「ええ。今日は誘ってくれてありがとう」
横浜ダンジョン、1層。
入り口から少し進むと、広めの通路といくつかの分岐が見えてきた。
壁には照明用の魔道具が一定間隔で設置されており、足元も比較的平らに整っている。もっとも、通路の幅や壁の形は場所によって少しずつ異なり、分岐をいくつも通過しているうちに、自分がどちらから来たのか分からなくなることもある。
周囲では、低層の依頼を受けた冒険者たちが、それぞれのペースで探索していた。
小型のモンスターを相手に戦っているパーティーもいれば、壁際で地図を確認している冒険者もいる。初めてダンジョンに入ったらしい一団が、少し緊張した様子で仲間同士の位置を確かめている姿もあった。
そんな景色を眺めながら、梓は周囲の地形を注意深く観察していた。
「ここが1層ね。地形は覚えやすそうだけど、分岐はそれなりにあるのね」
「そうだねぇ。初めて来たときは、どっちに行けばいいのか迷っちゃうよねぇ」
「乙羽たちは、もう慣れてるんだろ?」
「うん。何度も来てるからねぇ」
乙羽はそう答えながら、近くの壁に目を向けた。
「ここの壁、ちょっと模様が違うでしょぉ? こういうのも目印になるんだよぉ」
「本当ね。少し先の壁とは模様が違うわ」
梓は足を止め、壁の表面を確認した。
ただ通路を歩くだけでも、意識して見れば覚えておくべきことは多い。分岐の数や角度、壁の特徴、床の傾き。地図だけでは分かりにくい情報も、実際に歩くことで把握しやすくなる。
「なるほど……。地図の形だけを覚えるより、現地の目印も合わせて記憶したほうがよさそうね」
「そうそう。地図だけ見てると、似たような通路で迷うこともあるからな」
柳がカメラのほうへ顔を向けた。
「というわけで、今日は梓に横浜ダンジョンの道を覚えてもらうのも目的の一つなんだ!」
『なるほど、そういうお散歩か』
『転移陣を覚えるための下見ってこと?』
『実際に歩くのは大事だよな』
『でもティンカーベルが散歩って言うと、普通の散歩じゃなさそう』
「ちょっと待って。今日の目的って、私に道を覚えさせることだったの?」
梓が柳を見た。
「そうそう。横浜ダンジョンの転移陣をまだ覚えてないんだろ?」
「そ、それはそうだけど……」
「じゃあ、ちょうどいいじゃん。配信しながら歩いて、道を覚えちゃおうってこと!」
「まあ、合理的ではあるわね……」
梓は渋々ながらも納得した。
横浜ダンジョンの転移陣を記憶しておけば、今後の活動で移動しやすくなる。実際に歩いて道を確認するのも、悪い方法ではない。
それに、ティンカーベルのメンバーと一緒なら、分からないことがあってもすぐに聞ける。
梓にとっては、ダンジョンの道を覚えるだけでなく、友達になったばかりの乙羽たちと一緒に過ごせる時間でもあった。
もっとも、彼女はまだ気づいていなかった。
ティンカーベルにとっての「歩く」が、一般的な冒険者の感覚と同じとは限らないことに。
「じゃあ、まずはあっちの通路から行こうかぁ」
乙羽が指差した先には、1層の奥へ続く道があった。
「うん。分岐の位置も覚えておきたいし、ちょうどいいね」
梓が頷く。
4人は、周囲の冒険者の邪魔にならないように通路の端を進み始めた。
カメラも、彼女たちの歩みに合わせてゆっくりと動いていく。
「この先は、少し右に曲がってから分岐するんだよぉ」
「右に曲がって、その先で分岐……。わかったわ」
「梓ちゃん、覚えるの早いねぇ」
「これくらいなら大丈夫よ。地図を見るのは慣れているし、覚えること自体は苦手じゃないもの」
梓は少し得意げに答えた。
「ただ、似たような道が続くと、さすがに混乱しそうだけど」
