬に傷がついちゃったのぉ!?)
そもそも、気絶させるつもりだったこと自体、あまり穏便ではないのだが。
乙羽はそこまで考える余裕もなく、慌てて自分の指先を見つめた。
小石は、もう見えない。
あまりにも速く飛んでいったせいで、自分でも軌道を追えなかったのだ。
『あっ』
『今、何か飛んだ?』
『頬に傷が……!?』
『乙羽ちゃん、何した!?』
『いや、今の動き見えなかったんだが』
『二年主席の顔に傷つけたぞ……』
『え、今の乙羽ちゃんがやったの?』
『これは面倒なことになったwww』
コメント欄も、突然の出来事にざわつき始めた。
映像には政宗が頬を押さえる姿が映っているものの、何が原因だったのかは、はっきりとはわからない。
だが、本人が乙羽を睨みつけている以上、何かがあったことだけは確かだった。
柳は舌打ちすると、すぐさま政宗と乙羽の間に割って入った。
「おい、ちょっと待てよ」
政宗がぎろりと睨みつける。
「なんだ、君は!」
「あたしは乙羽の仲間だよ。今の、あんたが勝手に絡んできたんだろ? それで顔に傷がついたからって、何をしたって騒ぐのはおかしくねえか?」
「なっ……! そこの君、先輩に向かってその口の利き方はなんだ!」
「はぁ? 先輩なら何してもいいのかよ」
柳は一歩も引かなかった。
普段から見た目や態度のせいで誤解されやすい彼女だが、仲間が一方的に責められているのを黙って見ている性格ではない。
政宗は柳の態度に腹を立てたのか、今度は彼女を指さして何か言い返そうとした。
しかし、その前に琴が乙羽のそばへ寄り、剣の柄に手を添えた。
抜刀こそしないものの、いつでも動けるように身構えている。
「……お、乙羽。だ、大丈夫か……?」
「う、うん……。だ、大丈夫だよぉ……」
乙羽は小さく頷いた。
けれど、その顔は明らかに引きつっていた。
(大丈夫じゃないよぉ……! 私、何しちゃったのぉ……!)
自分がやったことなのだから、知らないふりをするのも気が引ける。
かといって、正直に話せば、魔法で小石を飛ばして相手を気絶させようとしたことまで説明しなければならなくなる。
どう考えても、面倒なことになる未来しか見えなかった。
『おいおい、なんかケンカ始まったぞwww』
『入学式で一年主席に嫌味言ってた先輩じゃん』
『乙羽ちゃん、完全に巻き込まれてて草』
『これ配信止めなくていいのか?』
『相手、二年の主席パーティーだろ? さすがに一年じゃキツくね?』
『柳ちゃん、すぐ庇いに入るのいいな』
『琴ちゃんも警戒してる……』
『いや、そもそも何が飛んだんだよ』
「キミィ! 黙っていないで何か言いたまえ! 僕の顔に傷をつけておいて、謝罪もなしか!」
政宗は頬を押さえたまま、柳の横をすり抜けるようにして乙羽へ詰め寄った。
その顔には、傷そのものへの痛みよりも、「自分の美しい顔が傷つけられた」ということへの怒りが浮かんでいる。
しかも、怒りを周囲に見せつけるように、何度も自分の頬を指さしてきた。
「見たまえ、この傷を! 僕の顔に! こんな傷が!」
「ひゃっ……! ご、ごめんなさい……?」
乙羽は反射的に謝りかけて、慌てて口をつぐんだ。
(あああ……! 謝ったら、私がやったって認めることになっちゃうよぉ……! でも、私がやったんだよねぇ……!)
自分の中では完全に自白しているのに、口に出すわけにはいかない。
乙羽は視線を泳がせた。
柳は政宗を睨みつけ、琴は乙羽の様子を気にしながらも、いつでも間に入れるように立っている。
このままでは、仲間まで巻き込んでしまう。
(ど、どうしよう……。どうしたら、みんな怒らずに帰れるのぉ……?)
乙羽が必死に解決策を探していると、すぐそばから、場違いなほど落ち着いた声が聞こえてきた。
「なるほど。相手はかなり興奮しているようですね。では、少し冷静になってもらいましょう」
「えっ?」
リーゼロッテが小さく首を傾げ、指先を軽く弾いた。
次の瞬間、政宗たちの動きが急激に遅くなった。
「なっ……!? な、なんだ、これは……!」
政宗は腕を振り上げたまま、まるで水の中にいるかのようにゆっくりと動いている。
隣にいた仲間たちも同様だった。
誰かが驚いて声を上げようとしているが、その声さえ、ひどく間延びして聞こえる。
彼らは動けないわけではない。ただ、身体の動きが極端に遅くなっているのだ。
その異様な光景を前に、乙羽は目を丸くした。
「え、ええっ……?」
リーゼロッテは、そんな乙羽へ満面の笑みを向ける。
「今ですよ、乙羽! 相手の動きを遅くしました! この隙にやってしまいなさい!」
「ちょっ!?」
(いやいやいやいや! 何してんの先生ぇぇぇ!!)
