十六 草原の春
ジーユが単于になって、最初の春だった。
草原に雪が溶けた。
去年の枯れ草の間から、新しい緑が顔を出した。羊が草を食んだ。子馬が母馬の腹の下をくぐった。鷹が空を旋回した。
毎年同じ春だった。
しかしアンゴトには、今年が違って見えた。
父が死んだからだ。
アンゴトは本営の外に立っていた。
風が吹いていた。
南から来た風で、まだ少し冷たかった。
「アンゴト」
トルゲルが来た。
白いものが、髪に混じり始めていた。
「ジーユ様が呼んでいます」
「わかった」
アンゴトは動かなかった。
「すぐに来い、と」
「わかっていると言った」
トルゲルは黙った。
しばらく、二人で草原を見ていた。
「変わりましたね」
トルゲルが言った。
「何が」
「ここが」
「草原は変わらない」
「そうじゃなくて」
トルゲルは本営の天幕を見た。
「あそこに、ボグドがいない」
アンゴトは答えなかった。
「もう慣れましたか」
「慣れていない」
「俺もです」
ジーユの天幕は、父の天幕より小さかった。
本人がそう決めた。
「大きな天幕は要らない。俺はまだ何も成し遂げていない」
そう言って、父の天幕を解体させた。
毛皮と骨と布に戻した。
アンゴトはその作業を見ていた。
骨一本一本が外されるたびに、何かが胸に刺さった。
しかし何も言わなかった。
ジーユは二十代の半ばだった。
顔はボグドに似ていた。目が深く、静かだった。
しかし動き方が違った。
ボグドは常に前を向いていた。ジーユは周りを見ていた。
悪いことではない。しかし、違った。
「アンゴト、座れ」
「はい」
「父上のことを聞きたい」
アンゴトは座った。
「何を聞きますか」
「全部だ。俺が知らないことを、全部」
アンゴトは少し間を置いた。
「全部は、一日では終わりません」
「知っている。毎日来い」
「そうします」
「最初に会ったのは、いつですか」
ジーユが聞いた。
「生まれた時からです。同じ部族の子でした」
「どんな子でしたか」
アンゴトは少し笑った。
「無口な子でした。でも弓が上手かった。十二の時に、大人に混じって狩りをしていた」
「父上らしい」
「怒ると怖かった。しかし滅多に怒らなかった。怒りを溜めて、溜めて、必要な時だけ出す人でした」
「月氏に行った時は」
「一緒に行きました」
「そこで何があったか、聞かせてくれ」
アンゴトは話し始めた。
ゆっくりと、細かく話した。
ゲレルのこと。弓の引き方の話。草原を一緒に走ったこと。
ジーユは黙って聞いていた。
「父上は、ゲレルのことをどう思っていたんですか」
「さあ」
「わかりませんか」
「本人が言わないことは、俺にもわからない。ただ、最後まで西の空を見ることがありました」
ジーユは窓の外を見た。
西の空が広がっていた。
「月氏は今、どこにいますか」
「もっと西です。老上様が在位中に、さらに西へ追いやりました」
「父上の遺言では、月氏をそれ以上追うなとのことでしたが」
「そうです。老上様は少し従いませんでした」
ジーユは頷いた。
「仕方がない。強い男ほど、父の言葉を聞かないものだ」
アンゴトは思わず笑った。
「あなたは聞くんですか」
「聞くつもりだ。少なくとも今は」
「今は、と言いますか」
「状況が変われば、変える」
アンゴトは笑い続けた。
「やはりボグドの息子ですね」
「何がですか」
「言い方が似ている」
三日目に、鳴鏑の話をした。
ジーユは真剣な顔で聞いていた。
「父上が、自分で実演したんですか」
「そうです。鳴鏑を放って、放った方向に全員が矢を向けるまで、何十日も訓練した」
「矢を向けなかった者を、本当に殺したんですか」
「最初の一人を殺しました。それで全員が従いました」
「父上の馬も殺したんですか」
「はい」
「閼氏も」
「はい」
ジーユは黙った。
「信じられません」
「俺も、隣にいて信じられなかった」
「怖くなかったですか」
「怖かった。しかし理解できた」
「なぜ」
アンゴトは少し考えた。
「ボグドは、匈奴を一つにしたかった。部族がばらばらでは、大軍に勝てない。全員が同じ方向を向く、それが鳴鏑の意味でした」
「それは、父上自身も同じ方向を向いたということですか」
「そうです。父上は鳴鏑を放った後、自分でも矢を放った。命令するだけではなかった」
ジーユはしばらく黙っていた。
外で風が吹いていた。
「俺には、そこまでできるかわからない」
「最初からできる人間はいません」
「父上は最初からできた気がします」
「違います」
アンゴトは言った。
「李牧に大敗した夜、ボグドは一人で泣きました」
ジーユが目を上げた。
「見たんですか」
「見てしまいました。本人は見せるつもりはなかったと思います。俺は見なかった振りをしました」
ジーユは黙っていた。
「父上が泣いた話は、初めて聞きました」
「本人は認めなかったでしょう。しかし、泣きました。十四の、子供の顔で」
五日目。
「白登山の前夜、怖かったと言っていましたか」
「はい。俺にだけ、一度だけ言いました」
「父上が怖いと言ったのか」
「はい。樊噲が本当に十万で来たら、やっかいだったと」
ジーユは少し笑った。
「人間らしい」
「そうです。怖くても動く。それがボグドでした」
ジーユは外を見た。
草原に夕暮れが来ていた。
空が赤かった。
「父上に似ていますか、俺は」
アンゴトはジーユを見た。
目が深い。静かだ。
しかし何かが違う。
「顔は似ています」
「顔以外は」
「これから似てくるかもしれません」
「それは答えになっていない」
「似ていない部分もあります。それが悪いとは思いません」
ジーユは頷いた。
「正直に言ってくれ、これからも」
「そうします」
「チュルンのように、俺に怖いと言わせてくれ」
アンゴトは少し驚いた。
ジーユが笑った。
「話を聞いて、チュルンが羨ましかった」
アンゴトは笑った。
草原に夜が来た。
※ 老上単于(稽粥)はボグドの息子である。在位中にさらに月氏を西へ追い、漢との戦いを続けた。アンゴト、トルゲルらの名は史書に残っていない。しかし、こういう男たちがいたはずだ。




