第46話 憧れの、その先
帰り際、ヴォルフラムは頭をぼりぼりと掻きながら申し訳なさそうに笑った。
「ルカがすっかり世話になっちまってすまねぇな。女房も心配しててよ、また様子を見に来ても構わねぇか?」
レグルスが「ああ」と答えて苦笑する。
「世話になったのはこちらだ。いつでも会いに来てやってくれ」
そこまで言って、ヴォルフラムがじっとレグルスとセラフィーナを見ているのに気付く。どこか懐かしそうに目を細める彼の口角が上がり、ぼさぼさの髭が少し揺れた。
「……あんたらも随分立派になった。ルカもそうだけどよ、大人になるしかなかった子供らを見てるってのはどうにも……」
そこまで言って、ヴォルフラムは溜息を吐いて「ははっ」と笑った。
「いけねぇいけねぇ、昔のことを思い出したらちぃとばかり口数が増えちまった。邪魔したな」
ヴォルフラムは人懐こい笑顔でニカッと笑って扉を出る。
それに続いたハーヴィが、最後に振り返ってペコリとお辞儀をした。
ミンタカが彼らを塔の一階まで見送るため後に続いて、扉を閉める。
レグルスは小さく息を吐いて、昼間にゾズマから手渡された書類を見た。
今回シュナス達を誘拐した二人の近衛騎士。
植物の蔓のようなものを生やして暴れまわったというレサト・ジェーハは、リゲルやミンタカより少し年上の、侯爵家の血縁に当たるまだ若い騎士だ。
もう一人のアグラフ・ディアスもアシュフォード侯爵家の親戚筋だという話だが、彼は五年前の対帝戦争やそれ以前からの戦にも参加していた古参の騎士だった。素行の悪いレサトとは違い、騎士道精神に溢れた人格者だったと記憶している。
シュナスによるとマスクの男が彼らへと最終的な指示を出していたらしい。
アシュフォード侯爵家は長らく続く騎士の家系だ。当主であるアシュフォード自身も家柄を重んじ、自尊心も高い。五大侯爵家出身であるサビク・ヴェルトリアンを実力など二の次に己の後任として近衛隊長に任命したのも、身分の高い者こそが上に立つべきという考えを持っているからだ。
アシュフォード自身は剣の腕こそサリガンに次ぐとまで言われる程だが、その考え方は真逆と言っていい。地位と名誉を求め、実に俗物的で——サリガンと比べるとあまり器用とは言えない立ち回りしかできない男だった。
そのアシュフォードが、どこでどうやってマスクの男と繋がったのか。
テティレイシアの暗殺にシュナスを巻き込んだこと、救出に向かったのがセラフィーナらだということ。それらの情報があのマスク男からサリガンやアシュフォードに渡っていたとしたら。当然、同じ情報がシュナスやセラフィーナの口からレグルスにも伝わると考えるはずだ。
それならばサリガンに何らかの動きがあってもおかしくはないが、今のところその気配はない。
(そのマスクの男はサリガンと繋がっていない……? いや、もしかしたら——)
そこまで考えたところで、ルカが小さく呻いた。
シュナスとテティレイシアが立ち上がって覗き込み、ベルが素早く傍に移動する。
担ぎ込まれた時は青白かった顔色が、今はいつもより赤い。苦しそうに顔を顰め、首だけを少し動かした。
「お熱が更に上がったようです」
ベルがルカの頬に手を当ててそう言うと、首が動いた時に落ちてしまった布を取る。机の上の桶に張った水で濡らして絞り、そっとルカの額に置いた。
「……戦争は、本当に——嫌なものですね」
そう、ぽつりと言う。
彼女の夫と息子も、五年前の対帝戦争で帰らぬ人となった。それが原因でベルはシュナスの侍女を辞め、実家に戻ってしまったのだ。
彼女もまた、戦争によって人生を大きく変えられてしまった一人だった。
ルカの首筋から流れる汗を優しく拭いて、ベルはふふ、と少し寂しそうに笑う。心配そうにルカを見つめていたテティレイシアに、布を差し出す。彼女は頷いてそれを受け取り、見様見真似でルカの汗を拭った。
「さあ、ルカ様はシュナス様とテティレイシア様にお任せして。私はテティレイシア様のお部屋をご用意してまいりますね」
にこりと笑うと、ベルはいそいそと部屋を出ていく。
ミンタカが部屋に戻ってきたのと入れ違いに、リゲルはベルの手伝いで部屋を出た。
どうやら彼女はこの塔に住み込む気らしく、下の階の二つの部屋をそれぞれ自分とテティレイシア用に整えるつもりのようだ。その行動力と思い切りの良さはどこか母であるクロエを彷彿とさせて、レグルスとセラフィーナは思わず顔を見合わせて小さく笑った。
