「ここ、ほんとに地球なのぉ?」
白い光が消えると、乙羽は見慣れた自分の部屋に立っていた。
ベッドも机も本棚も、異世界へ旅立つ前と何ひとつ変わっていない。机の上には使い慣れたスマートフォンが置かれ、壁には以前から貼っていたポスターがそのまま残っていた。
「……帰って、きたんだよね?」
懐かしい部屋を見回しながら、乙羽はほっと息を吐いた。異世界で過ごした二年間は決して短くなかった。危険な旅も、仲間たちとの楽しい時間も、リーゼロッテから教わった数々の魔法も、すべて鮮明に覚えている。
それなのに、自分の身体は出発したときの十五歳のままだった。
(あれぇ……? 私、向こうで二年間も過ごしたんだよねぇ? なのに、なんだか出発したときと変わってないような……)
帰還するときに何かあったのだろうか。考えても答えは出なかったが、まずは地球に戻れたことを喜ぼうと、乙羽は机のスマートフォンに手を伸ばした。
「えっと……日付は……」
画面を点けた瞬間、乙羽の表情が固まった。
表示されていたのは、異世界へ旅立った日付だった。年も月も日も、何度確認しても変わらない。カレンダーを開いても、メッセージアプリを確認しても、最後の記録は出発した日のままだった。
(えぇっ!? うそぉ!? 私、二年間も向こうにいたんだよぉ!? それなのに、こっちは一日も経ってないのぉ!?)
乙羽はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドに腰を下ろした。異世界では確かに二年が過ぎた。何度も失敗して落ち込んだ日も、先生に褒められて嬉しかった日も、仲間たちと笑い合った時間も、全部覚えている。それなのに、地球では出発した日のまま時間が止まっているようだった。
(えっ、待って……時間が戻ったってこと? 私の二年間がなかったことになってるぅ!? で、でも、私の記憶はちゃんとあるし……先生たちと過ごした時間も、全部覚えてるよぉ……!)
嬉しいはずの帰還だったのに、いきなりわけのわからない問題にぶつかってしまった。時間が戻った理由なんて見当もつかないし、そもそも乙羽にはそんなことをする魔法を使った覚えもない。
「ど、どうしよぉ……」
しばらく画面を見つめていた乙羽だったが、ふと思い出したように扉へ目を向けた。
(……とりあえず、お母さんとお姉ちゃんに会おう。二年間、ずっと会いたかったんだもん……!)
時間がどうなったのかはわからない。それでも、家族に会いたいという気持ちだけは変わらなかった。
乙羽はスマートフォンを机に置き、部屋を出た。
「あら? 乙羽、おかえりなさい」
台所から聞き慣れた声がした。
エプロン姿のお母さんが、いつものように柔らかく微笑んでいる。音無奏、四十歳。穏やかな表情ものんびりした話し方も、乙羽の記憶にあるお母さんそのものだった。
「……お母さん」
「どうしたの? そんなところで立ち止まって。もうすぐご飯だから、手を洗ってきてね」
「あ、うん……! ただいま、お母さん!」
「あらあら、うふふ。おかえりなさい」
奏はいつもどおりに笑った。
その笑顔を見た途端、乙羽の胸に温かいものがこみ上げてきた。二年間、ずっと会いたかった人が目の前にいる。夢ではないかと疑いたくなるほど嬉しかった。
(よかったぁ……お母さん、ちゃんとお母さんだよぉ……!)
ほっとしたのも束の間、リビングへ入った乙羽は、ソファに座っている姉の姿を見て足を止めた。
「……お姉ちゃん?」
「ん? ああ、乙羽。おかえり」
音無静、二十歳。凛とした雰囲気の姉は、タブレットを片手にテレビを見ていた。ところが、そのテレビ画面に映っているのも、間違いなく姉本人だった。
冒険者らしい装備に身を包み、巨大な魔物と向かい合っている。画面の隅には配信中を示す表示があり、コメントが次々と流れていた。
『静さん、今日もすごい!』
『さすが国内トップクラス!』
『その階層をソロ攻略するのか……!』
(そ、そろこうりゃく……? えっ? お姉ちゃん、何してるのぉ……?)
「ねえ、お姉ちゃん……これ、なに?」
乙羽がテレビを指差すと、静はきょとんとした。
「何って、私の配信だけど?」
「は、配信……?」
「そう。今日は攻略の検証も兼ねて、深い階層まで行ってきたんだよ。あとでアーカイブも残すから、見たければ見れば?」
「そ、そうなんだぁ……」
(わかんないよぉ……! 何ひとつわかんないよぉ……!)
静は妹の様子を不思議そうに眺めたものの、特に気にした様子もなくタブレットへ視線を戻した。
「それより乙羽、スマホの調子悪いの?」
「えっ?」
「さっきからずっと見てるじゃん」
「あっ……う、ううん。なんでもないよぉ!」
(なんでもなくないよぉ! 時間は戻ってるし、お姉ちゃんはテレビで魔物と戦ってるし……! どういうことなのぉ!?)
