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第四話 聞こえなかったふり

 ラヴィが水車宿で馬車を降りると、耳に残っていた車輪の音も、すぐに街道の向こうへ消えていった。

 その宿では低い水車がゆっくりと回り、木の軸が湿った音を立てている。


 軒先では男が馬の水桶を替えようと、冷たい水を跳ねさせていた。

 戸口に吊るされた乾いた薬草が、風に揺れてかすかに鳴っている。母屋の二階には旅人向けの部屋がいくつかあるようで、窓辺に干された敷布が日に晒されていた。


 アストラディアの騒がしさは、もうどこにもない。

 ラヴィは北へ伸びる枝道を見た。

 荷車一台が通れる程度の幅。轍は残っているが、深くはない。雨が続けばぬかるむだろうが、今は土も締まっている。村へ続く生活道としては、悪くなかった。


 干し果実を口に放り込みながら、ラヴィは歩き出す。

 今朝の揺らぎは、少し落ち着いていた。

 正体の分からない感覚ではある。けれど、慣れてくると穏やかな波に抱かれているような気持ちにもなった。


 初めてその違和感を覚えたのは、師匠のもとを離れる少し前。

 あの時点で師匠に聞いていたら何か分かっただろうか。……いや、あの人のことだ。「胸が苦しい?──ラヴィ。それは、きっと恋だ」とか言いだすに違いない。

 はっきりと感じたのは、独り立ちしてからだ。

 上位の魔獣の討伐に向かう道中、マナの濃い場所を通った時、胸の奥が強く揺れた。


 一度、医者には診てもらっている。

 身体に異常はないと言われた。魔力の乱れが気になるなら魔法療士に診せるべきだとも勧められたが、そこまではしなかった。

 自分の魔力を探らせるな。師匠から、そう固く言われていた。


 ──そういえばあの人は、元気にしているだろうか。

 故郷を発つ時、師匠はいつもの調子で笑っていた。

 けれどラヴィは、最後までその顔をまっすぐ見られなかった。

 彼の()()()()左目が、どうしても視界に入ってしまう。

 ラヴィはその傷跡を見るたびに、心が締め付けられた。

 外の世界を見てこい。

 そう言って優しく送り出してくれた師匠の声が、今も頭の奥に残っている。




 水車宿を離れてから、一刻強が経っていた。

 途中で一度足を止め、干し果実を噛みながら水を飲む。陽はいつの間にか頭上を過ぎていた。

 ラヴィは空を少し見上げてから、再び進み始めた。 


 そこからしばらく歩いていくとやがて、遠く道の先に低い柵に囲まれた畑と茶色の家々が見えてきた。

 バルタ村だ。

 一見、のどかな景色だが、昼過ぎの農道としては人影がまばらだった。

 鍬を担ぐ者も、荷を運ぶ者も、どこか足りない。今回の謎の獣の影響で、外へ出ることをためらっているのか。


 どこか息を潜めているような、静けさ。

 村の先にも畑が数枚、それから放牧地と緩い丘がひとつ。その先に、森の影が横たわっている。

 日々の暮らしから森の姿は見えるが、生活の音がそのまま届くほど近くはない。

 それでも、依頼書に書かれていた「生活圏のすぐ外」という言葉を思い出すには、十分な距離だった。


 集落の入口近くで、男が一人、棒を持って立っていた。

 番人のつもりだろうか。年は四十くらいで、農夫の身なりだったが、その顔には明らかに緊張があった。

 ラヴィの姿を認めると、男は棒を構える前に、まず目を細めた。


「あんた、もしかして……ギルドの人かい?」

「はい。アストラディアから来た者です」


 ラヴィは依頼書を見せてから魔銘登録証を取り出し、軽く魔力を通してみせた。

 淡い光と共に、名と認定が浮かび上がる。男がそれを正確に読めたかは分からない。だが、ギルドの証が本物だと分かっただけで、肩の力を抜いた。


「ああ、ありがてえ……こんなに早く来てくれたんだな」

「あなたが、依頼主?」

「いや、依頼をまとめたのは村長だ。今、呼んでくる。中で待っててくれ」


 男は棒を立てかけると、集落の奥へ走っていった。

 ラヴィはその場に立ったまま、村を見渡した。


 目に入る範囲では、特に変わったところはない。

 子どもたちは家の陰からこちらを覗いているし、農夫たちも仕事を止めてはいるが、村全体が混乱しているほどではなかった。


 壊れた柵。

 踏み荒らされた畑。

 怯えた家畜。

 そういう分かりやすい被害は、ここからでは見えない。


 ただ、子どもたちの声が小さい。

 女たちの会話が、ときおり途切れる。

 畑にいる男たちが、何度も森の方を気にしている。

 村のあちこちに、名もない不安の欠片が散っていた。


「お待たせしました。村長のガルドです」


 奥から現れたのは、白髪交じりの初老の男だった。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。歩き方からして、長年畑仕事をしてきた人間だと分かった。


「依頼受注者、導魔士のラヴィオンです」

「導魔士殿……でしたか。これはありがたい」


 ガルドの顔に、分かりやすい安堵が浮かんだ。


「その後、怪我人などは?」

「いえ、幸い村の者達は無事ですが、昨夜家畜が一頭やられました。そのせいで村の緊張が増しております」

「家畜が──。調査を急いだほうが良いですね。詳しい話を聞かせてください」

「ええ、私の家で説明しましょう。どうぞこちらへ」


 ラヴィはガルドに従って村の中へと進んで行った。

 途中、不安げな村人達の視線を感じ、ラヴィは息を軽く吐いた。


「あそこです」

 

