第7話 弟王子、脱走
10/20 序盤の大幅改稿を行いました。
1~4話の一部などを圧縮したことにより、第7話以降は旧8話から話数が1話分ずつ前倒しになっています。
高い踵の靴の音が、コツコツと響く。
ロザリアは王城内の廊下を早足で歩いていた。
「おじい様!」
勢いよく扉を開け放ち、ロザリアは中で仕事をしていた祖父を呼ぶ。
ここは王城の中で政務を担う、サリガン宰相の執務室だった。
「どうしたのだロザリア、はしたないぞ」
声の主はロザリアの祖父、ギルツ・アシュフォードだ。
彼は部屋の正面に置かれた執務机のすぐ横に立っていた。古くから続くアシュフォード侯爵家当主でありアルカが誇る騎士団の長を務める初老の騎士は、その屈強な体格にはおよそ似つかわしくない書類の束を持ち、困った顔で孫娘を見つめている。
日頃から淑女らしく振る舞うことを求めてはくるが、結局は孫娘に対して甘い祖父だった。礼儀作法を注意されたことなどお構いなしに、ロザリアはずかずかと部屋の中に入っていく。
「レグルス殿下が療養されると聞き及びましたわ」
「どこで聞いたのだね? 今日はお前は確か——そうか、シュナス殿下か」
アシュフォードはそこまで言って部屋の主——机で書類に目を通していたサリガンへと目線をやった。
「ふむ、それは話が早い」
白くなった顎髭を触りながら、男が鼻で笑う。
「小生意気な若造が、もう少し粘るかと思ったが——随分とあっけないものだな」
書類を置き、机の上で両肘をついたまま指を組む。口元に浮かぶ笑みが、その手では隠しきれていなかった。
サリガンの古傷だらけのその手に、ロザリアの眉がピクリと動く。
筋骨隆々の身体、額から左目を通り頬へと走る大きな傷跡。宰相として政務をこなすその姿は、文官とは程遠い。
勝利を確信し愉悦に歪んだ眼——その鋭さは、幾度も死線を潜り抜けてきた獣のそれだ。
(なんという野蛮な——)
ロザリアは手に持っていた扇を広げた。目の前の男の醜さに苦々しく歪んだ口元を、それで隠した。
(これだから騎士は嫌いですわ)
ロザリアにとって騎士は嫌悪の対象だ。
自分を溺愛し、望むもの全てを与えてくれる祖父が嫌いなわけではないが、粗暴で武骨、血生臭い栄誉を誇る男たちには何一つとして魅力を感じなかった。
己が肉体、剣技を磨き上げ日々鍛錬に励む——全く持って優美さのかけらもない。
彼女の胸を焦がすのはもっと華奢で美しい殿方だ。だからロザリアから見たレグルスは、伴侶としてまさに理想的な相手だった。
適度に鍛えられた肢体と、神々しいとさえ思える美貌。何よりもロザリアの心を捉えたのは、長い金の睫毛に彩られた翡翠の瞳だ。
誰よりも強い権力を渇望する彼女にとって、レグルスは最も手に入れたい珠玉の宝石だった。
だが彼はロザリアを全くその翡翠の瞳に映そうともしなかった上、早々に婚約者を決めてしまった。
(騎士に紛れて剣を振るような野蛮な女。淑女らしさの欠片もないというのに……!)
レグルスが選んだのは同盟国の王女セラフィーナだ。これは自分の気品と美しさに矜持を持つロザリアにとって、耐えがたい屈辱だった。
そんな時に祖父や宰相が擁立しようと動き始めたのが、第二王子のシュナスだ。
シュナスはまだ精神的にも幼いが、素直な性格と兄王子に似た愛らしい顔つきはとても好ましい。きっと将来は見目麗しい青年へと成長するに違いない。
まだ大輪の薔薇と称されるロザリアの魅力に気付く程成熟してはいないが、それも時間が解決するだろう。何よりも、この純粋な王子は実に御しやすそうだ。
——だからロザリアは、シュナスの婚約者になることを決めた。
祖父によると彼もまた剣の才に恵まれ、王位継承権第二位という立場でありながら騎士たちと共に鍛錬を重ねているという。
だが、あの素直な王子のことだ。自分の魅力でどうにでも操れる。
(シュナス殿下が騎士の真似事に勤しむのも、今はまだ目を瞑りますわ。いずれ剣など辞めさせてしまえばいい。王に即位さえしてしまえば、おじい様やサリガン卿もそう強くは出られないでしょうから)
ロザリアは祖父に近付いた。たくましい腕にしがみ付き、上目遣いで祖父を見上げる。
「おじい様、早くシュナス殿下とわたくしの婚約を進めていただきたいのです」
「おお、そうだなロザリア。お前のような美しく賢い王妃の誕生は、この国にとっても誇れるものとなろう」
厳格な騎士であるはずの祖父も、愛孫であるロザリアの前では形無しだ。
にこにこと笑うアシュフォード侯爵の大きな手がロザリアの頭を撫でる。
だが彼女はその剣を振り続け血に汚れた手の、厚く固い感触に嫌悪感すら感じていた。
祖父に甘える愛らしい少女の表情を崩さぬまま、一日も早くシュナスに騎士を諦めてもらわねば——そう強く思う。