乙羽は頭の中で叫びながら、静の隣に腰を下ろした。とりあえず、落ち着こう。お姉ちゃんもお母さんもいつもどおりだし、何かの勘違いかもしれない。
そう思ってテレビへ目を向けたものの、画面の中では姉が魔物の攻撃を軽々と避け、見事な動きで反撃していた。
(……あれ? お姉ちゃん、こんなに強かったっけ?)
異世界で過ごした乙羽にとって、目の前の光景は特別なものではなかった。むしろ、魔物との戦いという点だけなら見慣れた光景だ。
ただ、地球でこれが普通に放送されているという事実が、どうにも理解できなかった。
「あらあら、二人とも。そろそろご飯にしましょう」
奏に呼ばれ、乙羽は慌てて食卓へ向かった。
テーブルにはいつもと変わらない夕食が並んでいる。懐かしい母の手料理を口にすると、ようやく帰ってきたのだという実感が湧いてきた。
「そういえば静。明日の配信はどうするの?」
奏が味噌汁をよそいながら尋ねた。
「明日は休みにするよ。装備の調整もしたいし、協会から頼まれてる仕事もあるから」
「まあ、忙しいのねぇ」
「まあね。最近はダンジョンの調査依頼も増えてるし」
乙羽は箸を持ったまま、二人を交互に見た。
(ダンジョン……? 調査依頼……? お姉ちゃん、何を当たり前みたいに話してるのぉ……?)
会話の内容が理解できないのは、自分だけらしい。奏も静も、まるで普段の予定について話しているだけのような顔をしていた。
乙羽は少し迷ってから、姉に声をかけた。
「ね、ねえ、お姉ちゃん……」
「ん?」
「……いつから冒険者やってるの?」
静の箸が止まった。
「は? 何言ってんの、乙羽? 前からじゃん」
「……ま、前から?」
「そうだけど。私が冒険者になったとき、あんたも応援してくれたでしょ?」
「えっ……?」
(応援……した? 私が……? そんな記憶ないよぉ!?)
「最初の配信だって、あんた見てたじゃん。コメントもくれたし」
「え、えええっ!?」
乙羽は思わず声を上げてしまった。
(コメント!? 私、そんなことしてないよぉ!? だって、私が向こうに行ったとき、そんなものなかったはずだもん!)
「あらあら、乙羽ったら。忘れちゃったの?」
奏がくすくすと笑った。
「静が初めて大きなダンジョンに挑戦したときなんて、あなた、すごく心配していたじゃない。帰ってきた静に、怪我はないかって何度も聞いていたわねぇ」
「そ、そうなの……?」
乙羽は母と姉を見比べた。二人とも、嘘をついている様子はない。むしろ、乙羽が忘れてしまったことを不思議がっているようだった。
(……えっと、待って。お母さんもお姉ちゃんも、私と過ごした思い出はちゃんと覚えてるんだよねぇ……?)
自分が小さかったころの話も、家族で出かけた思い出も、二人の話す内容は乙羽の記憶と一致している。家族が別人になったわけではないし、自分の知らない誰かが家族のふりをしているわけでもなさそうだ。
それなのに、冒険者やダンジョンに関する記憶だけが、どうしても噛み合わない。
(私が忘れてるだけ……? でも、そんな大事なこと、忘れるかなぁ……?)
考えても答えは出なかった。
食事を終えた乙羽は、自分の部屋へ戻ると、机の上に置いたスマートフォンを手に取った。日付は相変わらず出発した日のままだったが、ニュースを調べれば何かわかるかもしれない。
検索画面に「ダンジョン 出現」と入力し、表示された記事を開く。
『国内各地のダンジョン、出現から二周年。冒険者制度の現状と今後の課題』
「…………え?」
記事には、約二年前に世界各地でダンジョンが出現したこと、それに伴って魔法やスキルの研究が進み、冒険者という職業が社会に定着していった経緯が記されていた。関連する学校や企業、冒険者を支援する組織も存在し、今ではダンジョン攻略が社会の一部になっているらしい。
(……二年前? ダンジョンが出てきたのって、二年前なのぉ?)
乙羽は画面をスクロールしながら、記事の内容を何度も読み返した。
自分が異世界へ行ったのも、二年前。
けれど、乙羽の知っている地球にはダンジョンなんてなかった。魔物も、冒険者も、魔法も、物語の中にしか存在しないはずだった。
(えっと……私が向こうに行ってる間に、こっちで何かあったってこと? でも、時間は戻ってるんだよねぇ? じゃあ、どうして……?)
頭の中がぐるぐると回り始める。そもそも、異世界で二年過ごした自分が、なぜ出発した日の地球に戻ってきたのかさえわかっていないのだ。そこへさらに、知らない世界の歴史まで突きつけられてしまった。
乙羽はスマートフォンを置き、ベッドに倒れ込んだ。
(もぅ……私だってわかんないんだもん……。なんでぇ……?)
家族はいつもどおり。家も変わっていない。なのに、世界の常識だけが自分の知っているものと違っている。
何度考えても、答えは見つからなかった。
「……ここ、ほんとに地球なのぉ……?」
乙羽の呟きに答える人は、誰もいなかった。




