第9話 幼い約束
アルドリア辺境伯、コルト・アルドリー。それがテティレイシアの父の名だ。
彼がレグルスのもとへと挨拶に来た時——連れていた幼い娘が、いきなり目の前で隣国の弟王子から口説かれたのだから、その驚きはどれ程のものだっただろう。
呆れたような顔をしていたレグルスと、大声で笑い出したアルドリア辺境伯に、全く無意識の言葉だったシュナスは何が起こっていたのか理解できなかった。
あの時のシュナスにとってはただ感じたことをそのまま言葉にしただけだ。テティレイシアの愛らしい菫の瞳はそれほどまでにシュナスの心を揺さぶった。
だがその数年後、あれは自分もまだ幼かったからこそ辺境伯が笑ってくれた話だったのだと気付き、シュナスは一人寝台の上でのたうち回ることになる。
(もう少し大きくなってからだったら辺境伯に斬られてたかも……)
愛する娘に手を出した男に怒り狂う辺境伯を想像して、シュナスは一瞬血の気が引くのを感じた。
何せ彼は当時国境を護るアルドリア騎士団を率いていた剛の者だ。子供のうちにテティレイシアと出会っておいて良かったと心底思う。
辺境伯はひとしきり笑った後もレグルスと長い時間楽しげに会話を弾ませていた。その間、テティレイシアとシュナスは一緒にお菓子を食べたりバルコニーから城下町を見下ろしたりと、大いに交流を深めた。レグルスによると庭園から戻る頃には自然に手を繋いでいたらしい。
まだ互いがそれを恋と自覚する前。だが、特別な相手だと意識するまでに時間はかからなかった。
やがてシュナスとテティレイシアとの婚約が正式に進められることとなった。その後も二人は何度も手紙をやり取りし、時には互いの国を行き来して親交を深めていった。
テティレイシアと共に過ごす時間が楽しくて嬉しくて、離れていても彼女のことを想うと胸がじわりと温かくなる。握った手の小ささと温もりは、いつだってシュナスの心を弾ませた。
常に一緒にいられないことのもどかしさと、だからこそ会えた時の喜びはひとしおだった。
最後に会ったのはアルカ城の庭園で彼女が傷付いた小鳥を拾った時だ。二人大慌てでレグルスのもとへと運んで、治癒術で治してもらった。
その小鳥をシュナスが飼い始めて少しした頃。穏やかで幸せな日々は、二人がお互いにその淡い感情には名があるのだと知るよりも前に、突然の終わりを迎える。
「対帝戦争」の始まりだった。
五年前。ルブルム王国は長い間友好国として交流してきたラディアに、突如として刃を向けた。北のエルド帝国と手を結び、ラディアに侵攻を開始したのだ。
ラディアを始めとした同盟国はこれを迎え撃った。戦いは熾烈を極めたが、同盟国軍が帝国軍を退けて終戦を迎える。
「帝国内ではその後内乱が繰り返され、ルブルムは最終的に帝国の手によって滅ぼされてしまいました」
苦しげなクロエの声に、シュナスは無言で小さく頷いた。
視線の先は孤児院の庭で楽しげに遊ぶ子どもたちと、一緒になって笑う四人。幼い少女が完成させたばかりの花冠を、テティレイシアの頭に載せる。シュナスは嬉しそうに微笑む彼女の、その瞳の奥に未だ残る深い哀しみを想った。
ルブルム軍が圧倒的な力の差に追い詰められていく中、最後に辺境伯から届いた手紙には「せめて子供たちだけでもラディアへ」と書かれていたという。
レグルスはその要請に応えた。
秘密裏に送った使者は、国境でアルドリア騎士団の騎士二人が護衛してきた子どもたちを引き受ける。
それがテティレイシアとイオ達三人だった。
「本当に酷い戦でした。……戦というより、最早虐殺だったと言います」
クロエが顔を顰める。
彼女がぎゅっと握った両手に力が込められているのに気付き、シュナスは胸の辺りが苦しくて、静かに目を伏せた。
