「な、殴り賢者ってなにぃ…?」
訓練所。
ダンジョンの入り口に隣接したその場所には、冒険者が武器の試し斬りや模擬戦を行うための設備が整えられていた。
安全対策として結界も設置されており、多少激しい戦闘になっても周囲に被害が出ないようになっている。
冒険者Aは訓練用の剣を手にすると、乙羽の方へ向き直った。
「さあ、来いよ。新人相手だからって、こっちから一方的に攻めたりはしねぇ。まずはお前の実力を見せてみろ」
「え、えっとぉ……」
乙羽は困ったように視線を泳がせた。
(どうしよぉ……。本当に戦ったら、絶対に目立っちゃうよねぇ……)
「乙羽! 遠慮はいりませんよ!」
「遠慮しかできないよぉ……!」
リーゼロッテは応援するように拳を握っている。
柳はその様子を見て、深いため息をついた。
「……まあ、やるしかねぇか。乙羽、無理はすんなよ!」
「う、うん……」
琴も心配そうに見守っている。
「乙羽、相手はC級だ。危険だと思ったら、すぐに降参してもよいのだからな……!」
「ありがとう、琴ちゃん……」
乙羽は二人の気遣いに少しだけ安心した。
ただし、問題は相手の強さではない。
自分がどこまで力を抑えればいいのか、それがわからないのだ。
(えっと……。先生に教わったとおり、身体強化は最低限にして……。攻撃も、当たらないくらい弱くして……。うん、それなら大丈夫かなぁ……)
乙羽はグローブをはめた手を、そっと握った。
「準備はいいか?」
「は、はい……」
「じゃあ、いつでも来い!」
冒険者Aは剣を構えた。
乙羽は少し離れた位置から、恐る恐る拳を構えた。
魔法師のはずなのに、なぜか武器はグローブ。
そのちぐはぐな姿に、配信コメントが流れた。
『魔法師なのに拳で戦うの?』
『グローブに金属板ついてない?』
『殴る気満々じゃんw』
『いや、相手C級だぞ。大丈夫か?』
(うぅ……。あんまり見ないでぇ……)
乙羽は小さく息を吸った。
(えっと……絶対にケガをさせちゃダメだよねぇ……。相手はC級の冒険者さんだし、普通に殴ったら危ないもん……)
そもそも、乙羽は相手に勝ちたいわけではない。
できれば穏便に終わらせて、そのままダンジョンに入りたい。それだけだった。
(身体強化も、ほんのちょっとだけ……。ううん、ちょっとでも強すぎたらダメだよねぇ……。腕を振るだけにして、拳も当てないようにしよう……)
乙羽は自分の拳をじっと見つめた。
異世界では、これくらいの手加減なら問題なかった。けれど、ここは地球だ。相手の強さも違うし、どこまでなら安全なのかもわからない。
(よ、よし……。できるだけ力を抜いて……。ほんの少しだけ動かして、風が当たるくらいで……)
乙羽は肩の力を抜き、腕をゆっくりと引いた。
もちろん、全力など出すつもりはない。
むしろ、これ以上ないくらい力を抑えたつもりだった。
「じゃ、じゃあ……いきますねぇ……?」
「おう! 遠慮すんな!」
(遠慮するよぉ……! ものすっごくするよぉ……!)
乙羽は一歩踏み出した。
そして、相手に拳が届くずっと手前で、そっと腕を振った。
力は最低限。身体強化もごくわずか。拳を当てることすら避けた、乙羽なりの最大限の手加減だった。
本人としては、これなら絶対に大丈夫だと思っていた。
だが――。
ドォンッ!!
訓練所に、重い破裂音が響いた。
「うおっ!?」
拳は冒険者Aに触れていない。
それなのに、拳の軌道から生まれた風圧が、冒険者Aの身体をまとめて吹き飛ばした。
剣を構えたまま宙を舞い、訓練所の地面を転がっていく。
砂埃が舞い上がり、その場にいた全員が固まった。
「…………え?」
乙羽は振り下ろした拳を見つめた。
(あ、あれぇ……? すっごく手加減したのにぃ……?)