「そういうときは、無理に全部覚えようとしなくてもいいんだよ」
琴が穏やかに説明した。
「まずはよく使うルートと、転移陣の場所を確実に覚える。それから、必要に応じて周囲の道を確認していけばいいと思う」
「なるほど。最初から完璧に覚えようとしなくてもいいのね」
「うん。実際に何度か通れば、自然と覚えられる部分もあるからね」
琴の説明に、梓は素直に頷いた。
その途中、何体かの低レベルモンスターが姿を見せたものの、ティンカーベルはわざわざ狩りに向かうことはしなかった。
小型のモンスターが通路の先を横切り、少し離れた場所にいた冒険者たちが武器を構える。
乙羽たちは足を止め、彼らの戦闘の邪魔にならないよう、通路の端へ寄った。
モンスターは冒険者たちの攻撃を受け、ほどなくして倒された。
「今日はモンスターを見つけても、基本的にはスルーするんだね」
梓が尋ねた。
「うん。必要な人がいるからねぇ」
乙羽はあっさりと答えた。
「もちろん、危険があったら別だけどぉ」
「そういうところは、ちゃんと考えてるのね」
「えへへぇ」
乙羽は嬉しそうに笑った。
低層で活動している冒険者たちには、それぞれの実力に合った狩場がある。経験を積むために戦っている者もいれば、依頼で指定された素材を集めている者もいる。
ティンカーベルが必要もないのにモンスターを倒して回れば、そうした冒険者たちの機会を奪ってしまうことにもなりかねない。
自分たちが倒せるからといって、何でも倒せばいいわけではないのだ。
『ちゃんと低層冒険者に配慮してるのいいね』
『こういう配信もありだな』
『モンスターを全部狩るだけが冒険者活動じゃないからな』
『今日は道案内配信だ』
『強いパーティーが低層で狩りまくったら、ほかの冒険者は困るもんな』
コメント欄も、彼女たちの方針を好意的に受け止めていた。
ただし、ティンカーベルは周囲を完全に無視して歩いているわけではない。
通路の奥から争うような音が聞こえれば、いったん足を止めて様子を確認する。冒険者が困っている様子なら、すぐに動けるように警戒もしていた。
そのあたりは、普段からダンジョンに潜っている彼女たちにとって、自然な行動だった。
「今のところ、危険そうな場所はなさそうね」
梓が周囲を見ながら言った。
「うん。1層は比較的安全だけど、油断はしないほうがいいよぉ」
「わかってるわ。安全な階層だからって、何が起きるか分からないものね」
梓は真剣に頷いた。
その返事を聞いて、乙羽は嬉しそうに目を細める。
「梓ちゃん、真面目だねぇ」
「冒険者なんだから、当たり前でしょう?」
「そうだねぇ」
乙羽は楽しそうに笑った。
そのまま進んでいくと、通路の先に転移陣の一つが見えてきた。
「ここが転移陣ね」
梓は足を止め、形や周囲の目印を確認する。
転移陣は通路の脇にある少し広い空間に設置されていた。近くには壁の一部がくぼんだ場所があり、その反対側には別の通路へ続く分岐がある。
「場所だけじゃなくて、周囲の景色も一緒に覚えるといいよぉ」
乙羽が説明した。
「転移陣の形だけ覚えても、似たような場所があると間違えちゃうかもしれないからねぇ」
「確かに。周囲の分岐や壁の模様も目印にしたほうがよさそうね」
梓は真剣な顔で周囲を見回した。
そして、スマートフォンを取り出して、地図と照らし合わせる。
地図上の位置を確認し、通路の向きや分岐の数を見比べる。さらに、転移陣から少し離れたところまで歩いて、どこから見えるのかも確かめていた。
「よし。ここは覚えたわ」
「おっ、順調だな!」
柳が笑う。
「まだ1層だし、今日はゆっくり覚えていけばいいよ」