乙羽は思わず叫びそうになり、慌てて口を押さえた。
どうして今、そんなことをするのだろう。
ただでさえ、頬に傷をつけてしまって大変なことになっているのに、相手全員の動きを封じるような真似をしたら、余計に騒ぎが大きくなるではないか。
『は?????』
『今の妖精なにした!?』
『デバフ!? 相手全員に!?』
『乙羽ちゃんの召喚獣、普通にヤバくね?』
『今ですよ! じゃねえんだよwww』
『二年主席パーティー、完全に動き止まってるぞw』
『いや、動きが遅くなってるんだよな? 何の魔法だこれ』
『先生、判断が早いwww』
「ちょ、ちょっと先生! 卑怯じゃない? 弱いし、ほっとけばいいじゃん!」
乙羽はリーゼロッテに駆け寄り、声を潜めて抗議した。
相手の動きを遅くしたところで、何が解決するというのだろう。
むしろ、これでは自分たちが一方的に攻撃しようとしているように見えてしまう。
リーゼロッテは、きょとんとした顔で乙羽を見返した。
「卑怯? 何を言っているのですか。先に敵意を向けてきたのは相手です。こちらは正当防衛ですよ?」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
「それに、乙羽。あなたなら、この程度の相手は簡単に制圧できるでしょう?」
「だから! そういうことを大声で言わないでってば!」
乙羽は両手をわたわたと振った。
今は配信中なのだ。
リーゼロッテの発言は、当然ながら視聴者にも届いている。
しかも、よりによって「簡単に制圧できる」などと言ってしまった。
これでは、乙羽が実力を隠そうとしていることまで知られてしまうではないか。
いや、すでに何度も危ない発言をされている気がする。
(先生ぇ……! お願いだから、もう何も言わないでぇ……!)
リーゼロッテは乙羽の焦りを理解していないのか、不思議そうに首を傾げた。
「なぜです? あなたの実力を知ってもらう、よい機会ではありませんか」
「見せたくないから困ってるんだよぉぉぉ!!」
『乙羽ちゃん、今日何回目の悲鳴?』
『先生と乙羽ちゃんの漫才配信になってて草』
『二年主席、完全に置いてけぼりでかわいそうw』
『いや、これもう一年主席の実力隠せてないだろwww』
『妖精のほうも相当な実力者なのでは?』
『乙羽ちゃんが困ってる理由がわかるような、わからないようなw』
そんなやり取りを聞いていた柳は、乙羽へ視線を向けた。
さっきから、何かがおかしい。
乙羽本人は困り果てているように見えるのに、リーゼロッテは彼女なら簡単に制圧できると断言している。
それに、先ほどから乙羽は、相手の強さを気にしている様子がほとんどない。
柳は眉をひそめた。
「おい、乙羽! 言われっぱなしで悔しくねぇのかよ! お前、何か隠してんだろ!」
「そ、そんなことないもん……!」
乙羽はぶんぶんと首を横に振った。
しかし、あまりにも必死な否定だったせいで、かえって怪しさが増してしまう。
「いや、どう見ても何かあるだろ。先生はお前なら簡単に勝てるって言ってるし、さっきからお前自身も妙に余裕あるし……」
「よ、余裕なんてないよぉ……!」
むしろ、今すぐこの場から逃げ出したいくらいだった。
琴も、困惑した表情で乙羽を見つめていた。
「……お、乙羽。わ、私も……その……聞きたいことがある」
「ひゃっ!? な、なに、琴ちゃん?」
琴は一度、柳のほうへ視線を向けた。
それから、動きの遅くなった政宗たちを見やる。
彼らは今も必死に身体を動かそうとしているが、その動きはあまりにも緩慢だった。
琴は小さく息を吸い、意を決したように口を開いた。
「……あの人たちが、今の乙羽の相手になると……本当に思っているのか?」
「えっ?」
乙羽は、きょとんとした。
琴が何を聞きたいのか、すぐにはわからなかったらしい。
彼女は改めて政宗たちを眺めた。
動きが遅くなっているせいで、今は普段よりも弱そうに見える。
けれど、そもそも乙羽にとって、彼らは最初からそれほど強い相手ではなかった。
だからこそ、こんなに騒ぎになる理由がよくわからない。
乙羽は心底不思議そうに呟いた。
「……この人たちが弱いだけだと思うんだよね……」
沈黙が落ちた。
柳が口を開けたまま固まり、琴も目を見開いた。
リーゼロッテだけが、満足そうに頷いている。