相手には触れてすらいない。
ただ腕を振っただけなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
「だ、大丈夫ですかぁ!? ご、ごめんなさぁい!」
慌てて駆け寄ろうとする乙羽。
その一方で、リーゼロッテは満足そうに頷いていた。
「さすが乙羽です! あれだけ手加減しても、この威力! 素晴らしいですよ!」
「せ、先生ぇ……! 褒めないでぇ……!」
乙羽は涙目で叫んだ。
(どうしよぉ……! ちゃんと手加減したのにぃ……! これじゃ全然、普通じゃないよぉ……!)
砂埃がゆっくりと晴れていく。
地面に転がっていた冒険者Aは、しばらく呆然としたまま動かなかった。
やがて、何とか上半身を起こすと、信じられないものを見るような目で乙羽を見つめた。
「おまえ……なにをした……?!」
「か、風魔法だよぉ……? 私、魔法師なのでぇ……」
乙羽はおずおずと答えた。
(そ、そう! 風魔法! 私は魔法師だから、風魔法を使ったんだよぉ! うん、そういうことにしておこう……!)
もちろん、風魔法など使っていない。
乙羽がやったのは、手加減したただのパンチだ。
拳は相手に届いていないが、振り抜いた腕から生じた風圧だけで冒険者を吹き飛ばしてしまったのである。
(あれは本当に手加減したんだよぉ……! すっごく、すっごく弱くしたんだよぉ……! なのに、どうしてあんなに吹っ飛んじゃうのぉ!?)
乙羽は内心で必死に叫んでいた。
しかし、そんなことを表情に出すわけにはいかない。
ここで「ただのパンチでした」などと説明してしまったら、それこそ大騒ぎになるに決まっている。
(だ、だから風魔法! 今のは風魔法だったんだよぉ! みんなもそう思ってるよねぇ!? お願いだから、そういうことにしてぇ……!)
「おい! お前、魔法師ってのはなんか詠唱とかするんじゃねぇのか!?」
冒険者Bが思わず声を上げた。
「えっ……? あ、えっとぉ……」
乙羽は言葉に詰まった。
(しまったぁ! 詠唱のことなんて考えてなかったよぉ! えっと、無詠唱っていうことにすればいいのかなぁ!? そうだよねぇ!? 無詠唱魔法! うん、無詠唱の風魔法だよぉ!)
自分の中で必死に言い訳を組み立てる。
実際には、魔法を使っていないのだから、詠唱する必要など最初からない。
しかし、それを口にする勇気はなかった。
「乙羽! お前、すげぇじゃねぇか!」
悩んでいる乙羽の横で、柳が目を輝かせた。
「今の、拳が当たってなかったよな!? なのにC級の冒険者を吹っ飛ばしたんだぞ!?」
「こ、これは……そのぉ……」
「これほどまでとはな……!」
琴も驚きを隠せない様子だった。
「乙羽は魔法師だから、遠距離から魔法で戦うものだと思っていたが……。まさか、あのような攻撃までできるとは……!」
「い、いや、大したことないのぉ!」
乙羽は慌てて両手を振った。
「私は必死で風魔法を使っただけでぇ……! ほ、ほら、たまたま風が強くなっちゃったというかぁ……!」
(よし! 風魔法で押し通せてる! たぶん! みんな、私が風魔法を使ったって思ってくれてるよねぇ!?)
