第10話 足音
「殿下にお渡ししたいものがございます。少しだけ、お時間を頂戴したいのですが」
レグルスや城の様子など、現在の状況をひとしきり話した後にクロエが言った。
彼女と二人きりで話すのは、随分と久しぶりだった。
懐かしい話に花を咲かせる余裕などないのが、少し残念だったけれど。
シュナスはその用意が整うまでの時間を、友人たちと街の散策で潰すことにした。
一行は孤児院を出発し、石畳の道をのんびりと歩いていく。
「アルカはとても美しい街ですね」
周囲をきょろきょろと見まわしながら、テティレイシアが言う。シュナスは少し得意気に頷いた。
「でしょ?そうなんだ、とってもいいところなんだよ」
アルカは歴代の王が、そしてレグルスが守ってきた街だ。
石造りの城壁や、蜂蜜色の屋根が立ち並ぶ街並み。
シュナスはそれを見るために、いつも城のバルコニーへと足を運んでしまう。
「あの新しい城壁は兄上が整備するように決めたんだよ! 『装飾よりまずは防衛だ』って」
「レグルス様らしい」
テティレイシアがくすくすと笑う。
シュナスは誇らしげに満面の笑みを返した。
先頭を歩くシュナスとテティレイシアの後ろを、少し距離を空けてイオ達三人が付いてくる。
振り向いて彼らを見るとイオは親指を立て、隣のエララは両手の拳を胸の前でぎゅっと握ってそれぞれが合図を送ってきた。
(頑張れ、ってことね)
ニコニコと微笑むカルメの表情からも、無言の圧力を感じる。
彼らなりに見守ってくれているのがシュナスにはよく分かった。
その気持ちはありがたいが、シュナスとしては後ろからの視線に若干の居心地の悪さが勝つ。
それならいっそ全員でわいわいと話ながら歩いた方が楽しく過ごせる気もする。
(みんな気を遣ってくれてるんだろうから、ありがたく受け取っておこう……かな)
大河に架かる三本の橋のうち、一番北にある橋へと差し掛かった。
曲線状に連なる橋脚の間を、荷物を積んだ平底船が通り抜けて行く。その様子を上から眺めるイオが手を振ると、水夫たちが手を振り返してくれた。喜ぶイオの様子で、全員に笑みがこぼれる。
「あんなに狭い場所を通り抜けるなんて、凄い技術ですね」
「ライネル川上流の鉱山から出る鉱物を運んでるんだ。この橋もアルカ城も、上流の採石場から運ばれてきた石で作られてるんだって」
「ライネル石灰岩ですね! 硬く加工がしにくい反面、建材としてはとても頑丈で雨や風に強いと習いました」
「う、うん、そうなんだ! 流石だねテティ」
もう少し真面目に家庭教師の授業を受けておけば良かった、とシュナスはひっそりと後悔する。
テティレイシアは辺境伯令嬢として、シュナスとの縁談が浮上してからは将来の第二王子妃候補としての高い教育を受けてきた淑女だ。責任感の強い彼女のこと、幼いころから勉学に励んでいたに違いない。
一方でシュナスは剣術や馬術などの武芸については懸命に腕を磨いてきたが、歴史や文化についての知識はからっきしだ。
きっと様々な分野に造詣が深いレグルスならば、テティレイシアを楽しませるような話もできたに違いない。
「……ほら、城も見えるよ! ここから見える景色は旅人にも人気なんだって」
丘の上から街を見下ろすアルカ城は、新緑の木々に囲まれて輝いて見える。
シュナスは、しばらく目が離せなかった。
川の流れが船を、光を、風を運んでいく。
振り返ると視界に広がるのは、蜂蜜色の街並み。整えられた石造りの道は、陽光を柔らかく跳ね返す。
「綺麗……」
テティレイシアの鈴の音のような美しい声はシュナスにとって心地良く、だが不思議と遠く聞こえる。
その瞳は確かにこのアルカの街並みを映しているのに、彼女が見ている景色はここではない何処かのようで――
「テティ、こっち! 大通りに出たら屋台もあるよ! 私が御馳走する!」
得も言われぬ不安に駆られ、シュナスは彼女の手を掴んで引いた。
振り向いて見た、彼女の笑顔。
手を引かれながら目新しい光景に心躍らす彼女の様子は、シュナスにとって確かに彼女がここにいることの証に思えた。
ほっと息が漏れるが、それでも同時に胸の奥でチクリと違和感が残る。
——彼女は返事をくれなかった。待っていて欲しいと、妃になる女性はテティだけだと、そう言っても。
ただ寂しそうに微笑んだ彼女の指の冷たさが、今も手の中に鮮明に残っている。
シュナスはそれを意識から無理矢理に追いやった。
テティレイシアを不安がらせてはいけない。
口角を思い切り上げて、にこりと笑う。
一歩大きな通りに踏み出せば、人々の往来は多い。
深くフードを被ったシュナスが紛れるには丁度良かった。
すれ違う旅人や傭兵といった者たちの往来も、殺伐とした空気は感じられない。
偏にそれは、町の秩序を守る守備隊の努力の賜物なのだろう。
「そういえばミンタカもリゲルも、ほんの数日前までは街を護ってたって言ってたっけ」
「騎士様……ですか?」
「そうそう、兄上の護衛騎士になった二人でね。私の剣の師匠も、近衛騎士になる前は守備隊に所属してたんだって」
他愛もない会話が戻ってくる。