そして、配信コメントだけが、猛烈な勢いで流れ始めた。
『…………は?』
『今なんつった???』
『この人たちが弱いだけwwwww』
『一年主席、天然煽り性能まで主席なのかよ!』
『二年主席パーティーをまとめて弱い判定は草』
『いや待て、本人マジでそう思ってる顔してるぞwww』
『琴ちゃんが聞いたのはそういうことじゃないと思うんだがw』
『言い方ァ! 言い方ァ!!』
「き、キミィ……! 僕たちが弱いだと……!? この僕が! 二年の主席であるこの僕が! 一年の小娘に侮辱されるなど……!」
動きが遅くなっているにもかかわらず、政宗の怒りだけは少しも衰えていなかった。
顔を真っ赤にし、震える指先で乙羽を指さそうとしている。
その様子を見て、乙羽は困ったように眉を下げた。
(うわぁ……面倒くさい……)
どうして、この人はこんなに怒っているのだろう。
乙羽には、どうにも理解できなかった。
そもそも、彼女は政宗たちを弱いと馬鹿にしたかったわけではない。
自分の感覚では、普通に戦えば簡単に倒せてしまいそうな相手だった。それだけの話なのだ。
けれど、それを説明したところで、きっとまた怒らせてしまう。
乙羽は口を開きかけ、結局、何も言えずに閉じた。
そんな彼女の背中を、リーゼロッテが勢いよく押すような声で励ました。
「乙羽! 何を遠慮しているのです! あなたなら、あの程度の相手に負けるはずがありません!」
「いや、だからそういう話じゃ――」
「さあ! 堂々と実力を示しなさい!」
(先生ぇぇぇ!!)
乙羽は、今度こそ頭を抱えたくなった。
どうして先生は、いつもこうなのだろう。
自分を褒めてくれるのは嬉しい。大好きな先生なのだから、褒められて嫌な気持ちになるわけではない。
でも、今は違う。
今はとにかく、目立ちたくないのだ。
実力を知られたくない。面倒なことに巻き込まれたくない。できれば、明日からも普通に学校へ通いたい。
それなのに、先生はことあるごとに自分の実力を明かそうとしてくる。
(お願いだから、私の平穏な学校生活を守ってぇ……!)
そのとき、琴がもう一度、乙羽に声をかけた。
「……乙羽」
「ひゃっ!? な、なに、琴ちゃん……?」
琴は少しだけ言いよどんだ。
普段から人と話すのが得意ではない彼女にとって、配信中にこんな質問をするのは勇気がいることだった。
それでも、今は聞かずにはいられなかった。
「そ、その……今の言葉が本心なら、ひとつだけ確認したい。あの人を……どの程度の相手だと思っている?」
尋ねたあと、琴はすぐに視線をそらした。
配信カメラを意識しているのか、耳まで少し赤くなっている。
乙羽は、うーん、と小さく唸りながら考え込んだ。
どの程度の相手。
そう聞かれても、困ってしまう。
そもそも、乙羽は地球の冒険者がどの程度の強さなのか、まだよくわかっていないのだ。
異世界では、もっと強い相手がいくらでもいた。
レベル百二十でも、強者と呼ばれるには程遠い。そんな環境で二年間を過ごしてきた乙羽にとって、目の前の政宗たちを特別な強敵だと思う理由はなかった。
もちろん、そんな事情をここで説明するわけにはいかない。
乙羽は少し考えた末、できるだけ正直に答えた。
「え? えっと……うーん……普通に殴ったら倒れちゃいそうだから、手加減しないといけない相手……かな?」
言い終えてから、乙羽は首を傾げた。
「……あれ? これ、変なこと言った?」
『普通に殴ったら倒れちゃいそう』
『もう言い逃れできないwww』
『琴ちゃん、今の聞いた?』
『柳さんの顔www』
『一年主席、二年主席をワンパン判定』
『本人は変なことを言った自覚がない模様』
『手加減しないといけないって、完全に格上の発言なんだよなぁ……』
琴は、しばらく乙羽の顔を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……なるほど」
「やっぱりな。アタシの目は間違ってなかったぜ」
柳は納得したように腕を組んだ。
以前から、乙羽には何かあると感じていたのだろう。今の発言を聞いて、その疑いが確信へと変わったらしい。
「えっ? いや、あの、そういう意味じゃ……!」
「何が違うんだよ。今、自分で言っただろ!」
「そ、そうだけどぉ……!」