乙羽は内心で必死に祈った。
自分がただ殴っただけだとバレなければ、まだ誤魔化せる。
そう考えた乙羽は、何とか平静を装って頷いた。
だが、周囲の反応は乙羽が期待していたものとは違っていた。
「見ましたか! これが乙羽の力なのです!」
リーゼロッテが誇らしげに胸を張った。
「乙羽は素晴らしい才能の持ち主なのですよ! 皆さんも、これで納得できたでしょう!」
「せ、先生ぇぇ……!」
乙羽は思わず頭を抱えた。
(先生ぇ! そんなに大きな声で褒めないでぇ! せっかく風魔法ってことにできそうなのにぃ!)
しかし、リーゼロッテは乙羽の内心など知る由もなく、満足そうに微笑んでいる。
冒険者Aも、ゆっくりと立ち上がりながら土埃を払った。
「……なるほどな」
「えっ?」
「俺なんか、相手にもしてねぇってか……」
「え、えぇ……?」
冒険者Aは悔しそうに拳を握りしめた。
「これが学年主席……天才ってやつかよ! クソッ! バカにしやがって!」
「ち、違うよぉ!?」
「本気を出すのすら面倒だってか! ちくしょう……!」
「そ、そんなこと思ってないよぉ……!」
乙羽は必死に否定した。
だが、冒険者Aには届かない。
相手は魔法の詠唱すらせず、風魔法で自分を吹き飛ばした。しかも、本人は「大したことない」と言い、先生まで誇らしげに実力を自慢している。
これでは、手加減されたと思うなという方が無理だった。
(ち、違うのぉ……! 風魔法じゃないのぉ……! ただのパンチなのぉ……! でも、それを言ったらもっと大変なことになっちゃうよねぇ!?)
乙羽は何とか場を収めようと、冒険者Aに向かっておずおずと笑いかけた。
「い、いやぁ……おじさんの気合にびっくりしちゃってぇ……。さすがレベル24なんだねぇ……すごいすごい……」
その場が、静まり返った。
柳がゆっくりと乙羽の方を向いた。
「……お前も煽りがすげぇな」
「ええっ!? 褒めたんだよぉ!?」
「その褒め方はダメだろ!」
「ど、どうしてぇ……!?」
乙羽は涙目になった。
(なんでぇ……!? レベル24ってすごいんだよねぇ!? 私、本当に褒めてるのにぃ……! それに、風魔法のこともちゃんと誤魔化せてる……よねぇ!?)
配信コメントは、すっかりお祭り騒ぎになっていた。
『乙羽ちゃんwww』
『レベル24なんだねぇ、すごいすごいw』
『完全に子供を褒めるときの口調で草』
『本人は本気で褒めてるんだろうな』
『柳のツッコミが追いつかないw』
『これもう何言っても煽りになるだろw』
乙羽は画面に流れるコメントを見て、さらに顔を青くした。
(どうしよぉ……。私、ただのパンチを風魔法ってことにしたかっただけなのにぃ……! なんでこんなことになっちゃうのぉ……!)
「悔しいが、俺の負けだ! 認めてやるよ!」
吹き飛ばされた冒険者Aは、悔しそうに顔をしかめながらも、はっきりとそう言った。
「ただな! ダンジョンってのは、本当に生きるか死ぬかなんだ!」
「まぁ、そうだな……。あんたの力はわかった! だが、あんまりチャラチャラして挑むなよ?」
「そ、その通りだと思いますぅ……!」
乙羽は慌てて何度も頷いた。
(そう! そうなんだよぉ! ダンジョンは危ないところなんだよぉ! だから、私も本当は目立たずに、安全第一でいきたいんだよぉ! ……あれ? なんで私、こんなに強い人みたいな扱いになってるのぉ!?)
「ああ。俺らだって弱くはねぇんだ。毎日必死で挑んでる。そこでその妖精が、こんなダンジョン制覇できるなんて軽く言いやがって」
冒険者Cはリーゼロッテに視線を向け、それから乙羽へと目を戻した。
「お前がどれだけ強いかは、今見せてもらった。だが、油断するとケガするぜ?」
「は、はいぃ……! 気をつけますぅ……!」
(うんうん! 気をつけるよぉ! 私も本当に気をつけたいんだよぉ! 特に、うっかり本気を出さないように……って、違う違う! そうじゃなくて! 私は今、風魔法を使った魔法師なんだからぁ!)
