第十一話 精霊に会いに行こう
森の奥へ向かう途中、ルナリアは何度か振り返った。
ラヴィは一歩ずつ足元を確かめながら歩いている。
遅れてはいない。けれど、時折胸元へ意識を取られているようだった。
「ラヴィ君、平気?」
「大丈夫だよ。──多分、濃いマナにあてられただけだと思う」
そう答えながら、ラヴィは周囲の木々へ目を向けた。
森の奥へ進むほど、空気そのものが重くなっていくようだった。
「……そういえば、ルナリアはこの森でずっと暮らしてるの?」
「うん。私たちは、もう何百年もこの森の中で生きてる」
何百年も。
ラヴィは、木々の奥に視線をやる。
ルナリアからは少し不思議な力を感じていた。この濃いマナの中で生まれ育ったからなのだろうか。
「だから、外のことは誰も知らないの。……昔、祖先がこの森に来る前は、外で暮らしてたらしいんだけど」
「どうして、今はこの土地に?」
「昔、外で大きな災いがあって、それから逃げてきたんだって」
ルナリアの声は、昔話をなぞるように静かだった。
「でも、それはずっと昔の話。生まれた時から、私の世界はずっとここだけ」
ルナリアはそっと、近くの大木に手をかける。
「村は好きだよ。勿論みんなのことも」
それから、少しだけ間が空いた。
「でも、何も知らないまま、外を見れないまま生きていくのは嫌なんだ」
ラヴィはすぐに言葉を返せなかった。
その言葉に、遠い故郷の景色が重なる。
海に囲まれた小さな島。外とはほとんど関わらず、それだけで一つの世界のように閉じていた場所。
自分があそこを出たのは、外の世界に憧れたからだけではない。
もっと強くならなければならないと思った。
誰かに守られるだけではなく、自分の手で、大切なものを守れるようになりたかった。
「……前にね」
ルナリアが、小さく口を開いた。
「本気だったのかは分からないけど、森のヌシにも負けないくらい強くなったら、外へ出ることを考えてもいいって言われたことがあって」
ラヴィは、先ほど倒れた樹鎧獣を思い出した。
「だから、ラヴィ君と一緒なら、もしかしたらって思った。ヌシを止めてくれた人なら、みんなも話を聞いてくれるかもしれないって」
ルナリアの声が、少しだけ弱くなる。
「……ごめんね。私、自分のことしか考えてなかった」
ラヴィは、前を歩く小さな背中を見た。
勢いだけではない。
けれど、全部を冷静に考えられているわけでもない。
それでも、その願いが軽いものではないことだけは分かった。
「全然、謝るようなことじゃないよ。里のみんなは、賛成してくれそうなの?」
「ううん。きっと大反対」
ルナリアは小さく笑いながら首を横に振る。
それでも、足は止まらなかった。
「でも私、もう決めたんだ」
それは、風に紛れそうなほど小さな声で落とされた、誓いだった。
◇
ふと思い出したように、ルナリアがラヴィを見る。
「ねえ、古き力って?」
「さあ。俺も初めて言われたし」
「自分のことでも分からないんだ」
「……分からないことの方が多いよ」
口にしてから、ラヴィは森の奥へ目を向けた。
「でも、精霊様……フォルシル様なら、何か知ってるかもしれない」
ルナリアの声には、妙な確信があった。
「フォルシル様はね、その人が持ってる属性とか、魔力の質も分かるの」
「魔力の質?」
「そう。例えば普通の属性とは違う、変わった魔力があれば見抜けるんだって」
ラヴィは、胸元に置いた手を少しだけ握った。
自分が何者なのか。
師匠が多くを語らなかった、一族のこと。
そして、ここ最近強まっている内側の違和感。
そのフォルシル様と呼ばれる精霊なら、何か手がかりを知っているかもしれない。
少なくとも、自分でも知らない何かの輪郭に、触れられるかもしれない。
「……精霊様のとこ、もうすぐ」
ルナリアは前を向いたまま言った。
枝を避ける足に、もう迷いはなかった。
森の奥へ進むほど、静かなマナの流れが濃くなっていく。
それに混じって、かすかに人の気配があった。
一人や二人ではない。木々の奥、結界の内側に、確かに人が暮らしている気配がある。
「精霊様の近くに、村があるのか」
ラヴィがそう言うと、ルナリアは少しだけ目を丸くした。
けれどすぐに、こくりと頷く。
「うん。だから、ラヴィ君は精霊様も守ってくれたってこと」
ルナリアは、ラヴィの手にちらりと目を落とした。
樹皮の粉と、乾ききらない水の跡が、まだ指先に残っている。
「里も、私も、フォルシル様の場所も」
「たまたま通りがかって良かったよ」
「そんなこと言えるなら、大丈夫そうだね」
ルナリアは小さく笑った。
けれどすぐに、表情を引き締める。
「まずは、フォルシル様に会おう。きっと、ラヴィ君のことも待ってる」
その声には、さっきまでの弾むような熱とは違う、はっきりした芯があった。