琴も穏やかに声をかけた。
「そうね。せっかく来たんだし、ちゃんと覚えて帰るわ」
梓は頷いた。
転移陣の場所を覚えることは、今後の探索を効率よく進めるためにも重要だ。いざというときの移動経路を把握しておけば、戦闘で消耗したときにも役立つ。
梓は最後にもう一度、転移陣と周囲の景色を確認してから、スマートフォンをしまった。
「次は、あの分岐を確認してみたいわ」
「いいねぇ。じゃあ、そっちに行ってみようかぁ」
乙羽が頷いた。
その後も4人は、分岐や転移陣を確認しながら進んでいった。
時には立ち止まって地図を確認し、時にはカメラに向かって通路の特徴を説明する。
「ここは通路が少し狭くなっているけど、奥でまた広くなるよ」
「分岐が三つある場所では、来た方向を覚えておくと戻りやすいね」
「それと、転移陣の場所が分からなくなったら、無理に進まずに地図を確認したほうがいいよぉ」
乙羽たちは、普段から探索しているからこそ分かる注意点を、視聴者にも分かりやすく説明していった。
普段の攻略配信とは違い、戦闘よりも探索そのものに焦点を当てた内容だった。
しかし、視聴者たちにとっては、こうした地道な活動を見る機会も珍しい。
『こういう解説、普通に助かる』
『自分も横浜ダンジョンに行くから参考になる』
『ティンカーベルの道案内、贅沢すぎる』
『梓ちゃんも真剣に覚えてるな』
『攻略配信とは違う面白さがあるね』
配信は、思いのほか落ち着いた雰囲気で進んでいた。
梓も最初は道を覚えることに集中していたが、次第に余裕が出てきたのか、乙羽たちに質問する場面も増えていった。
「ねえ、みんなは横浜ダンジョンに来るとき、いつも同じルートを使っているの?」
「目的によるかな。行きたい階層が決まっているときは、なるべく無駄のないルートを使うよ」
琴が答える。
「でも、初めての場所を探索するときは、周囲を確認しながら進むこともあるね」
「へえ。じゃあ、今日みたいな歩き方も、普段からするの?」
「道を確認したいときはねぇ。あとは、配信で紹介したい場所があるときとかぁ」
乙羽が答えると、柳が横から口を挟んだ。
「ただ、普段はこんなにゆっくりじゃないけどな!」
「柳、そこは余計なことを言わなくていいの」
「なんでだよ!」
琴の突っ込みに、柳が声を上げる。
梓は思わず笑った。
「ふふっ。普段の速度がどれくらいなのか、逆に気になってきたわ」
「えぇー? 今日はちゃんとゆっくりだよぉ?」
「その言葉、信じていいのかしら……」
「信じていいよぉ」
乙羽は自信満々に頷いた。
『この人たちの「ゆっくり」は信用できないw』
『梓ちゃん、そこは疑って正解』
『散歩配信なのに移動速度の話で盛り上がってるの草』
視聴者たちの反応も、すっかり普段の雑談配信のようになっていた。
◇
1層の転移陣をいくつか確認したあと、4人は2層へと移動した。
梓は歩きながら、時折スマートフォンで地図を確認している。
「2層は、1層より少し通路が複雑なのね」
「そうだねぇ。でも、分岐の特徴を覚えれば大丈夫だよぉ」
「まあ、覚えること自体は苦じゃないわ。問題は、どこまで覚えればいいかだけど」
「全部覚えちゃえばいいんじゃないか?」
柳が何でもないことのように言った。
「……簡単に言うわね」
「だって、どうせ何度も来るんだろ?」
「それはそうだけど!」
梓が思わず声を上げると、乙羽と琴が笑った。
「ふふっ。柳らしいね」
「でも、何度も通るうちに自然と覚える部分もあると思うよぉ」
「そうね。まずはよく使うルートから覚えていくことにするわ」
梓は気持ちを切り替え、再び周囲を確認し始めた。