乙羽は慌てて自分に言い聞かせた。
(そう! 私は魔法師! さっきのは風魔法! 拳を振ったら風が出たの! ……いや、拳を振っただけなんだけどぉ!?)
自分で自分の誤魔化しを崩しかけ、乙羽はぎゅっと口を結ぶ。
(だ、ダメだよぉ! 自分で疑ってどうするのぉ! 風魔法だった! あれは風魔法! 絶対に風魔法!)
「ふっ、乙羽って言ったか?」
冒険者Aが、改めて乙羽を見た。
「お前のこれからが楽しみだな! 応援してやる!」
(な、なんか勝手に話がすすむんだけどぉ……!? えっ、私、応援されるようなことした!? ただ、殴って……ち、違う! 風魔法を使っただけだよぉ!)
「あ、ありがとうございますぅ……」
乙羽は、とにかく笑顔で頭を下げた。
ここで「実はただのパンチでした」などと言えるはずもない。
そんなことを言ったら、今度こそ何をされるかわからない。
(このまま! このまま風魔法ってことにしておけばいいんだよぉ! 余計なことは言わない! 聞かれても風魔法! 何があっても風魔法!)
『C級も認めるか!』
『期待の新人すぎるだろ!』
『無詠唱ってすごいんだろ?』
『いや俺には、ただ殴ろうとしただけで勝手に風が出たように見えたんだが!?』
(ひぃっ!?)
乙羽の笑顔が引きつった。
(み、見られてるぅ!? ちゃんと見られてるよぉ!? そりゃあ、殴ったんだから見られてるに決まってるよぉ! どうしよぉ!?)
『魔法師なのに詠唱なしであの威力かよ』
『詠唱を省略できる上級者ってこと?』
『拳に風をまとわせたのか?』
(ち、違うよぉ! 風なんてまとわせてないよぉ! 拳を振ったら、勝手に風が出ちゃっただけなんだよぉ!)
心の中で必死に否定しながら、乙羽は表情だけは平静を装った。
(……いや、勝手に風が出たって説明もダメじゃない!? それじゃあ余計に変だよぉ! ええと、ええと……無詠唱の風魔法! そう、無詠唱! 魔法師にはそういう技術もあるんだよぉ! たぶん! きっと!)
『殴り魔法使い』
『いや、他にも魔法属性あるんだろ? 殴り賢者だろ!』
「な、殴り賢者……!?」
思わずコメントを口に出しかけ、乙羽は慌てて口元を押さえた。
(なにその名前ぇ!? 私、賢者じゃないよぉ! 今のところ魔法師だよぉ! それに殴りってなにぃ!? 魔法を使ったことになってるのに、どうして殴る方が名前に入ってるのぉ!?)
訂正したい。
全力で訂正したい。
しかし、訂正すればするほど、さっきの一撃について説明しなければならなくなる。
そして説明すればするほど、絶対に話がおかしくなる。
(……言わない! 私は何も言わないよぉ! コメントは見なかったことにする! 風魔法! 私は風魔法を使った魔法師!)
乙羽は必死に笑顔を作り直した。
その隣では、リーゼロッテが誇らしげに胸を張っている。
「ふふん! 乙羽の実力を見れば、当然の評価ですね!」
(先生ぇぇぇ! お願いだから黙っててぇぇぇ! 今、私が必死に誤魔化してるところなのぉぉぉ!)
乙羽は心の中で叫びながら、配信画面に向かってぎこちなく手を振った。
「え、えへへ……。みんな、ありがとうねぇ……」
(どうしよぉ……! 私、ただのパンチを風魔法ってことにしたかっただけなのにぃ……! なんで私の知らないところで、どんどんすごい人になっていくのぉ……!?)