「それはそうと。そろそろお前も少し休んだらどうだ」
セラフィーナの言葉にレグルスはほんの一瞬だけ言葉に詰まってから、それを悟られないように答える。
「いい。それよりも考えることがある」
「そう言って、食事も全くとれていないではないか!」
「……今は食べないぐらいの方がかえって調子がいい」
「そんなわけがあるか!」
そう言いながら詰め寄ってきたセラフィーナの表情は、怒っているというよりも心配が勝っているように見えた。
彼女の肩越しに見えるシュナスのじとっとした視線も、「寝ろ」と言っている。
「……わかった。少し寝る」
諦めたレグルスは大きく溜息をついて、そのまま掛け布に潜り込む。
両手を腰に当ててそれを見届けるセラフィーナに少し苦笑して、彼女から隠れるように横を向いた。
——最初の誘拐事件の主犯だった騎士。ルカは彼らの剣の構えからルブルム出身の可能性に気付いたと言っていた。その構えも、ミゼリオに住んでいた時に見たのだろうか。
マスクの男についての情報も、ルカが目覚めてから聞いてみるしかない。
まだまだ謎だらけだ。思案しながら、レグルスは静かに目を閉じた。
*
「……寝た」
セラフィーナの呟くような声に、シュナスはくすっと笑った。
あっという間に寝息を立て始めた兄の後ろ姿に、少しだけ安堵する。
昨夜もレグルスはルカや自分たちに治癒術を施してから、倒れるようにして眠ってしまった。きっと、今の兄にとってはかなりの負担だったのだろう。セラフィーナがレグルスの頬に飛んだルカの血を拭き取ったときも、目覚める気配はなかった。
あんな状態だったのに、兄はシュナスの傷までしっかり治療してくれた。ずたずたになっていた掌も、剣で貫かれた肩の傷も。
深い傷は一度の治療で治しきってしまうのも良くないらしく、まだ肩には鈍い痛みがあるがそれだけだ。
テティレイシアや二人の騎士、セラフィーナの擦り傷まで完全に治癒させたのだから兄の頑固さも相当なものだ。
昔から兄はセラフィーナの怪我にうるさい。少しでも傷を負おうものならどれだけ本人がいいと言っても聞かないのだから、もうセラフィーナも諦め顔だった。
セラフィーナは寝台の向こうの椅子に座ると、眠るレグルスの顔を心配そうに覗き込む。
シュナスはこれまで兄のこんな無防備な姿を見たことがなかった。
才能に溢れ、いつも完璧で隙のない兄だった。こんなに弱った姿など、想像したこともない。
それを見せまいと振舞う兄にも、気遣うセラフィーナの横顔にも——シュナスは暗闇の中に一人放り出されたような不安を覚える。
ルカがまた首を横に向けた。テティレイシアが、そっとその汗を拭った。
レグルスとルカ。二人はシュナスにとって、憧れの対象だった。
強い人は何でもできるのだと、どこかでそう思っていた。でも、それは思い込みだったのかも知れない。
もう一人の憧れで剣の師匠でもあるゾズマも、そんなことを言っていた。
強くて自由でカッコいい、それがルカだと思っていた。
だがあの必死な戦いも、彼の言う「甘さ」も、不器用な優しさも。剣を弄ばれたことで彼が見せた、怒りとか強い感情、多分——弱み、みたいなものも。
全部がルカなのだと。そう気付いた。
彼の上半身に巻かれた包帯の隙間からは、沢山の傷跡が見える。今回の傷だけではない。あちこちに刻まれた古傷が、これまでのルカの歩んできた道の壮絶さを静かに物語っているかのようだった。
獣みたいに暴れたルカは、震えるほど恐ろしい存在に見えた。元のルカに戻ったことが嬉しくて、でも怖くて、そう思っていることを、ルカに気付かれたくなくて。
誤魔化すようにして咄嗟に言った「お揃い」の肩の傷。その傷を覆う包帯の下から覗くのは、火傷の跡だろうか。
(私はまだ——ルカのこと、何も知らないんだ……)
シュナスは立ち上がると、寝台の反対側に回ってルカの額の布を取った。水で濡らしてそれを絞り、綺麗に畳んでそっと戻した。
話したいことが沢山あった。聞いてみたいと思ったことも、まだ聞けていない。
「頑張って、ルカ……」
そう小さく呟いて、じっと彼を見つめた。
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