 歩きながらガルドは、奥にある家を指し示す。家の前には、赤い花の咲く花壇があった。

 

「戻ったよ」


 戸を開けながらガルドが家の中へ声をかける。


「ラヴィオン殿も、どうぞ中へ」

「はい、お邪魔します」


 粗末ながらきちんと整った木造の家屋で、土間に大きな卓があり、奥に小さな炉が見える。配偶者らしき女性が香草茶を出し、軽く会釈をして奥に下がった。


 卓の上に、ガルドが一枚の地図を広げる。

 手書きの簡素なものだ。バルタを中心に、周辺の畑と丘、川、道がざっと描かれている。

 地図の北側には、森の縁が大きく描かれていた。


 カルミラ大森林。

 ここディルアメント王国北東部に広がる、未開地の大森林。バルタの者にとっては、畑の向こうに横たわる、日々の境界だった。

 そして森の側――集落から見て北東の方角に、赤い印がいくつか付けられていた。


「この辺りで、最初は獣の足跡が増えました」


 ガルドは赤い印の一つを指した。


「次に、夜中に妙な鳴き声がするようになって。二日前には、若いのが森の際で大きな獣の影を見たと言っています」

「大きさは?」

「荷車ほど、と。距離が開いておりますし、大げさに言っているだけかもしれませんが」


 ラヴィは少し目を細めた。

 荷車ほど。

 夜の森で見た影なら、大きく見えた可能性もあるが……。


 ガルドはその後も、村の状況に関するいくつかの変化を語った。

 例の森の音についてガルドは言い淀みながら語ってくれたが、結局、これといった手がかりは得られなかった。


 話がひと段落して、ガルドは指先で地図上の赤い印をなぞる。

 印は、集落の北東側に偏っている。森の方角。

 もしあの森に入るとなれば、時間が要る。


「お気付きと思いますが、恐らく獣は森から来ています。……調査するためには、森の中に入ることになるかもしれません」

「今から、あの森へ?今はもう昼下がり。じきに夕暮れになります」

「ええ。ですので、まずは日没まで村周辺の調査を行い、明日の朝大森林へ向かおうと思います。未開地に行く可能性があるなら、万全を期したい」


 ガルドは、ふっと息を吐く。


「なるほど、早とちりしてしまいましたな」

「いえ──、今夜はどこかに泊まらせていただきたいのですが、村の中に宿は?」

何分(なにぶん)、旅人も来ないような村なので……。しかし、休める部屋と湯浴みの支度はできます。夕餉も、せめて村で出せる範囲で」

「ありがとうございます。助かります」


 ガルドは安堵したように小さく頷いた。

 その顔を見ると、ラヴィは改めて気を引き締める。

 安心するには、まだ早い。

 けれど、少しでもそう思える材料くらいは渡しておきたかった。


 その後、ラヴィは日が落ちるまで村の外周を見て回った。

 東側の畑。北端の放牧地。森へ続く細い踏み跡。

 大きな異常は見つからない。ただ、畑道の端に残る深い爪痕と、怯えた家畜の落ち着きのなさが、依頼書の文字よりもはっきりと村の不安を物語っていた。


 途中、村人にもいくつか話を聞いた。

 しかし森の音について尋ねても、誰もはっきりとは答えてはくれなかった。

 村に戻る頃には、空は薄く茜色に染まっていた。


 間借り先で軽く湯浴みを済ませると、村で採れた根菜の煮込みと、焼きたてのパンが出された。

 煮込みには、近くの畑で育てた白蕪しろかぶと、春先だけ香りの強くなる若葉香草が入っている。芯まで火の通った白蕪は舌で崩れるほど柔らかく、パンは割るたびに麦の香りが立った。

 畑を荒らされたばかりの村で、これだけのものを出してもらえる。

 ありがたいことだった。

 湯気の立つ椀を前にして、ラヴィは少しだけ背筋を伸ばした。


 食後、家々の灯りは一つ、また一つと落ちていった。

 昼間から村に広がる静寂は、夜が深まるにつれてさらに濃くなっていく。

 風が草を撫でる音。

 虫の声。

 遠くで家畜が身じろぎする、かすかな気配。


 客間に横になったラヴィは、なかなか目を閉じられずにいた。

 昼間、ガルドが森の音について話した時の様子が、妙に頭に残っている。

 森の奥から響く、低い地響きのような音。


『依頼書にも、書くには書きました。しかし……』


 言い淀みながら、ガルドは話を続けた。


『誰も……、あの音の話をしたがりません。……私にも分かる気がします。口にすれば、何かよくないことが起きてしまいそうで』


 ラヴィは天井を見上げたまま、息を吐いた。

 ──聞こえなかったふり。


 そう考えると、村の静けさの正体が少しだけ分かった気がした。

 村人たちも、森の音については答えようとしなかった。

 聞こえていないのではない。

 聞こえたものとして、扱いたくない。


 ガルドが言った通りなのだろう。

 口にすれば、何かよくないものまで村の中へ呼び込んでしまうような気がする。

 けれど、聞こえなかったことにした音が、消えてくれるわけではない。


 遠くの虫の声を聞いているうちに、まぶたが少しずつ重くなる。

 明日は、森へ入るかもしれない。

 そう思ったところで、意識はゆっくりと沈んでいった。


 村がすっかり寝静まったころ、人知れず、森は一度だけ低く轟いた。

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