乙羽は慌てて両手を振った。
けれど、何が違うのかを説明しようとすると、余計に墓穴を掘ってしまいそうだった。
どうしよう。
どうすれば、誤解を解けるのだろう。
(ううう……。なんで私、普通に答えただけなのにぃ……)
その間にも、リーゼロッテは嬉しそうに頷いている。
まるで、乙羽の実力が仲間にも伝わったことを喜んでいるかのようだった。
そして、彼女の魔法が解けた。
政宗たちの動きが、急に元へ戻る。
「ふ、ふざけるな……! この僕を、そこまで侮辱して……!」
政宗はよろめきながら姿勢を立て直した。
遅くなっていた間に乱れた制服の襟を直し、髪をかき上げる。さらに、頬の傷をもう一度指でなぞり、その手を見て悔しそうに歯を食いしばった。
自分の美しい顔に傷をつけられたこと。
一年生に侮辱されたこと。
そして、その一年生が自分をまるで相手にしていないこと。
そのすべてが、政宗の自尊心をひどく傷つけていた。
「キミ……! 先ほどから好き放題言ってくれるじゃないか……!」
「え、えっと……」
乙羽は反射的に一歩下がった。
政宗が怒っている理由はわかる。
自分が小石を飛ばしたせいで、頬に傷をつけてしまったのだから。
けれど、だからといって、ここからどうすればいいのかはわからない。
謝ったら、やったことを認めることになる。
黙っていたら、さらに怒らせてしまう。
そもそも、どうして最初からこんなことになっているのだろう。
政宗は、周囲に見せつけるように一歩踏み出した。
「キミ、覚悟は――」
「えっ、あ、ちょっと待って!」
乙羽は、反射的に政宗の肩へ手を伸ばした。
近づいてきた相手を止めようと、ほんの少し触れただけだった。
ぽんっ。
軽い音がした。
次の瞬間。
政宗の身体が、数メートル先まで吹っ飛んだ。
壁に激突する轟音が、ダンジョンに響き渡る。
ドゴォンッ!!
壁が大きく揺れ、周囲に細かな砂埃が舞い上がった。
その場にいた全員が、ぴたりと動きを止めた。
柳も、琴も、政宗の仲間たちも。
リーゼロッテでさえ、一瞬だけ目を丸くした。
乙羽は、伸ばした手をそのままの形で止めていた。
「…………」
何が起きたのか、理解できない。
目の前にいたはずの政宗が、いなくなっている。
慌てて視線を動かすと、数メートル先の壁際に、彼の姿があった。
政宗は壁にめり込むような格好でぶつかったあと、ずるずると床へ崩れ落ちていく。
「…………」
「…………」
誰も、何も言わなかった。
ほんの一瞬前まで、あれほど騒がしかったダンジョンが、嘘のように静まり返っている。
配信画面の向こう側でも、視聴者たちは言葉を失っていた。
そして、数秒後。
『……………………は?』
『今、肩パンした???』
『肩パンで人間が飛んだんだが???』
『待て待て待て待てwwwww』
『あれが軽く触っただけってマジ???』
『二年主席、壁とキスしてて草……いや笑えねえよ!』
『小石で頬に傷をつけて、最後は肩パンで壁まで運搬!?』
『いや、運搬ってなんだよwww』
『本日の配信、伝説確定』
『一年主席、二年主席を肩パンで壁まで運搬』
『タイトルこれで決まりだろwww』
コメント欄が、再び猛烈な勢いで流れ始めた。
先ほどまでの騒ぎとは、明らかに違う。
今度は誰もが、目の前で起きたことを疑っていた。
相手の肩を軽く押しただけ。
それだけで、人間が数メートルも吹っ飛び、壁に激突したのだ。
しかも、やった本人が一番驚いている。
乙羽は、自分の手をじっと見つめた。
それから、壁際の政宗へ視線を戻す。
「……あ、あれ?」
もう一度、自分の手を見た。
「なんで……?」
もちろん、答えてくれる人はいない。
乙羽は、恐る恐る自分の手を握ったり開いたりした。
「ちょっと触っただけなのに……」
どうして、こんなことになったのだろう。
ただ肩を押して、止めようとしただけなのに。
ほんの少し手を伸ばしただけなのに。
どうして、人が壁まで飛んでいくのだろう。
乙羽には、まったく理解できなかった。
そんな彼女の隣で、リーゼロッテが誇らしげに胸を張った。
「ふふっ! さすが乙羽です!」
「先生は黙っててぇぇぇ!!」
乙羽の悲鳴が、ダンジョンに響き渡った。
そして、彼女はその場にしゃがみ込んだ。
(もうやだ……。普通に学校生活送りたいだけなのに……!)




