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天狼の星  作者: 神箭花飛麟
冒頓本紀

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8/18

八 雌伏

時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。

ボグドが帰ってきた。

トゥメンは天幕の外で待っていた。

息子が馬から降りた。三年前より、肩が広く、目が深くなっていた。

「戻りました」

「そうか」

それだけだった。

抱き合うことも、手を握ることもしなかった。そういう親子だった。

アンゴトが後ろで小さく頭を下げた。トルゲルも同じようにした。

「疲れただろう。今夜はゆっくり休め」

「はい」

ボグドは天幕に入った。

トゥメンはその背中を、しばらく見ていた。


チュルンが言った。

「よかった」

「ああ」

「月氏を攻めたのは」

「計算した」

チュルンは一本腕を揺らした。癖だった。

「ボグドを殺させるためだったという噂が出ています」

「噂か」

「本当ですか」

トゥメンは答えなかった。

焚き火を見ていた。

「セルガが、毎日のように聞いてくる」

セルガは末の息子だった。年若い後妻との間に生まれた、十五の子だった。

「何を聞く」

「次の単于は自分だと思っている。あなたがそう仄めかしたと」

「仄めかしていない」

「セルガはそう受け取った」

トゥメンは黙った。

チュルンは続けた。

「ボグドは、帰ってきました」

「ああ」

「月氏で三年、何を学んだかは知りません。しかし変わった。あの目は、前と違う」

「わかっている」

「どうするつもりですか」

トゥメンは立ち上がった。

「何もしない」

チュルンは何も言わなかった。


ボグドは毎日、兵を鍛えた。

自分の直属の兵、五千だった。

朝から夕まで、弓を引かせた。馬に乗せた。隊列を組ませた。崩させた。また組ませた。

アンゴトが言った。

「何をするつもりですか」

「鍛える」

「なぜそんなに」

「弱いからだ」

「蒙恬には勝てませんでした。しかし草原では十分な強さです」

「十分ではない」

ボグドは弓を引きながら言った。

矢が的の中心を貫いた。

「月氏で見た。あの国の馬の数、兵の練度。東胡はさらに上をいく。秦が乱れた今、動けるのは今しかない」

「動く、とは」

ボグドは次の矢をつがえた。

「東胡と月氏を倒す」

アンゴトは黙った。

「先に東胡を倒す。東胡が倒れれば、月氏は孤立する」

「トゥメン様が許可を」

「求める」

また矢が飛んだ。中心を貫いた。


新しい訓練を始めた。

「鳴鏑」だった。

音の出る矢だった。

ボグドが放つと、ひゅうと音がした。

「この矢が飛んだ方向に、全員が矢を放て」

兵たちは顔を見合わせた。

「的が見えなくても、か」

「そうだ」

「なぜそんなことを」

「やれ」

訓練が始まった。

最初はばらばらだった。鳴鏑が右に飛んでも、左に矢を放つ者がいた。

ボグドは一人ずつ確認した。

外した者は、その日の食事を抜いた。

厳しいと、囁く者がいた。

ボグドは聞こえなかった振りをした。

十日後、鳴鏑が飛ぶと同時に、五千の矢が同じ方向を向いた。

トルゲルが言った。

「何のための訓練ですか、これは」

ボグドは答えなかった。

まだ、言う時ではなかった。


セルガが来た。

ボグドの天幕に、夜に来た。

十五の少年だった。背は低く、顔は母親に似て丸かった。目だけが、トゥメンに似ていた。

「兄上」

「何の用だ」

「訓練を見ていました」

「そうか」

「兄上の兵は強い。なぜそんなに鍛えるんですか」

ボグドはセルガを見た。

悪い子ではなかった。ただ、周りが甘やかしすぎた。母親も、トゥメンも。

「強くなければ死ぬからだ」

「でも、今は平和です」

「平和は続かない」

「父上は、しばらく大人しくしていろと言っています」

「知っている」

「兄上は、従わないんですか」

ボグドは何も言わなかった。

セルガは少しの間、立っていた。それから出て行った。

翌日、トゥメンがボグドを呼んだ。


天幕の中に二人だった。

「セルガから聞いた」

「何を」

「鳴鏑の訓練を」

「やっています」

「何のためだ」

ボグドはトゥメンを見た。父の目を、真っ直ぐに。

「東胡を倒すためです」

沈黙が落ちた。

「今は動く時ではない」

「いつが動く時ですか」

「秦の乱が落ち着いてから」

「落ち着いたら、次の王朝が北を固めます。今しか隙はない」

「東胡は強い」

「勝てます」

「根拠は」

ボグドは少し間を置いた。

「月氏で三年、草原の西半分を見ました。東胡の情報も集めました。奴らは強いが、慢心している。匈奴を舐めている」

「舐められるだけの敗北を、我らはした」

「だからこそ油断する」

トゥメンは息子を見た。

長い沈黙だった。

「許可はしない」

ボグドは頷いた。

「わかりました」

それだけ言って、出て行った。


次の日、ボグドは兵の前に立った。

「今日から、新しい命令を出す」

五千が聞いていた。

「俺が鳴鏑を放ったとき、矢を放たなかった者は、その場で殺す」

兵たちがざわめいた。

「どんな的でも、鳴鏑が飛んだら同じ方向に矢を放て。それだけだ」

アンゴトが小声で言った。

「本気ですか」

「本気だ」

「殺せますか、本当に」

ボグドは答えなかった。

鳴鏑を取り出した。弓につがえた。空に向けて引いた。

ひゅう、と音が鳴った。

五千の矢が、同じ方向を向いた。

一人の遅れもなかった。


翌朝、ボグドは狩りに出た。

父も、セルガも、一緒だった。

草原を馬で走った。獲物を探した。

ボグドは弓を持っていた。

鳴鏑も、持っていた。


※ 史書『史記』匈奴列伝は記す。「冒頓、鳴鏑をつくりて騎射を教ふ。命じて曰く、鳴鏑の射る所、射ざる者は斬ると。狩に出て、冒頓、鳴鏑をもって其の父頭曼を射殺す。左右皆随いて射たり」と。

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