第43話 死ぬよりゃマシだろ
夜更けの冷気が不意に窓から入り込む。ゾズマは静かに窓を閉め、無言のまま椅子に腰かけた。
レグルスはゾズマから目を離し、ぼんやりと虚空を見つめる。寝台の背もたれに身体を預け、持っていた書類をシーツの上に無造作に置いた。
内容は頭になど入らなかった。小さく息を吐き、目を閉じる。
再び目を開いた時、ゾズマが何かに反応して扉を振り返る。
一呼吸遅れてレグルスにもそれが届いた。蹄の音、馬の嘶き。それに騒がしい複数の足音が、下の階から塔の内部を反響するように聞こえてくる。
「……帰ってきたようですな」
呟くように言って、ゾズマが立ち上がった。
何か叫び声が聞こえる。セラフィーナの声だ。ゾズマが扉を開いた。階段を駆け上がる足音と、レグルスの名を呼ぶ声。
レグルスは寝台から足を下ろした。眩暈が襲ってくるが、どうやら構っていられるような状況ではなさそうだ。
「レグルス……レグルス! ルカが!」
セラフィーナが駆けこんできた。少し遅れて、大きな男が部屋に入ってくる。
随分久し振りだが、懐かしい顔。ヴォルフラム・ドゥベール。「鋼の爪」の通り名を持つ傭兵だった。
その男の腕に、血塗れの少年が抱えられていた。
「——!!」
レグルスは立ち上がる。
ゾズマが奥の寝台へヴォルフラムを誘導した。
「早く、こちらに!」
ヴォルフラムの大きな手が、ルカの小柄な身体を寝台に横たわらせた。
ルカの呼吸は浅く、脂汗が滲んでいる。苦悶の表情を浮かべ、指先は小刻みに震えていた。
背中が触れている白いシーツに、じわじわと赤い染みが広がる。背中にも深い傷があるのだろう。額の傷の周辺や口元は、既に乾き始めた血で赤黒くなっていた。手首に嵌められたままの手枷の下も擦れて皮膚が裂け、血が滲んでいる。他にどれ程の傷があるのかは、もうよくわからなかった。
ゾズマが短剣でルカの上半身の服を一直線に斬り裂いた。勢いよく前を開けると、全員が息を飲んだ。
赤く染まった胸。折れた骨が皮膚を突き破っていた。白い骨の断面が三ヵ所覗いている。呼吸の度に胸は不自然な動きで上下し、ひゅう、と空気の漏れる音が微かに聞こえた。
首に掛かる細い鎖の先には、金属の小さな板が二枚と銀色の華奢な指輪。それらも血に塗れ、汚れていた。
「兄上!!」
シュナスが部屋に飛び込んでくる。そのすぐ後ろからテティレイシアが駆け込み、二人の騎士が続いた。
レグルスが振り向く。シュナスはレグルスの顔を見て息を飲み、その場で立ち止まった。
シュナスの肩や右手には布がぐるぐると巻き付けられ、そこから血が滲んでいる。弟の身体もあちこちが擦り傷だらけだった。
テティレイシアと騎士二人も無事であることを確認すると、レグルスは静かに言った。
「リゲル、ミンタカ。清潔な布を集めろ。できる限り多く」
二人は「はっ」と短く返事をして、部屋を飛び出していく。その足音がまだ聞こえているうちに、レグルスはシュナスを見た。
「シュナス。テティを連れていけ」
シュナスは我に返ったのか、レグルスの声にハッとする。後ろを振り返ると、テティレイシアが胸の前で両手を重ねてシュナスを見ていた。
シュナスが少し迷った顔をしたのは一瞬だけだった。ぎゅっと拳を握り締め、顔を上げる。
「……いいえ兄上、私はここに」
レグルスは少し目を大きく開いた。
シュナスの顔に決意が滲む。レグルスはその瞳を見つめて、小さく息を吐いた。
「セラ……頼む」
セラフィーナはきょとんとした顔をして、すぐに口角を上げて頷いた。テティレイシアに歩み寄ると、彼女の背に手を添える。テティレイシアは一度セラフィーナの顔を見上げ、シュナスに視線を戻す。弟が頷いて、テティレイシアは目を伏せた。
セラフィーナが彼女を連れて部屋を出ると、レグルスはルカに向き直る。
ルカの顔色は、更に悪くなっているように見える。
シュナスが「ルカは!?」と叫んだ。
「……折れた肋骨が肺に刺さっている。このままではそう長く持たない」
それだけ言って、レグルスはゾズマに目で合図を送った。ゾズマは無言で頷く。
シュナスは言葉を失っていた。彼は両手で剣を抱えている。ルカの刀だ。それを握る手が、わずかに震えていた。
「どう……すれば、ルカを……助けられますか」
シュナスの声は震えている。両手の指先が白むほど、強く剣を握っていた。
戻ってきたリゲルが、勢いよく扉を開け放つ。次いでバタバタと駆けこんできたミンタカが、数歩進んだところで慌てて扉を閉めに戻った。
レグルスは布を受け取ると、二人の顔を交互に見る。
「布を噛ませろ。腕を押さえておけ、暴れる」
ミンタカがルカの口をこじ開け、棒状に丸めた布を奥歯で噛ませる。リゲルとミンタカが左右でそれぞれルカの腕を押さえ付け、顔を見合わせて頷いた。
レグルスはゾズマから短剣を受け取ると、ルカの上に跨った。その横にゾズマが立つ。
