終焉
呂后が死んだのは、書状の事件から八年後だった。
ソンコが報告に来た。顔に疲れがあった。長距離を急いで戻ってきた顔だった。
「呂太后、崩御。漢の宮廷は今、呂氏と劉氏が争っています」
「どちらが勝つ」
「劉氏です。諸将の多くが劉氏につきました。呂氏は血族ごと滅ぼされるとのことです」
「早いな」
「呂后が生きている間は誰も逆らえなかった。死んだ途端にこれです」
ボグドは頷いた。
「劉恒が立つか」
「おそらく」
「どんな男だ」
「穏やかな男だと聞きます。争いを好まない。民を大事にする」
「手強いな」
ソンコが首を傾けた。
「穏やかな男が、なぜ手強いんですか」
「争いを好まない男は、負けない戦しかしない。民を大事にする男は、民がついてくる。民がついてくる国は、簡単に崩れない」
テムルが言った。
「劉邦は水の強さだとおっしゃいましたね」
「劉恒は土の強さだ。水は流れる。土は積もる」
チュルンが病になったのは、その年の冬だった。
最初は咳だった。
次に熱が出た。
三日で下がったが、また出た。
アンゴトが言った。
「南の医者を呼びましょう」
「いらない」
チュルンが言った。
「草原の医者で十分だ」
「草原の医者では」
「うるさい。これくらいで南の医者など呼んだら、笑われる」
チュルンは笑おうとした。咳が出た。
ボグドは黙って見ていた。
一本腕のチュルンが、毛布の中で咳をしていた。
李牧の包囲を逃げた夜も、一緒だった。
月氏の都で弓を引く練習をした日も、一緒だった。
白登山の前夜も、一緒だった。
「南の医者を呼べ」
ボグドは言った。
「いらないと言った」
「俺が呼べと言っている」
「単于命令ですか」
「そうだ」
チュルンは黙った。
しばらくして言った。
「わかりました」
南の医者は三人来た。
漢の国境から連れてきた。
三人が口を揃えた。
「肺の病です。休養が必要です。馬に乗ってはいけません」
チュルンは笑った。
「馬に乗れない草原の民に、何の意味がある」
「命が大事です」
「馬に乗れない命より、馬に乗って死ぬ方がましだ」
医者たちは困った顔をした。
ボグドは医者に言った。
「薬を置いていけ。金は払う」
医者たちが去った後、チュルンが言った。
「無駄金を使わせました」
「うるさい」
「本当に」
「うるさいと言った」
チュルンは少し間を置いた。
「怖いか」
ボグドは答えなかった。
「俺が死ぬのが」
「うるさい」
「正直に言え。命令だ」
ボグドは窓の外を見た。
冬の草原が広がっていた。雪が降っていた。
「怖い」
チュルンは黙った。
「お前が死んだら、李牧の夜を一緒に覚えている者がいなくなる」
「アンゴトがいます」
「アンゴトは別だ。お前は俺が一番最初に怖いと言った相手だ。次も怖いと言えるかわからない」
チュルンは笑った。
咳が出た。
「そうですか」
「ああ」
「では、もう少し生きます」
「そうしろ」
チュルンは春まで生きた。
雪が溶けて、草が芽吹いた頃に死んだ。
馬の上で死んだ。
「馬に乗るな」という医者の言葉を無視して、久しぶりに馬に乗って、草原を少し走って、そのまま馬の上で眠るように死んだ。
アンゴトが知らせに来た。
目が赤かった。
「チュルンが」
「知っている」
「どこで」
「草原の東の方で」
「一人だったか」
「馬と一緒でした」
ボグドは立ち上がった。
外に出た。
草原を見た。
春の風が吹いていた。
南から来た風だった。
チュルンが好きだった風だ、と思った。
南の風が吹くと、チュルンはいつも暖かくなると言った。一本腕を空に向けて。
「馬鹿な男だ」
小さく言った。
涙は出なかった。
月氏で三年生き延びた。鳴鏑の訓練を見届けた。白登山を一緒に囲んだ。呂后の書状を読んで天を仰いだ。
十分に生きた。
「十分すぎるくらいだ」
翌年、漢が国境を侵してきた。
文帝の代だったが、将軍が動いた。
ボグドは迎え撃った。
勝った。
しかし、追わなかった。
アンゴトが言った。
「追いましょう」
「追わない」
「なぜ」
「文帝は謝ってくる。そして和親を続ける。それでいい」
「しかし」
「アンゴト」
「はい」
「お前は、まだ戦いたいか」
アンゴトは黙った。
「俺は、もう十分だ」
「十分とは」
ボグドは南を見た。
長城が遠くに見えた。
「草原は守った。漢は屈服させた。北も東も西も、匈奴の旗が立った。これ以上、何が要る」
「もっと強く」
「強さに終わりはない。どこかで止めなければ、死ぬまで戦い続けることになる」
アンゴトは長い間黙っていた。
「チュルンが死にましたね」
「ああ」
「テムルも、去年死にました」
「ああ」
「ソンコも、体が弱ってきました」
「知っている」
「俺とトルゲルは、まだいます」
「知っている」
「それだけで、十分ですか」
ボグドはアンゴトを見た。
幼馴染の顔だった。月氏で一緒に弓を引いた顔だった。白登山を一緒に囲んだ顔だった。
「十分だ」
その夜、ボグドは久しぶりに星を見た。
天狼星が輝いていた。
ずっとそこにあった。
李牧の包囲を逃げた夜も。トゥメンに単于の座を譲られた夜も。東胡を倒した夜も。白登山の夜も。
ずっとそこにあった。
「もう少しだ」
ボグドは言った。
何がもう少しなのか、自分でもわからなかった。
ただ、そう思った。
草原の風が吹いた。
北から来た風だった。
冷たい風だった。
翌年の春、ボグドは息子のジーユを呼んだ。
「次はお前だ」
ジーユは驚かなかった。
「わかりました」
「一つだけ言う」
「はい」
「漢と戦うな。貢物をもらい続けろ。漢が強くなる前に、草原を固めろ」
「強くなる前、とは」
「今の文帝は土の強さだ。しかし文帝の次、あるいはその次の代に、必ず強い皇帝が出る。その時に備えろ」
「どれくらい先ですか」
「わからない。五十年か、百年か」
ジーユは黙った。
「備えられるかどうかもわからない」
ボグドは言った。
「しかし、備えろと言い続けることが大事だ。俺がお前に言う。お前が次に言え。そうやって続けていけば、いつか役に立つ」
「わかりました」
「それだけだ。行け」
ジーユが出て行った。
ボグドは一人になった。
アンゴトが入ってきた。
「新単于、誕生ですね」
「まだ死んでいない」
「もうすぐでしょう」
「うるさい」
アンゴトは笑った。
「ゲレルに会えませんでしたね、結局」
「うるさい」
「借りを返せないままですよ」
「わかっている」
「向こうは覚えているでしょうか」
ボグドは答えなかった。
西の空を見た。
月氏が逃げていった方向だった。
「覚えていればいい」
小さく言った。
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※ 冒頓単于は紀元前一七四年頃に死んだとされる。在位三十五年。東胡を滅ぼし、月氏を西へ追い、草原を統一し、漢の高祖を白登山に包囲した。息子の老上単于(稽粥)が跡を継ぎ、月氏をさらに西へ追いやって西域への道を開いた。天狼星は今夜も輝いている。




