06.彼が生きてくれていること
一行は現在、大海原のど真ん中で太陽に焼かれていた。海を荒らすモンスター、クラーケンを倒さなければ海峡を渡ることができないのだ。
実はキオは、後半のこのイベントが少々苦手であった。クラーケンの出現数は8回とも不規則であり、予測しづらい。1体で済む回もあれば2~3体続けて出現する回もあったりと、なかなか気が抜けないのだ。
「あーーっ、もうホント心配! 心配で心配でどうにかなりそう!」
5人を乗せた船の上で、本日何度目かの「心配」を口にしてキオは頭を抱えた。あちこちの町や村を何度も行き来してようやく手に入れたこの船も、激しい波の上では心許無い強度でしかない。だがそのことではない。クラーケンでもない。ムーだ。
「落ち着けキオ、もうすぐクラーケンの巣だぞ」
「だから心配なんだよ! さっきからムーったらドジばっかりなんだもん!」
「全然レベル上げらんないよねー王子」
「だ、だって水が……。暑いし……」
予定では、ここへ到達するまでにムーは内緒の特訓の成果を発揮して、海中ワームを何匹か倒し3~4レベルほど上がっている手筈であった。ところが船上で滑って転んで頭を打ち腰を傷め、直射日光にへばり、剣など振れもしないまま、現在。
「海は陸よりも戦いにくいですからね。かといってこの近辺の陸地のモンスターは王子の手に負えるような代物ではないですし……」
「ムーがどうしても戦いたいなら海峡を渡ってからにしようって僕は何度も言ったよね? どうしてわざわざこんな危険な区域でレベル上げしようとするの!」
「早く強くなりたいんだろう、王子の気概を汲んでやれキオ」
「だーからー! 危ないんだよ海は! 船は! 強くなんてならなくたってムーはそのまんまでカワイーんだから!!」
「わーお、熱烈ぅー」
「……ハッ……」
エウロとサガンのフォローに反論しているうちに、余計なことまで口走ってしまった。ニヤニヤしているチタの半目で我に返る。
どうも最近、情緒が浮き足立っているというか暴走気味というか。最初から王子愛を公言しているため周囲には気づかれていないが、明らかに自分の中のムーに対する意識が変質してしまっているのを感じる。非常によろしくない。
当のムーはといえばキオの内なる葛藤など少しも意に介さず、いつも通りの不遜な態度で1人、日差しにガンを飛ばしている。
軽い溜め息を吐いてキオは、ムーの前に立ち自身のマントを広げた。すっぽりとその影に包まれてからようやくこちらを向くムーが憎らしい。
「……とにかく。クラーケン戦ではずっと防御魔法をかけてもらうようにするからね。ムーは絶対に戦おうとしちゃ駄目だよ?」
「…………」
返事もくれないのか。スッと目をそらされたことに軽く気落ちするキオ。当然の権利のように日影は享受するくせに。こんなにもムカつくのに、こんなにも愛おしく思えるのは何故なのか。
もう1度、キオが無言の抗議たる息を吸って吐こうとしたときだ。
船がグラリと大きく傾き、波しぶきが甲板を濡らした。来た、クラーケンだ。しかしその姿は……
「デ……、デカいぞ!!」
サガンの目視報告を待つまでもなく、キオも他メンバーも目を見開いて唖然とした。キオがクラーケンと対峙するのは当然9回目だが、少なくともこれまでの個体たちの実に3倍は大きい。やはり経験則を裏切ってくれる船上戦、まことにありがたくない。辺りはたちまち暗雲に包まれた。
「ムーに防御を!!」
キオの号令にエウロがすかさず防御魔法を発動する。しかし同時にクラーケンの10本の足だか腕だかが、縦横無尽にボロ船に襲いかかって来た。
勇者の剣で斬りつけるキオに続いて、戦士サガンの重量級のアックスや、エウロとチタの多彩な攻撃魔法が波間に炸裂する。だがこちらの攻撃が効けばこそ、クラーケンはその巨体をくねらせパーティを弄ぶように船ごと海面に叩きつけた。
「ムー!!!」
キオの叫び声が立ち込める熱風を切り裂いた。後方でただマストに抱きついていたはずだったムーが、飛散する波に煽られて宙に浮いてしまったのだ。まるでスローモーションのようにキオの動体視力がそれを捉える。
為す術無く非力なムーは、そのまま鋭く尖る荒波へと飲み込まれてしまった。
その直後の記憶は無い。キオも濃紺を超える黒い海の中へ、無意識にその身を投じていた。
「キオ!! 駄目です私が……!」
エウロの制止も聞こえないまま、キオは水底へ沈みゆくムーのシルエットにのみただ追随した。海面の喧騒とは別世界のように、海中に戦闘を思わせる音は無い。ゴボゴボと泡を生む呼気だけが響き、キオは無我夢中で潜水を続けた。