「——耐えろよ、ルカ」
一言呟くと短剣の切っ先をルカの胸に当て、柄を持つ手に力を込めた。
胸腔に溜まっていた空気が、ひゅうと音を立てて抜ける。同時に勢いよく飛び出した赤い液体が、レグルスの顔や服を汚した。
ルカが呻きとも悲鳴ともつかない声を上げるが、それも一瞬だった。まともに息を吸えない状態だ、無理もない。ミンタカが眉を顰めて顔を背けた。
暴れる身体を騎士二人が必死に押さえつける。ルカが口に銜えた布を強く噛み締めた。
ゾズマの手が、ルカの胸元に伸びる。
「いいぞ、抜け! 肺の穴を閉じる!」
レグルスの声に、ゾズマが慎重に指先を動かした。内側へずれて肺を貫いていた骨の先端を抜く。
声にならないルカの叫びに、シュナスは剣を握り締めたまま涙を浮かべた。
レグルスの指先から魔力が溢れる。治癒術の柔らかい光が、辺りを照らした。
ルカの胸が勢いよく上がる。息が吸えた。深く、空気が肺に入る。
「よし……次は骨だ」
視界が揺れる。一瞬顔を顰め、それでもレグルスは集中を途切れさせなかった。
ゾズマが、持ち上げた骨をぴたりとはめる。そこに治癒術を施した。胸の中に溜まった血を、布に染み込ませる。真っ赤になった布を、何枚も床に投げ捨てた。
ルカの抵抗は次第に弱々しくなっていった。もうそんな力も残っていないのだろう。胸の中の傷を塞いだ時には、ぐったりと動かなくなっていた。
レグルスが、大きく息を吐く。
ふらりと揺れた身体を、隣のゾズマが支えた。
「兄上!」
シュナスが駆け寄ってくる。弟を見て口角を上げるが、それでも弟の心配そうな顔は変わらない。
レグルスは床に足を付き、寝台に腰かけた。騎士二人も顔を見合わせて、ルカの口から布を取り出し、腕から手を離す。
ゆっくりと呼吸を整え、レグルスはもう一度ルカの方へと身体を向ける。再び治癒術を施すため、掌へと魔力を集めた。
その時だった。
レグルスの手首を、ルカの手が勢いよく掴んだ。
その場の全員が、驚いてルカを見る。
少年は目を開け、レグルスを必死の形相で睨みつけていた。
「触……るな……」
絞り出すように、ルカが言う。
シュナスが彼の名を呼んだ。
ルカは死にかけているとは思えないほどの力でレグルスの手を振り払い、寝台を飛び降りた。
レグルスは、ゆっくりと目を細める。立っていることすら不思議な少年をじっと見つめた。
「……動くな。まだ治療中だ。胸の傷も完全には塞がっていない。……死ぬぞ」
レグルスが静かに言う。
ルカは肩で息をしながら、ふらふらとした足取りで後退る。
「いらない……治癒術は、必要ない……!」
倒れそうになったところで、背中が壁にぶつかる。痛みに顔を顰めながら、壁に背中を預けた。
「何……言ってるんだよ、ルカ! このままじゃホントに死……」
シュナスの叫びを、ルカが「うるさい!」と遮った。背中の傷から溢れた血が、壁を伝って流れていく。
——正気ではない。朦朧とした意識のまま、それでも拒否している。自らの命を救うはずの、治癒術を。
「必要ないと言ってる……! 嫌だ、治癒術は……俺はもう——」
そう言いかけたところで、ヴォルフラムが飛び込んだ。
強烈な拳の一撃が、ルカを殴り飛ばす。勢いよく横向きに床へと叩き込まれ、ルカはまた動かなくなった。
部屋の中が、しん、と静まり返る。
「いやぁ、すまねえなぁ王子さんよ」
ヴォルフラムが倒れたルカを乱雑に担ぎ上げ、寝台に放り投げるように横たわらせた。
完全に意識を失っているルカを、騎士二人が覗き込む。
「こいつ、どうにも治癒術が苦手らしくてな。怪我しても治癒師に診せねぇんだよ。ちぃと荒っぽくて悪ぃが、ルカも死ぬよりゃマシだろ」
シュナスが思わず声を上げた。
「ち……治癒術が……苦手なんて、そんなこと……なんで!?」
傷を治し、痛みを消す術が苦手など聞いたことがない。
死にかかってなおこの反応なのだから、ルカにとって何か相当な理由があるのだろう。
ヴォルフラムは頭をぼりぼりと掻きながら、首を捻った。
「さぁなぁ……詳しくは知らねぇ。こいつの養父なら知ってたかもしれねぇが、もう死んじまったしな」
驚く一同の前で、にかっと笑う。
「俺ァこいつがアルカに来た頃からの後見人みてぇなもんだ。ヴォルフラム、みんなヴォルフって呼んでるよ。よろしくな、小せぇ王子さん」
シュナスは上がらない左腕と身体の間に、ルカの剣をぎこちない動作で抱え直した。差し出されたヴォルフラムの大きな掌に、布の巻かれた右手を恐る恐る出す。それをヴォルフラムがガシッと掴んで、ぶんぶんと振り回した。強引な握手に、シュナスが思わず「痛い痛い痛い!」と悲鳴を上げる。
「あぁ、すまねぇ。怪我してんだったな」
ヴォルフラムが空いた手を後頭部に当てる。
レグルスはそれを、苦笑しながら見つめていた。




