第六話 森のヌシ
森の奥へ進むほど、空気は重くなっていった。
木々は高く、枝葉は朝の光を細かく裂いている。鳥のさえずりや虫の羽音の中、森に流れるマナだけが濁っていた。水面に少量の泥が混じるような、薄く、しかし確かな乱れ。
ラヴィは納めた剣に手をかけ、痕跡を追っていた。
折れた枝。深く抉れた土。幹に残った、太い爪痕。どれも裂角獣のものではない。もっと大きく、もっと重い何かが、森の奥へ向かって進んでいる。
森は、奥へ行くほど音の層を増していく。
葉擦れの奥に、別の葉擦れがある。湿った土の匂いの奥に、古い根の匂いが沈んでいる。マナも同じだった。薄い流れが幾重にも重なり、深い方へ行くほど、色のない水が少しずつ濃くなるように重たくなる。
ラヴィは、その流れを目で追いながら走った。
確かに、マナは濃く乱れているが、汚染はほとんど感じない。
「魔蝕体、じゃなさそうだけど」
とは言え油断はできない。
踏み割られた根の下に、重い気配が残っている。
姿はまだ捉えられない。
それでも、森の奥へ向かう何かが、道代わりとなる痕跡を置いていく。
音の主は恐らく、カルミラ大森林に棲む大型魔獣。
振り返れば、来た道はもう同じ顔をしていなかった。
倒木の角度も、苔の色も、さっき見たものと似ていない。森が道を隠しているのではない。最初から、人が道として見ることを許していないようだった。
ラヴィは息を整え、さらに速度を上げ奥へ踏み込む。
視界の端で、鳥が一羽飛び立った。
次いで、二羽。三羽。
その時、森の奥で轟音が鳴った。
出所は近い。
低く重い音が地面を伝い、足裏まで震わせる。
続けて、獣の細い悲鳴が木々の間を裂いた。
「……早いとこ、けりを付けないとな」
ラヴィは踏み込む足に力を込め、濁ったマナの跡を追う。
悲鳴は長く続かなかった。
途中で、何か重いものに押し潰されるように途切れた。
木漏れ日の向こうで、地面が抉れていた。
倒れていたのは、中型の魔獣。
胴は潰れ、脚は折れている。
悲鳴を上げたのは、こいつか。
そして、それを潰したのは──
仕留めた獲物に興味を示した形跡がない。
殺して、踏み越えて、進んでいる。
その先で、黒く沈んだ影が動いていた。
重い。厚い。なにより、大きい。
森そのものを鎧としてまとっているような輪郭だった。
樹皮のような外殻を軋ませながら、それは止まらずに動いていた。
太い前肢が地面を抉る。
根が踏み砕かれる。
仕留めたばかりの魔獣へ振り返ることもなく、ただ森の奥へ、まっすぐ。
動物というより、森の一部がそのまま動いているようだった。
背を覆う苔むした装甲。
幹を思わせる肩の厚み。
地面に食い込む、節くれだった前肢。
その特徴が、ラヴィの知る魔獣の名と重なった。
──樹鎧獣。
しかも恐らくは、この一帯のヌシ級。
ラヴィは剣を握り直した。
仕留めたばかりの魔獣にも、背後から追うラヴィにも構わず、それは止まらない。 樹皮の鎧を軋ませながら、ただひたすら森の奥へ進んでいく。
何に向かっているのかは分からない。
ただ、あの大きさはまずい。
胴の厚みだけで、家ほどはある。
ラヴィは、樹鎧獣の被害記録を思い出す。
森の浅い場所へ迷い出た若い個体が、開拓村を半壊させた記録だ。
その個体でさえ、馬二頭分程度とあったが……。
目の前の個体は、それより明らかに大きい。
ラヴィは息を吐き、距離を詰めようとした。
が、次の瞬間、樹鎧獣の巨体が沈み、の奥へと流れた。
木が軋み、枝が折れ、土が跳ねる。
重さに似合わない速さ。
ラヴィは即座に追う。
太い根を越え、倒木を蹴り、折れた枝の間を抜ける。
奴の痕跡は明確だった。
剥がれた樹皮。抉れた土。踏み砕かれた低木。
そこに残る濃いマナの尾を、ラヴィの目は捉えている。
だが、容易に近づけない。
迷い無く走り続ける巨躯。
森の起伏も、根の張り方も、倒木の位置も、すべてを知っているようだった。
ラヴィは舌打ちしかけて、やめた。
焦る場面ではない。見失ってはいない。
ただ、相手の土俵にいる。
その時、前方で空気が震えた。
薄い膜のようなマナが、樹鎧獣の進路上で歪む。
「……結界、か?」
こんな未開地の深部に、どうして。
自然にできたものではない。
誰かが、何かを守るために張った境界。
森のマナに馴染ませてあるが、流れの向きが違う。
その奥に何があるのかは分からない。
集落か。
祠か。
あるいは、もう誰もいない場所なのかもしれない。
だが、誰かが守ろうとした場所であることだけは分かった。
ラヴィの脳裏に、故郷の島が一瞬だけよぎる。
閉じて守られていた場所。
外から踏み荒らされた場所。
村の畑が荒らされ、家畜小屋が壊された。森の浅い場所へ裂角獣が押し出されたのも、すべては樹鎧獣の異常が外側へこぼれ出した結果だった。
そして、食われもせずに壊されていた魔獣。
あれは余波ではない。
目の前のヌシが、直接踏み荒らしてきた爪痕だ。
今、その異常が、何かを守る結界の内側へ向かっている。
「──現場判断としては、討伐対象だね」
低く呟き、ラヴィは地面を蹴った。
もう、村の依頼だけの話ではなかった。
次でようやく、本作のヒロインが出てきます。