「こうなってはもう王太子殿下にできることなぞありますまい」
「所詮は小賢しい真似しかできぬ軟弱者よ」
侯爵の言葉に応えながらも、溢れる愉悦にサリガンの喉がクックッと鳴った。
「ロザリア嬢。今しばらくお待ちいただきたい。色々と準備が必要なのでな」
にこやかに笑顔を向けるサリガン。そう言いながらもロザリアに向ける瞳の奥に光るもの。血に飢えた、獣のような。
(食えない男——)
目を細め、頷きながら湧き上がる嫌悪感を噛み殺す。
不遜に笑みを浮かべる老骨というものは、なんと醜いのだろう。
いずれこの国で実権を握った暁には、この愚かな男も排除する。たとえこの国の宰相だろうと。
「楽しみですわ、わたくしの可愛いシュナス殿下」
ロザリアの紅い瞳が、ギラリと輝いた。
*
「——ッ⁉」
王宮の庭をこそこそと歩いていたシュナスは、背中に走るゾクリとした悪寒に身を震わせた。思わず振り向いて自分の背後を確認する。
背後には誰もいない。午後を回った高い日差しが降り注ぎ、風が揺らす葉の影を一層濃くしていた。
「……気のせい……かな。うん、きっとそうだ」
何となく嫌な予感がするのはきっと良からぬことをしようとしているからだ。この悪寒は罪悪感がそうさせているに違いない。
——そういうことにしておいて、シュナスは再び前を見た。身を屈め体勢を低くして、植物の陰に隠れるように進む。
この庭から城の方を振り向くと、朝から呼び出され騎士たちと「作戦会議」をしたあの見張り塔が見える。
今頃はレグルスや若い騎士たちも昼食を終えた頃だろうか。もしかしたら引っ越し作業で忙しくしているかも知れない。何にせよ、王宮暮らしで政務に追われていたこれまでとは違う一日に、きっとバタバタしているはずだ。
そう、これは千載一遇の好機だった。
レグルスには釘を刺されたばかりだが、だからこそまさかその日のうちに脱走するとは流石の兄も思うまい。
シュナスは庭を抜け、城内における最北端に辿り着く。
昼食を取り終え、侍女が紅茶を淹れている隙にシュナスは窓からするりと抜け出した。
護衛騎士も部屋の扉の前で控えていたから、侍女がシュナスのカップに紅茶を注ごうと振り向くまでは気取られることはない。その間にできる限りの距離を稼ぐ。城内で隠れる場所は意外にたくさんあるから、誰にも見られることなく庭に出られた。
唯一の懸念があるとすれば、いつもシュナスの行動を先読みして待ち伏せする兄の存在だった。だが今の兄にその余裕はないだろう。そうなるとシュナスにとって敵はいないも同然だ。
かと言ってうかうかしているとシュナス脱走に気付いた侍女や護衛騎士からの一報が、レグルスにまで届く恐れがある。その前に姿を晦ましてさえしまえば、言い訳は後でどうとでもできるだろう。一人になりたくて城の中で過ごしていたとかなんとか言えばいい。
庭は高い位置から見下ろせば一望できる場所ではあるが、この新緑の季節は木陰や薔薇の蔦が絡まる柵を上手く利用すれば死角は確保できる。まだ身体の伸びきっていない年齢だからこそ使える手は、大人には意外と思い付かないものだ。
シュナスは石造りの城壁に辿り着くと、地面近くにはめ込まれた一つだけ微妙に黒味のある石材へと指を触れる。そこから一、二、と石数えて十二番目の石を力いっぱい押した。ズズッと石材同士が擦れる抵抗と土を押しやる感触を感じながらも、押した石を中心にぽっかりと穴が開く。
シュナスがギリギリ通れる程度の大きさだが、そこに迷いなく頭から突っ込んだ。厚みのある城壁を芋虫のように這って通り抜けると、ずらした壁を元に戻して僅かに盛り上がった土を均す。
「よしっ、ここまでくれば大丈夫……」
城壁の下は崖になっているが、シュナスの立っている部分だけが足場のようになっていた。さらに階段状に岩が削られており、一段下の足場にまで繋がっている。
そこまで下りてから、シュナスは足元の岩の隙間に指を差し込んで持ち上げた。薄い石が蓋のように隠していた穴に、シュナスの両掌を広げたよりも少し大きめな木箱が入っている。
その中に無理矢理詰め込んであったフード付きの外套を引っ張り出し、勢いよく羽織った。
「完璧っ!」
崖に沿って細い足場を進む。眼下に城下町が小さく見えるほどの高さだが、シュナスにとってはもう見慣れたものだ。軽い足取りで通路を伝っていく。城を守る城壁が、皮肉にも今はシュナスの身を隠す盾となっていた。
やがて岩だらけの小道は緩やかな丘へ姿を変えた。あとは木々に紛れて町まで下り、いつもの路地に出るだけだ。
「久しぶりになっちゃったな……待っててね、テティ」
シュナスは小走りで丘を駆け降りて行った。