2層では1層よりも通路の幅に変化があり、曲がり角の先が見えにくい場所も増えていた。梓は分岐を通過するたびに地図を確認し、頭の中で通ってきた道をつなげていく。
途中で小型モンスターが現れたときも、ティンカーベルは進路を譲り、必要がない限り戦闘には介入しなかった。
梓はその様子を見て、改めて彼女たちの配慮に気づく。
強い冒険者だからこそ、自分たちが戦うべき場面と、ほかの冒険者に任せるべき場面を分けているのだろう。
それは、単純な戦闘能力とは別の意味で、経験の差を感じさせるものだった。
やがて、2層の探索もひと段落する。
乙羽がスマートフォンの時刻を確認した。
「そろそろ3層に行こうかぁ」
「もう3層?」
梓が少し驚く。
「まだそんなに時間が経っていない気がするけど……」
「お散歩だからねぇ。ゆっくり歩いてるよぉ」
「……本当に?」
梓は、どこか疑わしそうな目を向けた。
琴は苦笑しながら答える。
「今日はかなりゆっくりだよ。普段の移動なら、もっと速いこともあるから」
「それ、普通の冒険者からしたら全然ゆっくりじゃないと思うんだけど!?」
「えぇー? そうかなぁ?」
乙羽は不思議そうに首を傾げた。
『出た、ティンカーベル基準』
『この人たちの普通は信用できないw』
『梓ちゃん、早くもカルチャーショック』
『お散歩配信とは』
視聴者たちが盛り上がる中、4人は3層へ続く道を進んでいった。
乙羽は梓と並んで歩きながら、分岐の位置を指し示したり、転移陣へ向かう目印を教えたりしていた。
梓も、最初に比べれば地図を見る回数が減っている。もちろん、まだすべてを覚えたわけではないが、少なくとも今通っているルートについては、かなり把握できてきたようだった。
「思っていたより、ちゃんと覚えられそうね」
「よかったねぇ。次に来たときは、もっと楽に移動できると思うよぉ」
「ええ。今日は誘ってくれてありがとう」
梓は、少し照れくさそうに言った。
「こうして一緒に歩くのも、悪くないわね」
「うん。私も楽しいよぉ」
乙羽はにこにこと笑った。
その様子を見ていた琴も、穏やかな表情を浮かべていた。
初めてのコラボ配信は、今のところ順調だった。
視聴者も楽しんでくれているし、梓も少しずつ緊張が解けてきている。戦闘のない配信だからこそ、普段の探索では見えにくい一面も伝えられているようだった。
そして、3層へ降りる転移陣が見えてきたころ。
背後から、聞き覚えのある男性の声が響いた。
「おや、これはこれは。ティンカーベルの皆さんじゃないですか」
4人が振り返る。
そこに立っていたのは、Sランク冒険者の鈴木太郎だった。
彼は配信中のカメラに気づくと、少しもためらうことなく笑顔を作った。
「ちょうどよかった。皆さんに少し、お話がありましてね」
配信画面には、鈴木の姿がはっきりと映っていた。
コメント欄の流れが、目に見えて変わり始める。
『えっ、鈴木太郎?』
『Sランクの鈴木だよな?』
『なんでここにいるんだ?』
『配信中なのわかってて来た?』
梓は鈴木の顔を見て、わずかに眉をひそめた。
彼のことは知っている。
Sランク冒険者として実力があることも、冒険者の間で名前が知られていることも。
だが、彼が今、わざわざ配信中のティンカーベルに声をかけてきた理由まではわからなかった。
鈴木はカメラに向かって軽く手を振る。
「配信をご覧の皆さん、こんにちは。Sランク冒険者の鈴木太郎です。せっかくですから、少しだけご一緒させていただいても?」
そう言いながら、彼はティンカーベルの返事を待つように笑顔を向けた。
お散歩配信は、思いがけない来訪者によって、新たな展開を迎えようとしていた。




