「ようやく帰れる!」
「……やっと、帰れるんだね」
乙羽は目の前に広がる光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
そこは、古びた遺跡の最奥にある広間だった。
床には複雑な紋様が刻まれ、淡い光を放っている。長い時間をかけて調べ、ようやく完成させた帰還のための魔法陣だ。
音無乙羽。十五歳。
黒く長い髪が、広間を吹き抜ける風にさらさらとなびく。
大きな瞳には、喜びと寂しさが入り混じっていた。
この世界に来てから、二年。
いろいろなことがあった。
危険な魔物に襲われたり、見たこともない土地を旅したり、何度も失敗して落ち込んだり。
そのたびに助けてくれた人たちがいた。
そして今、ようやく元の世界へ帰る方法が見つかったのだ。
「本当に、これで帰れるんだな」
隣に立つ青年が、魔法陣を確かめながら言った。
カルロス。乙羽とともに旅をしてきた剣士だ。
明るい表情と爽やかな笑顔がよく似合う好青年で、腰には使い込まれた剣を提げている。いつも頼りになる彼も、今はどこか寂しそうだった。
「うん……。みんなのおかげだよぉ」
乙羽は小さく笑った。
「私ひとりだったら、絶対に無理だったもん」
「そんなことないさ。乙羽だって、ずいぶん頑張っただろ?」
「そ、そんなことないよぉ……!」
慌てて首を振る乙羽。
長い黒髪が肩から流れ落ちた。
自分のことを褒められると、どうにも落ち着かない。ましてや、この二年間を一緒に過ごしてきた仲間たちに言われると、余計に恥ずかしくなってしまう。
「ふふ。乙羽らしいですね」
柔らかな声が響いた。
ミーシャは胸元で両手を重ね、穏やかな笑みを浮かべていた。
聖職者らしい清楚な装いに身を包み、祈りを捧げるような仕草がよく似合う女性だ。旅の間、何度も仲間たちを癒やし、支えてくれた。
「帰った先でも、どうか健やかに。あなたが無事に帰れることを、私も心から嬉しく思います」
「ミーシャぁ……。うん、ありがとぉ……!」
乙羽の目が、少しだけ潤んだ。
帰りたい。
ずっと、帰りたかった。
それなのに、いざ帰れるとなると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
もう、この三人で旅をすることはないのだ。
「……えへへ。ご、ごめんね! 私のために、無理なこといっぱいさせちゃったよね……!」
乙羽は二人を見上げ、何度も頭を下げた。
「で、でも! 本当にありがと! 二人がいてくれたから、ここまで来られたんだよぉ!」
「おいおい、そんなに謝るなって」
カルロスが困ったように笑う。
「俺たちだって、乙羽と旅ができてよかったんだからさ」
「そうですよ。あなたが謝る必要はありません」
ミーシャも優しく頷いた。
「どうか、帰った先でも笑顔を忘れないでくださいね」
「うん……! 忘れないよぉ……!」
乙羽は袖で目元を拭った。
泣かないようにしようと思っていたのに、どうしても涙が出てしまう。
嬉しいのに、寂しい。
帰りたいのに、みんなと離れたくない。
そんな気持ちが、胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
「……さて」
そこで、もう一人の仲間が口を開いた。
「乙羽。そろそろ行く時間ですよ」
白い髪をふわりと揺らし、小さな妖精が乙羽の前へ飛んできた。
リーゼロッテ。
乙羽がこの世界に来て、最初に出会った相手。そして、魔法も戦い方も教えてくれた先生だ。
人間の手のひらに乗るほどの小さな身体に、白く長い髪。整った顔立ちには知性が感じられ、背中の透明な羽が淡い光を受けてきらめいている。
普段はきりっとした表情を崩さず、教えるときには少し厳しい。
けれど、乙羽が失敗して落ち込んだときには、誰よりも真剣に向き合ってくれた。
そんなリーゼロッテも、今はいつもより表情が柔らかかった。
「……先生」
乙羽は、彼女をそっと両手で包むように受け止めた。
「うぅ……。先生とも、お別れなんだねぇ……」
「ええ。あなたは元の世界へ帰るのですから」
リーゼロッテは頷いた。
そして、少しだけ眉を下げる。
「……ですが、納得できないこともあります」
「えっ?」
「そもそも、あなたがこの世界に来ることになった理由は、今でも不可解です。何の前触れもなく呼び出され、こちらの事情もわからないまま、数々の困難に巻き込まれたのですから」
リーゼロッテの声に、いつもの真面目さが戻る。
「本来なら、あなたがそんな目に遭う必要などなかったはずです」
「せ、先生……」
「それでも、あなたはよく頑張りました。何度失敗しても諦めず、私の教えを吸収し、最後まで歩き続けた。私は、あなたを誇りに思います」
「~~っ!」
乙羽の顔が、みるみる赤くなった。
「そ、そんなに言われると恥ずかしいよぉ……! わ、私なんて、先生がいなかったら何にもできなかったのにぃ……!」
「それは違います。あなたが努力したからこそ、今のあなたがあるのです」
「せ、先生ぇ……!」
もう駄目だった。
乙羽はリーゼロッテを胸元に抱き寄せると、ぎゅっと目を閉じた。
「……ありがと。先生。私、先生に会えてよかった……」
「……ええ。私もですよ、乙羽」
リーゼロッテは小さな手で、乙羽の頬をそっと撫でた。
「どうか、元の世界でも元気で。あなたなら、きっと大丈夫です」
「うん……! えへへ……!」
乙羽は涙を拭い、笑顔を作った。
まだ寂しい。
できることなら、もっと一緒にいたい。
それでも、帰ると決めたのだ。
待っている家族のもとへ。
「……じゃあ、行くね」
乙羽は魔法陣の中央へ歩いていった。
足元の紋様が、少しずつ強い光を放ち始める。
「乙羽!」
カルロスが声をかけた。
「元気でな! 向こうでも、ちゃんと飯を食べるんだぞ!」
「ふふ。カルロス、それは少し心配しすぎではありませんか?」
ミーシャが微笑む。
「でも、そうですね。乙羽、どうかお元気で」
「うん! 二人とも、ありがとぉ!」
乙羽は何度も手を振った。
そして、最後にリーゼロッテへと顔を向ける。
「先生も……元気でね!」
「ええ。乙羽も」
リーゼロッテはまっすぐに乙羽を見つめ、静かに頷いた。
魔法陣の光が、広間いっぱいに広がっていく。
眩しさに目を細めながら、乙羽は胸の前で両手を握りしめた。
帰れる。
ようやく、帰れるのだ。
大好きな家族が待つ、元の世界へ。
「……ただいまって、言わなくちゃ」
小さく呟いた、その瞬間。
白い光が乙羽の姿を包み込んだ。
仲間たちの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
乙羽は最後まで手を振り続けた。
涙で滲む視界の向こうに、三人の姿が見えなくなるまで。
そして――。
音無乙羽は、帰還した。




