第8話 王子の初恋
王城の南側。アルカ城への正面へと続く大通りからいくつもの細い路地を通り抜け、シュナスはそこに辿り着いた。
木製の柵に囲まれた敷地には、よく手入れされた畑と広い——といっても王宮の庭園とは比較にはならないが、簡素な庭があった。あちこちに植えられたハーブの香りが漂うその中心には、飾り気のない白い壁の建物がある。
そこは国が経営する孤児院だった。
シュナスは柵のすぐ外側にしゃがみこむと、中の様子をそっと伺った。
程なくして午後の食事の片付けが終わったのか、ゆっくりと開かれた正面の扉から子どもたちがわっと庭へと走り出てくる。元気一杯走り回る子どもたちと背の高い白髪の女性、そして最後に四人の少年少女たちが扉から姿を現した。
その中に彼女を見つけて、シュナスは目を輝かせる。
(テティ……!)
シュナスの目は彼女に釘付けだった。
風に揺れサラサラと流れる栗色の長い髪が、陽光に輝いた。幼い子供たちを見守る優しい微笑みに、シュナスの胸が高鳴る。
テティレイシア——彼女こそが、シュナスが城を抜け出した理由そのものだった。
(テティは今日も可愛い……)
久しぶりに見る彼女はとても輝いて見える。
シュナスはうっとりと彼女の笑顔に見とれていた。
可愛い。あまりにも可愛すぎる。妖精、いや女神と呼んでも差し支えないだろう。
愛らしくもどこか凛とした菫色の瞳は、いつだってシュナスの心を掴んで離さない。その瞳が今は真ん丸に開かれ、まだ幼さの残る眼差しでこちらを——
(……あれ?)
彼女の目線はシュナスを向いていた。
あまりに彼女が綺麗で、目が合っていることにすら気付かなかったのだ。
ふっと顔に当たる日差しが遮られ、シュナスはビックリして顔を上げる。
「何してんだよ、シュナス」
そこには先程テティレイシアと共に孤児院から出てきた少年が、怪訝な顔で覗き込むように立っていた。
「あ、いや……久しぶり、イオ」
「久しぶり、じゃねぇんだよ」
イオと呼ばれた少年が手を差し伸べ、その手を取ったシュナスを引っ張り上げるようにして立たせる。
そのまま彼の目線を追うと、テティレイシアがこちらに駆けてきたのが見えた。
「シュナス様!」
「テティ!」
二人はお互いの手を取り合う。
嬉しそうに微笑むテティレイシアの頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「遅くなってごめん、なかなか抜け出せなくて」
シュナスの言葉に少し眉尻を下げて「いいえ」とテティレイシアが首を左右に振る。
シュナスは彼女の手を両手で包み込むようにぎゅっと握り、瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ちゃんと食べてる? 困ってることはない? 不便させてごめんね、早く迎えに来られたらいいんだけど」
「だ、大丈夫……です……」
耳まで真っ赤になって少し俯く彼女の後ろに、白髪の女性が立った。テティレイシアが振り向くより先に、皺の目立つ女性の手が両肩に置かれる。
二人が見上げると、女性は人差し指を口に当てて合図を送ってきた。
「お二人とも、声が大きゅうございますよ」
「……! 申し訳ありません、院長先生」
ハッとしテティレイシアが慌てて口元を手で隠すと、女性は困ったように笑う。
「ごめんクロエ、つい……」
「どこで誰が聞いているかわかりませんよ。さ、こちらへ」
女性は柵の入り口にいる2人を招き入れた。
院長——クロエ・エナールは、かつてレグルスの侍女であり王宮の侍女頭を務めた女性だった。
「イオ、カルメ、エララ。貴方達も来なさい」
クロエを先頭に孤児院の中へと入る。名を呼ばれた三人も、シュナスとテティレイシアに続いた。
一同を院長室に案内すると、クロエはぴんと伸びた背筋でてきぱきとお茶の用意を始める。引退したとはいえ、流石は第一王子付きの侍女だった人物だ。彼女が年齢を理由に城勤めを引退して七年経つが、その動作は美しく、かつ一切の無駄を感じさせない。
クロエは音を全く立てずにシュナス達の前にカップを置き、静かに紅茶を注ぐ。
「シュナス殿下。ここはレグルス殿下の御慈悲により運営される施設です。身寄り無き貧しい孤児たちの為の家ではございますが、子どもたちが食べるに事欠くような思いはさせませんよ」
「いや、何ていうか、重ね重ね……ごめん」
シュナスはクロエの毅然とした様子に首を竦める。
完璧なまでの元侍女頭がふふっと笑みをこぼす様子に、テティレイシアがくすくすと笑った。
クロエはレグルスですら頭の上がらない女性なのだから、シュナスが適うわけもない。最も、そんな彼女だからこそ安心してテティレイシアを任せておけるのだが。
