七 人質
北での冬は、オルドスの比ではなかった。
草が薄く、獲物が少ない。水場を探して一日歩くことがあった。風が骨まで刺した。
それでも二年が経ち、三年が経った。
馬が増えた。子が生まれた。死者の数より生者の数が多くなった。
トゥメンは毎年、南を見た。
蒙恬の旗は、まだ長城の向こうにあった。
「月氏から使者が来ました」
ソンコが言った。
「何の用だ」
「交易の話です。しかし」
「しかし、なんだ」
ソンコは少し間を置いた。
「人質を求めています」
トゥメンは動かなかった。
「誰を」
「単于の子を、と」
焚き火が音を立てた。
チュルンが一本腕を膝に乗せ、黙っていた。
月氏は西の大国だった。
馬は匈奴より多く、弓は匈奴より強く、草原の西半分を支配していた。蒙恬に敗れた今、月氏に逆らう力は匈奴にはなかった。
人質を断れば、西から攻められる。
東には東胡がいた。
南には蒙恬がいた。
「わかった」
トゥメンは言った。
夜、ボグドを呼んだ。
息子は来た。二十二になっていた。肩の傷は治っていたが、薄く痕が残っていた。
「月氏へ行け」
ボグドは黙っていた。
「人質だ」
「わかっています」
「嫌か」
「嫌です」
「そうか」
トゥメンは息子を見た。
月の明かりが差していた。ボグドの目は静かだった。怒りはあるはずだった。しかし表には出なかった。それがトゥメンには、少し怖かった。
「行きたくなければ」
「行きます」
ボグドは言った。
「父上がそう決めたなら」
「匈奴のためだ」
「わかっています」
「戻ってくる。必ず」
「わかっています」
それだけだった。
アンゴトとトルゲルを連れて行くことを許した。従者を十人つけた。それがトゥメンにできる精一杯だった。
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月氏の都は、草原の西端にあった。
大きな天幕の群れで、中に市場があり、鍛冶師がいて、商人がいた。匈奴の比ではない規模だった。
月氏の王はタグルという男だった。
五十代で、腹が出ていて、目が細かった。笑顔でボグドを迎えた。その笑顔が、ボグドには好きになれなかった。
「匈奴の太子よ、歓迎する」
「ありがとうございます」
「不自由はさせない。良い天幕を用意した」
「感謝します」
「ただ」
タグルは言った。
「遠くには行かないでほしい」
「わかりました」
ボグドは深く礼をした。
アンゴトが後ろで小さく舌打ちした。
人質の生活は、想像より苦しくなかった。
食料は十分にあった。馬にも乗れた。弓も引けた。ただ、遠くには行けなかった。見張りが常についていた。
ボグドは毎日、弓を引いた。
月氏の弓は匈奴より長く、射程が伸びた。構え方が違った。それを見て、一人で研究した。
トルゲルが言った。
「何をしているんですか」
「見ての通りだ」
「月氏の弓の引き方を覚えてどうします」
「覚えておいて損はない」
「人質なんですよ、俺たちは」
「だから時間がある」
トルゲルは呆れた顔をした。
アンゴトは笑った。
「ボグドらしい」
三人は笑った。久しぶりに、笑った気がした。
一年が経った。
タグルの娘がボグドに近づいてきた。
ゲレルという名だった。十七で、目が大きく、馬の扱いが上手かった。
「あなたの弓の引き方、変わっていますね」
「月氏の引き方と、匈奴の引き方を合わせている」
「そんなことを考えるんですか」
「暇だから」
ゲレルは笑った。
「一緒に乗りましょう」
「遠くには行けない」
「わかっています。近くだけ」
二人で草原を走った。
ゲレルは速かった。馬と一体になる乗り方をしていた。
「上手いな」
「父に教わりました」
「タグルが」
「父は馬が好きなんです。見た目と違って」
「見た目は」
「腹が出ているから」
ボグドは笑った。ゲレルも笑った。
それから、時々一緒に乗った。
ボグドはゲレルのことを、好ましく思った。嫌いになれなかった。それが少し、困った。
二年目の秋、南から知らせが来た。
秦の始皇帝が死んだ。
ソンコが密かに来た。月氏の見張りをかいくぐって、夜に来た。
「間違いないか」
「間違いありません。咸陽で確認しました」
ボグドは天幕の中で、一人になってから立ち上がった。
始皇帝が死んだ。
蒙恬はどうなる。秦はどうなる。
胸の奥で、何かが動いた。
ゲレルのことを思った。
しかし、それより先に思ったのは、父のことだった。
草原で待っている、あの静かな目のことだった。
三年目の春、トゥメンが月氏に戦争を仕掛けた。
ボグドは知らなかった。
タグルの兵が天幕を囲んだ。
「匈奴が国境を侵した。お前たちは殺す」
アンゴトが剣を抜いた。
「待て」
ボグドは言った。アンゴトを押さえた。
「刃を収めろ。話を聞く」
タグルが入ってきた。
腹が出た、笑顔の男だった。今日は笑っていなかった。
「お前の父が、月氏を攻めた」
「知りませんでした」
「嘘をつくな」
「本当に知りませんでした」
タグルはボグドを見た。
「お前を殺す理由がある」
「あります」
「しかし」
タグルは少し間を置いた。
「ゲレルが、お前を死なせるなと言った」
ボグドは答えなかった。
「馬を与える。今夜、逃げろ」
「なぜ」
「娘の頼みだ」
タグルは踵を返した。
「夜明けまでに、ここを出ろ。それ以上は待てない」
ゲレルが馬を連れてきた。
三頭だった。食料も積んであった。
「行ってください」
「なぜ助ける」
「お父さんに頼みました」
「それはわかっている。なぜだ、と聞いている」
ゲレルは答えなかった。
月が出ていた。
「あなたが、嫌いになれなかったから」
ボグドは馬に跨った。
「借りを作った」
「返さなくていいです」
「返す。いつか」
ゲレルは何も言わなかった。
ボグドは馬を走らせた。
アンゴトとトルゲルがついてきた。
振り返らなかった。振り返れなかった。
草原の夜を、三人は駆けた。
東へ、父のいる場所へ。
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史書によれば、頭曼単于はボグド(冒頓)を月氏へ人質に送った後、月氏を攻撃した。これはボグドを殺させるための策であったとも言われる。しかし冒頓は良馬を奪って逃げ帰ったと記されている。