長い腕、大きく開いた手指がムーの襟首をようやく捕捉して手繰り寄せる。水中の彼の目は閉じられたままだ。きつく片手でその体を抱き急いで浮上するほんの短い時間、ドクドクと大袈裟に鼓動する己れの心音がやけに煩わしかった。
「ブハ……ッ、ハッ、……ムー!! しっかりしてムー!!」
呼吸を整える間も惜しんで、キオは力無く青ざめたムーの頬をバチバチと叩いた。船とクラーケンからは少し離れた位置に顔を出している。後方より響く猛烈な衝撃音やクラーケンの咆哮が、早く戦闘に戻らなければならないとキオを急いてくるが、それどころではない。
幸い防御魔法のおかげで無傷ではあるようだが、大量の海水を飲んでしまった可能性がある。しかし冷静に水を吐かせたり人工呼吸ができるような状況でもない。
「ムー、ムー!! お願い目を開けてムー! ムー!!」
芸も無くひたすら名を繰り返すしかできない。2人分の鎧は海の浮力を借りてすら相当に重く、おまけに塩分が目に染みて視界が滲んできてしまった。
「ねえムー!! ムーったら!!」
前後左右に振り回すようにして、彼の体を力一杯乱暴に揺さぶった。いつもはこんなこと当然しない。壊れ物を扱うようにしか触れたことが無かったのに。
「…………ゲッ……、ゲフッ!」
ムーの口は海水を噴出し、彼は狂ったようにむせ始めた。目からも鼻からも水を垂れ流し、苦しそうに背中を曲げる。
キオは弱々しい安堵の吐息を漏らした。全身の力も抜いてしまったため、うっかり海中に沈みそうになる。
「よ……、良かったムー……っ」
波に打たれるたびに顔が濡れ、上からも横からも水滴が絶えず降り注ぐものだから、目尻から溢れた別の水分についてはおそらく見られずに済んだだろう。もっともムーはまだ、咳き込みと喘鳴が治まらず、キオの背中に両腕を回し懸命にしがみついているのだが。
……少しだけ。キオもムーにこっそりと両腕を回した。今度はそっと、壊れ物よりもさらに慎重に。
キオの首筋は押しつけられたムーの鼻水と涎でベタベタだったけれど、互いに鎧に隠されていない箇所が擦れるたびに、そこは冷たい海水に反して熱く、心地好かった。
「……ムー、好きだよ」
そんなことを言おうとしていたわけではない。何故今?と自分でも思う。だが濡れ鼠のように情けなく遠慮も無く苦悶を訴えてくるムーに、言わずにはいられなくなってしまった。
彼が生きてくれていることがこんなにも嬉しい。
ところが、こちらの一方的な抱擁に身を任せてくれていたはずのムーの体が、一転して硬く石のように強張った。キオの胸が泡立つ。たった今の本心からの告白を、受け入れてもらえないなんてことは、よもや。
「……ひっ……!」
だが、短いムーの悲鳴にしまったと感じたときには、既に遅かった。
暗い海で一層の鬱蒼たる影が、抱き合う2人の上に落ちる。壁のように切り立つクラーケンの巨体がすぐ背後にまで迫ってきていたことに、今の今まで気づかなかったとは、勇者ともあろう者が。
わずかに首の向きを変えたキオの目の端に、必死に船を操り何かを叫んでいる仲間の顔が映った。残念ながら到底間に合う距離ではない。
だがそのまま振り向きクラーケンに相対するよりもキオは、咄嗟にムーに覆い被さるほうを選んでしまった。クラーケンは既に、2人に照準を合わせて全身を捩り倒れ込み始めている。それは、既にサガンたちにより瀕死にまで追い込まれていたクラーケンの、相討ちを狙った捨て身の体当たりであった。
ムーに触るなイカ野郎。
でき得る限りクラーケンからムーを隠そうと、身を乗り出すようにキオは海水を蹴り上げた。胸か腹の辺りでムーがバタバタとのたうっている。おとなしくして、と言いたい気持ちは特大の波音にかき消されてしまった。
「…………え」
さまざまな事態を想定し、ある程度の覚悟も固めてクラーケンの圧壊に備えていたキオは、肩透かしを食らい呆気に取られた。
瞬く間に海は凪ぎ、雲は晴れ、太陽が顔を出し始める。
ただの白い冗長な塊と化したクラーケンが、しばし波間に漂ったあと、静かに沈んでゆくのを見守るキオ。船もようやく近くまで辿り着いた。
「何があったのキオ!」
「とどめを刺したのか?!」
チタとサガンの問いにまだ呆然としてキオは首を振った。だって何もしていないのだ。
するとエウロが震える声でこちらを指差した。
「……王子が……、倒したのですか……?」
「え」
抱き締めたままだったムーにようやく目をやる。
そこにはキオ以上に放心しきったムーがいて、キオの腰に差さっていたはずの勇者の剣を手にしたまま、鼻水を光らせ小さく震えていた。
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