第五話 森の中に潜む影 後編
裂角獣は、すぐには飛びかかってこなかった。
低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
だが、耳だけは何度も背後へ向いていた。
森のさらに奥を、警戒している。
意識が散漫とはいえ、興奮状態の魔獣だ。迂闊に仕掛けると返り討ちに合いかねない。
そう考えながら、ラヴィは敵との距離を測る。
──ドォン。
その時、森から轟音が響き渡った。
先ほどよりも、明らかに近い。
周辺のマナが激しく揺れ、木々の葉がざわりと震える。
裂角獣は一瞬、背後を振り返りかけた。
それから、逃げ場を探すように視線を泳がせ、ラヴィへ向き直る。
来る。
そう思った次の瞬間、裂角獣の四肢が跳ねた。
速い。が、直線的。
ラヴィは半歩だけ左へ動いた。
爪先にまとわりつくマナの流れが、軌道を先に見せていた。
右爪が外套の端をかすめ、地面を抉る。
間を置かず、裂角獣は身体をひねった。
今度は左。
ラヴィは踏み込まず、踵を軸にして身を開く。
爪が目の前を横切り、裂かれた風が頬を撫でた。
二撃目も躱した。
裂角獣の体勢が、わずかに前へ崩れる。
だが獣は止まらなかった。
低く沈んだ首が、下から抉るように跳ね上がる。
額の黒角。
ラヴィは体を右へ反らし、すれ違いざまに首筋へ剣を滑らせる。
水の魔力が、刃に薄く絡む。
一撃。
切断というより、流れを断つ感覚だった。
刃が首筋を抜け、裂角獣の大きな身体が地面に崩れる。
まだ息はある。
だが、もう動けない。
ラヴィは苦しませないよう、すぐにとどめを刺した。
静寂が戻る。
先ほどの音も、途絶えていた。
今倒した魔獣は決して、弱い個体ではない。
家畜一体の被害で済んだのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
しかし、この魔獣が恐れる程のものが、この森の中にいる。
原因を取り除かないと、また同じようなことが起こるだろう。
次は、家畜では済まないかもしれない。
その時、森の奥から、またあの轟音が響いた。
ラヴィは音がした方を見る。
視界には、ただ木々が続いているだけだった。
けれど、その向こう。
音のした方角の奥で、何かが動くような気配がした。
重い。
裂角獣とは比べものにならない、強い反応。
ラヴィの胸の奥で、朝から続いていた奇妙な揺らぎが、わずかに強くなる。
「……そっちが本命か」
声に出した瞬間、森の奥で鳥たちが一斉に飛び立った。
ラヴィは倒した魔獣に目印を残し、剣を握り直す。
一度村へ戻り、状況を伝える選択もあった。
ギルドへ早馬を出し、応援を要請する。
恐らくはそれが無難な手順だ。
だが、今戻れば、気配の行方を見失う可能性がある。
バルタ村の近くを荒らしていた個体は倒した。
けれど、それを森の浅い場所まで押し出したものがいる。
村周辺に残った傷跡は、森の奥で蠢く何かの余波にすぎない。
それに。
今なら、まだ追える。
「少しだけ、見ていきましょうかね」
そう呟いて、ラヴィは森の奥へ進んだ。
討伐した裂角獣の死骸は、森の浅い場所に残してきた。
村の依頼として報告するには、それで十分な証拠になる。
だが、今追うべきものは、そのさらに奥にいた。
森の深い方から、もう一度、重い気配が脈打った。