「……どうです? 城内は。アルニラム様が王都を追われたとのことですが」
熱い紅茶をふぅふぅと冷ましながら飲もうとしていたシュナスは、驚いた拍子に紅茶を思い切り吹き飛ばした。それが向かいの席に座っていたイオにかかる。
「熱ぅ! 何すんだよ!」
「あぁぁごめん、イオ! クロエ、もう知ってるの!?」
アルニラムが王都を追放されるという報せがレグルスのもとに届いたのは今朝のことだ。城の中の者たちも、殆どがまだこの事実を知らないだろう。
クロエはこぼれた紅茶をサッと拭きながら、皺の深くなった目を細めてにこりと笑った。
「情報というものは『速さ』が大切なのですよ、殿下」
血の気が引くのを感じて、シュナスは彼女にだけは逆らうまいと固く心に誓う。
「それに、今朝北東で『霧』が目撃されたという情報も上がっております。四年程前から霧の発生件数が増えていると。レグルス殿下ならばそれも既にご存じでしょうが」
「う、うん……流石だね、クロエ」
シュナスは声の震えを必死に抑えながら、誤魔化すように紅茶を啜った。
ふと隣を見ると、テティレイシアが少し不安げにこちらを見ていた。彼女もアルニラムをよく知っているから、心配なのだろう。
「アルは大丈夫、兄上がきっとなんとかしてくれるよ」
シュナスの言葉に、テティレイシアはコクリと頷く。彼女を励ますように、テーブルの下でぎゅっと手を握った。
華奢な指先の冷たさに、シュナスは唇を硬く結んだ。
シュナスはクロエの方に向き直ると、少し目を伏せがちに答える。
「——でも、兄上は今とても大変な状況なんだ。テティやみんなのことも何とかしたいと思ってくださってはいるけれど……ごめんみんな、もう少し待ってて欲しい」
テティレイシアが何か言おうと口を開くより前に、一人ずつ配られたクッキーを頬張っていたイオが慌てて手を振る。
「何言ってんだ、いーんだよ俺らは! テティさえ安全な場所で幸せに生きていけるなら、俺たち三人は自分のことぐらい自分でどうにかするんだからさ! な、皆?」
イオの隣に並んで座っていた少年と少女——カルメとエララが頷いた。「でも」と続けようとするシュナスに、エララが左右に首を振る。
「いいんです、シュナス殿下。私たちよりお嬢様をお願いします」
カルメもその言葉に何度も頷いていた。
エララは裁縫が得意だから、針子やどこかのお屋敷で奉公することもできる。イオは馬や家畜を扱ってきた経験を活かし、厩番として騎士団に所属することも考えているそうだ。カルメは三人の中で一番幼いけれど、勉強が得意だから仕事はいくらでも探せると言う。
握ったテティレイシアの手に僅かに力がこもる。彼女を見ると、その美しい菫色の瞳は翳り、俯いていた。
助られるばかりで、何ひとつできない。力もなく、ただの無力な存在——。
守られたいのではない、守りたいのに。
シュナスは彼女のその苦しみが痛いほどわかった。
自分も、同じだったから。
テティレイシア・アルドリー。
彼女は、今は失われた隣国・ルブルム王国の辺境伯令嬢だった。
*
シュナスやテティレイシアが幼い頃——まだラディアとルブルム間で国交があった時期、二人はルブルムの王城で出会った。
それは招かれた国賓たちが一斉に集った昼食会。初めての他国、初めての城、次々と挨拶に来る見知らぬ大人たち。すっかり委縮してしまったシュナスはレグルスの足にしがみ付いていた。
一方でレグルスは、大人たちと一緒に政治や経済といった難しい話をにこやかに交わす。今のシュナスと同じ年の頃だったにも関わらず、当時のレグルスは既にその英才ぶりを遺憾なく発揮していた。
(あにうえは、やっぱりすごいなぁ)
その頃のシュナスは、今ほど自分の無力感に気付いていなかったように思う。いつか自分も兄と並んでラディア国の為に采配を振るうのだと、そう信じて疑わなかった。
子どもじみた万能感——自ら兄にしがみ付き頼り切っていても、あの時は失わずに持っていられた。それほどに、シュナスは幼かったのだ。
聡明な兄を尊敬の眼差しで見上げていた時、声をかけてきた男がいた。
それがアルドリア辺境伯、テティレイシアの父だ。
——辺境伯の連れていた少女と目が合った瞬間、シュナスはもう恋に落ちていたように思う。
いつか見た花と同じ色の瞳は愛らしく、だがどこか凛とした強さも感じられて一気に引き込まれた。
だから、今よりもっともっと素直だったシュナスは、初対面の彼女にこう言ったのだ。
「とてもきれいなひとみだね」
驚きながら頬を赤く染めた彼女がとても可愛らしくて、シュナスは兄にしがみ付いていた手を、知らず知らず放していた。