「結果としてルブルムには何も残りませんでした。町も、村も、人も——帝国が、全てを灰にしてしまった」
テティレイシアも、イオ達も、何もかもを失った。
ルブルムは、事実上この大陸から——地図から消滅した。
「テティレイシア様は我が国にとってかつての敵国のご令嬢。公に明かせるご身分ではありません」
クロエは隣に立つシュナスにしか届かない声で言う。
「うん、わかってるよクロエ……」
胸が、ずきんと痛む。
国同士の友好関係というものは長い年月をかけて和解することもある。だがルブルムが滅びた今となっては、それももう叶わぬ話だ。
「ルブルムは永遠に敵国のまま、もう二度とそれが変わることは、ない……」
シュナスが呟くように言って、クロエが目を伏せた。
国が失われてしまえば爵位など何の意味もない。
敵国の、元辺境伯令嬢。
テティレイシアは、ラディアの第二王子であるシュナスが妃として迎えられる立場ではなくなってしまったのだ。
「テティレイシア様はレグルス殿下にとっても盟友・アルドリア卿の忘れ形見……お助けしたいとお思いのはず。ですが……」
今の兄に余裕はないだろう。レグルスにですらどうすることもできずにいることを、シュナスに何ができるわけもない。こうして折を見て城を抜け出し、会いに来ることぐらいしか——。
『……もう少し時間をくれないか、シュナス』
そう言っていた兄を思い出す。
わかっている。兄も苦しいのだということを。
テティレイシアや親を失った子どもたちを受け入れるべく、孤児院を建てるためにレグルスやアルニラムがどれほど苦労し、手を尽くしたか。
引退して悠々自適な余生を過ごすはずのクロエが、レグルスからの要請を快く受け入れて院長に就任してくれたこと。
シュナスはそれらを知っている。
(私だけが、何もできなかった……)
使者に連れられ何とか避難してきたテティレイシアが、久しぶりの再会で流した涙。
しがみ付いたシュナスの服をぎゅっと握った手。
その指が一層細くなっていたことも、声すら上げず震わせた肩も。
鼻の奥をつんとさせる感覚を伴って、脳裏に蘇る。
それらが、シュナスの決意をより一層強くさせた。
シュナスはテティレイシアのもとへと歩いた。
地面を一歩踏みしめるごとに、その手に力がこもる。
彼女は広い庭の片隅に座り込み、はしゃぐ子どもたちの姿を一人眺めていた。
その目はどこか遠くを見ているようで、シュナスは少し不安を覚える。名を呼ぶと彼女が振り返り、菫の瞳がシュナスを捉えた。
シュナスの心臓が、どくんと跳ねた。
綺麗だった。とても。
深い紫色。まるで、夜空のような。陽光が星のように、その瞳で輝いた。
そこには哀しみが溢れているように見えて、シュナスは無意識に眉を顰める。
それに気付いたのだろう、テティレイシアが少し驚いた顔をして——それから、にこりと笑った。
シュナスは息を飲む。その美しさに、儚さに。
彼女はいつも笑う。悲しくて、寂しくてたまらないはずなのに。
そうやって無理をして、心配を掛けまいと。
胸が痛い。悔しくて奥歯を噛んだ。
助けなければ。いつか彼女を、自分の手で。
シュナスは彼女の前に跪いて、その手を取る。
まだ華奢な指先を包み込むように握り、顔を上げた。
「これから先何があったとしても、絶対に私がテティを守るよ」
テティレイシアは驚いたように目を丸くして、それから——微笑む。
「だから待っていて欲しい。私の妃になる女性は、テティだけだから」
あの日触れた、小さな手。
細い指の、その温もり。
握った手に力を籠める。
彼女は、何も答えなかった。
ただそっと手を握り返す。
その指先は、冷たいままだった。