森の空気が、少しずつ澄んでいく。
樹鎧獣が纏っていた荒々しいマナは薄れ、代わりに、静かな流れが木々の間を満たしていた。
やがて、森がふっと開けた。
大樹の根元を、細い川が流れている。
水は透明で、根の間を抜けるたびに小さな光を返した。
鳥の声も葉擦れも、この場所では少しだけ柔らかく聞こえる。
ルナリアは古木の前で足を止めた。
「フォルシル様」
そっと呼びかける。
その視線が、すぐにラヴィへ戻った。
時折辛そうな表情を浮かべる彼を見て、ルナリアは小さく唇を結ぶ。
『来たか、ルナリア』
水面に落ちた木漏れ日が、根の間へ集まっていく。
揺れる光がゆっくりとかたちを結び、森そのものが一時だけ人のような姿を持ったように見えた。
『そして、古き力を宿した者』
その森のかたちが、ラヴィを見た気がした。
「……俺のこと、ですか」
フォルシルが答えるより早く、ルナリアがぱっと顔を上げる。
「フォルシル様、この人はラヴィ君って言うんだよ。外から来た人!」
なぜか、少し得意げだった。
『そうか。ラヴィというのか』
声には、かすかな笑みが混じっていた。
『ならば、ラヴィ。今も感じているだろう』
「……」
ラヴィは頷くしかなかった。
胸元に置いた手の下で、先ほどからの感覚はまだ続いている。
『ここは、特にマナが濃い場所だ』
フォルシルの声に合わせるように、そばを流れる細い川が淡く光った。
『濃いマナは命を育て、土地を肥やし、森を深くする。長い時を経て、精霊が生まれることもある』
せせらぎの音が、少しだけ近くなった気がした。
『だが、流れが歪めば、恵みも形を変える。獣も、鳥も、虫も、木々でさえ、本来とは違うものへ寄ってしまう』
ラヴィは、倒れた樹鎧獣を思い出した。
森のヌシと呼ばれるほど長く棲みついた獣が、何かに突き動かされるように結界へ向かっていた。
『そして時には、眠っていたものを呼び起こすこともある』
声は、ふたたびラヴィへ向けられていた。
『キミの中に閉じていたものも、この場所のマナに触れて目を覚ましかけている』
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「ラヴィ君」
ルナリアが、少し声を落とした。
目の前で何が起きているのか分からない。
それでも、ただごとではないことだけは分かる。
そんな顔で、彼女はラヴィを見ていた。
「大丈夫?」
ラヴィは答える代わりに、軽く笑ってみせた。
『無理にこじ開ける必要はない。そこにあるものから、目を逸らさなければいい』
ラヴィはその言葉を静かに聞いていた。
『深く息をしてごらん。外の音を追わず、内にあるものへ意識を向ける。それだけでいい』
ラヴィはゆっくりと目を閉じた。
息を吸う。
湿った土の匂い。
澄んだ水の気配。
老木が抱えてきた長い時間の静けさ。
息を吐く。
今はもう分かる。
そこにいる。
ラヴィは、それを掴もうとはしなかった。
呼びつけようとも、押し出そうともしなかった。
ただ、その存在へ意識を向ける。
次の瞬間、内側の気配が小さく跳ねた。
ルナリアが息を呑む。
ラヴィの胸元で、淡い銀色の輝きがにじんだ。
内側にあったものが、外へ移っていく。
失われるのではない。
すぐそばに、形を変えて現れる。
胸の奥にあった重さが、ふっと抜けた。
それは水滴のように丸まり、ほどけ、また集まる。
光の粒がふわりと毛並みのように広がり、やがて小さな輪郭を作っていった。
丸まっていた小さな身体が、むくりと伸びた。
白に近い灰銀の毛並み。
ぴんと立った耳。
眠たげに細められた、大きな銀色の瞳。
ぱっと見た限りでは、仔猫にしか見えなかった。
ただ、その背には小さな翼のようなものがあり、ふわりと揺れた尾の先は二つに分かれている。
額のあたりには、毛並みに隠れるように細かな鱗の光がかすかに覗いていた。
「ふぁ〜……よく寝たァ」
森の聖域に、妙に気の抜けた声が響いた。
ラヴィは、目の前に浮かぶ小さな生き物を見つめた。
「……え?」
出てきた声は、それだけだった。
灰色の小さな生き物は、ふわふわした尾を揺らしながら、ぱちりと瞬きをする。
銀の瞳孔が、細く光を拾った。
そして、ラヴィの隣にいるルナリアへ、ゆっくり顔を向けた。
「……だれェ?」
妙に間の抜けた声だった。
──喋った。
ラヴィの思考が、そこで止まった。
胸の奥から出てきたこと。猫とも狐ともつかない、小さな毛玉のような姿。それだけでも頭が追いつかないのに、当たり前のように人の言葉を発している。
『──ふむ。人の言葉を解するか』
森のかたちが、興味深そうに揺れた。
ラヴィの思考が止まっている間に、ルナリアの視線は小さな生き物へ吸い寄せられていた。
濃い琥珀色の瞳が、こぼれそうなほどきらきらと輝いている。




