第九話 外の世界への憧れ
樹鎧獣の巨体が、土を抉って後退した。
少女は棍を支えにしながら、倒れかけた身体を立て直す。
頬には水飛沫が残っていた。腕は痺れている。足元もまだ揺れている。
彼女は目を丸くしたまま、それでも反射のように口を開いた。
「ありがとう! 助かった!」
「どう、いたしまして!」
そう返しながら、ラヴィは再び森のヌシへと斬りかかっていた。
奴はまだ倒れていない。体勢を崩しただけだ。巨体が沈み、怒りに濁ったマナが樹皮の鎧の下で脈打つ。
ラヴィは、止まらない。
剣にまとわせた水が、刃の上で薄く伸びる。
大きく広げない。散らさない。硬い外殻を斬るためではなく、その隙間に滑り込ませるための水。
樹鎧獣の右前肢が地面を砕いた。
土が跳ね、根が裂ける。
その衝撃が届くより早く、ラヴィは横へ流れた。
踏み込み、沈み、そして斬る。
刃が、外殻の継ぎ目をなぞった。
硬い樹皮を断つ感触はない。
代わりに、水が走る。
薄く絞られた魔力が、鎧の隙間へ入り込み、内側の流れを押し曲げる。
巨体が、わずかに沈んだ。
ラヴィはその変化を逃さない。
足場を蹴り、傾いた魔獣の体躯の懐へさらに踏み込む。
前肢の付け根。
肩と胸の間。
動くたび、ほんの一瞬だけ開く場所。
そこへ、もう一度、刃を滑らせた。
水が弾ける。
斬り裂いたのではない。
流れを奪った。
樹鎧獣の右前肢が、支えを失ったように落ちる。
巨体が傾き、土を抉り、近くの若木を巻き込んで膝をついた。
少女は、棍を握ったまま息を止めた。
森のヌシが吠える。
怒りと痛みに濁ったマナが、樹皮の鎧の隙間から噴き上がる。
それでもラヴィは、半歩も退かない。
樹鎧獣が、残った前肢で地面を叩く。
土が割れ、根が跳ね、砕けた木片が散る。
ただの力押しではない。
傷ついた巨体で、それでも地形ごと押し潰しに来ている。
少女は、反射的に前へ出ようとした。
それでも、ラヴィの呼吸は乱れていない。
助けに入る隙すらないほど、動きが途切れない。
「──強い」
思わず少女がそう呟いた。
ただ速いのでも、ただ力があるのでもない。
樹鎧獣の動きが崩れる瞬間を見ている。
硬い外殻ではなく、その隙間を見ている。
その巨躯が暴れるほど、ラヴィの剣はその流れの中へ滑り込んでいく。
外の世界の術師は、こんな戦い方をするのか。
そう思った瞬間、少女は自分がまだ棍を構えたまま動けていないことに気づいた。
ただ、彼から目が離せなかった。
樹鎧獣が低く沈む。
右前肢はすでに力を失いかけている。
だが、巨体そのものはまだ止まっていない。
残った脚が地面を抉った。
崩れた体勢のまま、無理やり前へ出る。
ラヴィの剣が、次の継ぎ目を捉えようとした瞬間だった。
樹鎧獣の背に絡みついていた太い根が、鞭のように跳ねた。
「っ」
ラヴィは身を引く。
根の束が目の前を薙ぎ、頬をかすめた水気が弾ける。
続けて、左前肢。
さらに、傾いた巨体そのものが押し寄せる。
技ではない。
理屈でもない。
崩れた身体を、力だけで前に進めてくる。
ラヴィは一歩、二歩と下がらされた。
少女の喉が、ひゅっと鳴る。
それでも、ラヴィの目は逸れていない。
危うさごと、見据えているようだった。
樹鎧獣が森を巻き込みながら迫る。
根が跳ね、土が割れ、樹皮の鎧から濁ったマナが噴き上がる。
ラヴィは剣を下げた。
構えを解いたのではない。
水を、落とした。
刃にまとわりついていた薄い水が、雫となって地面へ落ちる。
一滴。
二滴。
そのたびに、足元の土が静かに震えた。
少女は、その場から一歩も動けなかった。
危ないと思った。
今度こそ押し潰されると思った。
けれど、ラヴィの青い瞳は、少しも揺れていない。
森の空気が変わった。
さっきまで刃に沿って流れていた水の魔力が、ラヴィの足元へ沈み、そこからもう一度、剣へ向かって昇っていく。
細い流れではない。
地中の水脈を引き上げるような、重く、深い魔力。
樹鎧獣が再び吠える。
前肢を振り上げ、ラヴィごと地面へ叩き潰そうとする。
ラヴィは一歩、踏み込んだ。
水が刃を包む。
薄い膜ではない。
剣そのものが、透明な激流の芯になったようだった。
振り下ろされる前肢。
その先へ踏み込むラヴィ。
その二つがぶつかる寸前、青い瞳がまっすぐ樹鎧獣≪グラドボルグ≫を捉えた。
「──蒼波流刃!!」
斬撃が、奔った。
水の刃は、外殻の隙間を探さなかった。
樹皮の鎧ごと、真正面から噛み砕く。
硬い外殻が裂けた。
裂け目から濁ったマナが噴き出す。
その奥へ、さらに水が食い込んだ。
樹鎧獣の巨体が、声にならない音を漏らす。
ラヴィの剣は止まらない。
樹皮を割り、濁ったマナを断ち、巨体の芯まで水の牙を届かせる。
次の瞬間、樹鎧獣の胸元が大きく弾けた。
濁った光が、樹皮の割れ目から噴き出す。
樹鎧獣の巨体が硬直した。
一拍遅れて、支えを失ったように前へ傾く。
踏みとどまろうとした脚が、土を抉る。
だが、もう力は戻らない。
巨体が沈む。
地面が揺れる。
折れた枝と湿った土が跳ね、森の奥に重い音が響いた。
樹鎧獣≪グラドボルグ≫は前肢を投げ出し、樹皮の鎧から濁ったマナを薄く漏らしながら、ゆっくりと動きを止めた。
ラヴィは剣を引き抜き、息を吐く。
刃を覆っていた水がほどけ、雫になって土へ落ちた。
少女はまだ、棍を握ったままだった。
それからようやく、ぽつりと呟く。
「……やっぱり私、村を出る」
助けられたからではない。
守られたいと思ったからでもない。
知らない戦い方があった。
知らない強さがあった。
知らない世界が、森の外にはある。目の前に広がっている。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
少女は倒れた樹鎧獣ではなく、その向こうに立つ黒髪の少年を見ていた。
その濃い琥珀色の瞳は、まっすぐに輝いていた。




