第八話 森のヌシとの対峙
樹鎧獣を追いながら、俺はすぐに違和感を覚えた。
逃げてる、って動きじゃない。
完全に直進ってわけではないものの、この森のヌシはただ、ひたすらに進んでる。
餌を探してる感じでもない。
何かを追っているというより――目的地があるのか?
そう思った瞬間、胸の奥の揺らぎが更に強くなった。
森の濃く濁ったマナの奥で、大きく波を打っている。
俺は剣を握り直して、樹鎧獣の痕跡を追う。
速い。
あの巨体で、森の奥へ沈むみたいに遠ざかっていく。俺は剣を握ったまま、森を駆ける。枝が頬をかすめて、足元の根を踏み越えて、苔の浮いた岩を蹴る。視界の端で、マナの流れが少しずつ濃くなっていくのを追う。
森の中のマナは、濃さの違いはあっても、普通はもっと静かに巡る。葉から葉へ、根から根へ、森全体に染み込むように。
それが今は、あちこちで乱れていた。踏み荒らされた土のように歪み、折れた枝のように途切れ、ところどころで不自然に淀んでいる。
あいつが通った跡だ。
これを、追えばいい。
追えればいい、んだけど。
「うーん、速いね」
息の合間に思わず声が漏れた。愚痴半分、感心半分。
観察すればするほど、あれは森を走るために出来てる、って分かる。枝を避けるんじゃなくて、折っていい枝だけを折ってる。根を踏み抜くんじゃなくて、踏んでも沈まない根だけを選んでる。 あの体格で、あの速度で、それを毎歩やってのける。
見た目より、ずっと器用。
というか、相当、厄介だ。
低い枝をくぐって、ぬかるみを跨ぐ。気がつくと、森の匂いが変わっていた。
湿った土の匂いの上に、古い樹液と、苔の匂いが厚く重なる。木の幹はどんどん太くなって、頭上では枝葉が編み合わされたみたいに重なり、朝の光は、その隙間から細い金色の筋になって、ようやく地面に届いている。
森の、奥。
あいつの気配はまだ先にある。けど、見失うほどじゃない。濃くなった森のマナの中でも、樹鎧獣が通った跡だけは重く、荒く残っている。
光。痕跡がふいに歪んだ。
森そのものの濃さとは違う、不自然な揺れ方だった。
薄い、膜みたいなものが、森の奥に張られている。
──結界、か?
こんな森の深部に、なんで。
いや、なんにしても多分この奥に何かある。集落か、何か――人の住む場所が、あるかもしれない。
確信はない。けど、何かあるなら、最悪の事態になり得る。
その時、俺は故郷を思い出していた。
息を吐いて、剣を握り直す。柄の感触で、思考が一段、落ちる。
あいつを、このまま進ませたらまずい。
理屈じゃなく、そう思った。
音の方へ近づくほど、森の傷が、生々しくなる。
折れた枝。
潰れた苔。
削れた土。
その奥で、重いものがぶつかる音がした。
続いて、地面のマナが跳ねる。
誰かが、ヌシと戦ってる……?
逃げ遅れたんじゃない。
樹鎧獣の進路を、正面から塞いでいる。
木々の向こうで、何かが砕ける音がした。
次いで、女の子の短い声。
悲鳴じゃない。気合いの声。それが余計に、まずい、と思わせる。
地面を蹴った。
二歩で森が割れて、視界が、ひらく。
全部、一瞬で飛び込んできた。
樹鎧獣の巨体。棍を構えた少女。受け止めている前肢とは別の前肢が、横から逃げ道ごと薙ぎ払おうとしている。
考える時間はない。──間に合わせる。
剣に、魔力を集める。
広げない。散らさない。
刃の、一点に。
全部を、絞り込む。
一歩。
足元の太い根を、踏み越える。
二歩。
顔の前に張り出した低い枝を、肩で払う。
三歩目で――樹鎧獣の前肢の、下に潜り込んだ。
頭上を、巨大な影が通り過ぎていく。風圧で、髪が後ろに流れる。
一閃。
魔力を込め、水をまとった刃が、樹鎧獣の前肢の側面を、下から斜めに叩き上げる。斬る、というより、押す。蓄えた水の重さを、一点に乗せて、ぶつける。
樹鎧獣の前脚が、女の子から外れた。
でも、まだだ。崩れた体勢、その一瞬を、逃さない。
もう半歩、踏み込む。
外殻の、継ぎ目。肩と胸の、あいだ。
森の奥でこいつを最初に見た時、動くたびに、ほんのわずかに開いていた場所。
そこへ切っ先を滑り込ませる。
斬るんじゃない。
流し込む。
蓄えた水の勢いを、継ぎ目の奥へ、一気に。
巨体が、ぐらり、と内側からよろめく。重心が、さらに奥へずれていく。
樹鎧獣が、奥へ押し戻される。
「どうにか、間に合ったかな」