シュナスは悟られぬよう、フードの中で鼻をすすった。
串に刺して焼いた羊肉、チーズを挟んだパンに、どうやって食べるのか想像もつかない形の菓子。
屋台で初めて目にする食べ物は、どれもこれもが美味しそうに見える。
昼食を終えてそれほど時間が経っていないにも拘らず、五人はいくつかを買って食べながら歩いた。
「お二人とも、買い食いなんて初めてなのでは?」
「みんなはやったことあるの?」
「庶民にとっちゃこれが当たり前なんだよ」
エララやイオとの会話にテティレイシアがくすくすと笑い、カルメは微笑む。
まるで昔に戻ったようだった。対帝戦争が起こる、そのもっと前に。
あの頃はラディアを訪れたテティレイシアと手を繋いで歩いていた。
庭園で色とりどりのお菓子を囲み日々の出来事を話したり、城の中を探検したり。
レグルスや、彼の婚約者と共にバルコニーから並んで星を眺めたりもした。
辺境伯の屋敷では使用人の子どもたちであるイオ、カルメ、エララとも仲良くなって皆で探検ごっこをしたこともある。
皆がまだ幼く、戦火も遠い世界の話だと思っていた頃。
この平和な暮らしが突然失われるなどと、誰も思っていなかったのに——。
屋台の立ち並ぶ広場や賑やかな通りを抜け、細道の先に小さな広場を見つけた。
二人は井戸の近くにある一本の樹の根元に腰かける。
イオ達三人は井戸の向こう側で三人並んで話し始めた。
長い歴史の中で幾度も増築を繰り返された家々が複雑に立ち並び、周囲の細道は入り組んでいた。
それほど歩いていないはずなのに、大通りの喧騒が遠く感じる。
建物に囲まれて、よく晴れた春の午後なのに少し薄暗くすら感じる。
人の気配が薄くて、肩の力が抜ける。
頭上に伸びた樹の枝から、ピィと馴染みのある鳴き声が聞こえた。
「あ! 戻ってきたんだね!」
小鳥の精霊が、そこに止まっていた。
「ちゃんと兄上に、お返事も届けた?」
シュナスは問いながら手を伸ばす。小鳥は頷くようにもう一度鳴いて、翼を広げた。
ふわりと主の指の上に降り立った精霊は「お疲れ様」というシュナスの声を聞き届けると、そのまま風に溶けるかのように姿を消した。
どうやらレグルスの「お使い」は無事に終わったようだ。
しっかり使命を果たせた。シュナスは安堵の表情を浮かべる。
「もしかしたら、またしばらく会いに来られないかもしれない。その時はこの子に手紙を届けてもらうから」
シュナスの言葉にテティレイシアはにこりと頷く。
「アルカの中なら私の魔力でも届けられる。だから心配ないからね」
「わたくしも、お返事を書きます」
微笑みながら答えるテティレイシアの瞳は、確かに自分を映していた。
シュナスは満面の笑みで大きく頷く。
「シュナス様、覚えていらっしゃいますか? あの小鳥のこと」
「もちろん覚えてるよ! テティが最初に見つけてくれたんだよね」
数年前、テティレイシアが父に連れられアルカ城を訪れたことがあった。
一緒に遊んでいるうちに、テティレイシアが怪我をした小鳥の雛を見つけたのだ。
どうやら城の庭園の樹上に作られていた巣から落ちてしまったらしい。
「シュナス様があの子を両手で抱えて……急いでレグルス様のもとへ向かいましたね」
「そうそう、あんまり慌ててたから、兄上に呆れた顔されちゃったよね」
レグルスが治癒魔術で傷を治してくれたが、小鳥は翼が変形してもう長い距離を飛べなくなっていた。
だから、シュナスが飼うことにしたのだ。
テティレイシアがルブルムに戻って少し。
――それきり、二人は会えなくなった。
時を同じくして、小鳥に橙色の羽毛が生えてきた。
見たことのない種の鳥だった。
「珍しい鳥だったみたいで、城の図書室の本で調べたけど見付からなくて。探し出してくれたのはアルだったんだ」
シュナスは少し目を伏せ気味に言う。
良く似た小鳥が載っていたのは、書庫の奥に積まれていた古い本だった。
アルニラムが見つけて、シュナスに渡してくれたのだ。
擦れて読みにくい、見慣れぬ文字。
解読できたのはその鳥種が橙色の羽毛を持っていたこと、そして「ロビン」という名で呼ばれていたという事――それだけだった。
「それをそのままあの子に名付けたのですね」
「うん。名前を付けたこと、テティに知らせたかったんだけど――」
その小鳥――「ロビン」は、死んでしまった。
朝は元気だった。それなのに。
戻った頃には、もう冷たくなっていた。
「とてもきれいな羽だったんだ。鮮やかな色でね。……テティにも、会わせてあげたかった」
少し俯いたシュナスの肩に、テティレイシアは無言でそっと寄り掛かった。
遠く離れていた頃。
不安を掻き立てる話ばかりが届いていた頃。
今は違う。
会いに来られる機会はそう多くないが、それでも彼女の身は護られる。
「小鳥」を使えば手紙も届く。
彼女は今、ここにいる。
あの頃よりは何倍もましだ。
そう思う。
そう思えばいい。
背後の細い路地から、足音が響いた。
小さな音。
複数だった。
それがやけに、近く聞こえた。
――シュナスはそれに、振り返りもしなかった。




