第39話 黒い獣
『……いや、騎士じゃない……と思う。ただの傭兵崩れとも違う。もっと違う気配の、何か。あれは……』
ルカのその言葉が、脳裏に蘇る。
シュナスはルカを見た。彼は抑え付けられたまま男を見ている。その表情は、驚き——いや違う。多分、「警戒」だ。
男がフードを下ろした。
緑がかった、くすんだ灰色の髪。肌は血の気を帯びておらず、顔もどす黒い。不自然なほど長い首。肩口から顔の下半分まで続く黒い革のマスクが、口元を完全に隠している。
それでもシュナスにはわかった。男は、笑っている。
この声、喋り方。間違いない、この男だ。城で近衛二人と話していたのは——!
男はその歪んだ口元で、ゆっくりと言葉を発した。
「こんなところまで来て、思わぬ拾い物だよ」
ぞわり、と背筋に嫌な震えが走る。くぐもってはいるが、それでも不気味なほど通る声。纏わりつくような、そんな声だ。
騎士とか傭兵とか、そんなことまではシュナスにはわからない。でも違う、ルカの言う通りだ。これは、得体の知れない「何か」だ。
男の目は、ルカを映している。反対に、男を映したルカの銀の瞳は次第に鋭さを増していく。ざわざわと毛を逆立てる、殺気立った獣のように。
「ラディアで生き延びていたんだねぇ、『氷狼』。……いや、こう呼んだほうがいいかな?」
男が、目を細める。
「——二十六番」
ルカの顔に、今度こそ驚愕の色が浮かんだ。
ルカがゆっくりと口を開く。そして、呻くように言葉を絞り出した。
「お前は……誰だ」
その何か——マスクの男は一層目を細める。
シュナスは男とルカを交互に見た。
この男、ルカを知っている?
なんて呼んだ? にじゅうろくばん——番号?
ルカの過去を、シュナスの知らない何かを、この男は知っている。恐らくルカの知られたくないであろう、何かを。
言葉すら失ってルカはただ男を見ていた。
その背を、レサトが勢いよく踏みつけた。意識を全て男に向けていたのだろう、急な痛みを堪えることができずルカの口から大きく声が漏れた。
「何なんだ、この小僧は。何故殺さない」
レサトがルカの背をぐりぐりと踏みつけながら、マスクの男に問う。男は楽しそうに、ルカが奥歯を噛み締めて痛みを堪える様を眺めていた。
「左肩の後ろ。そこに番号があるだろ」
騎士がうつ伏せのルカの左肩に、浅く剣を突き立てる。そのまま剣を横に振り、服ごとルカの肩を斬り裂いた。
「ッ……!」
少し顔を顰めた少年を構うこともせず、血に染まる服の裂け目をぐいっと広げた。
「……ないぞ。これは……火傷の跡か?」
騎士の言葉に、マスクの男は「ヒヒヒ」と楽しそうに笑った。
「なぁんだ、焼いたのか」
レサトはその男の言葉をどうでもいいとでも言うように、ルカの肩を傷口ごと乱暴に押さえつける。血が溢れ、ルカはまた顔を顰めて痛みに耐えた。
「まあいい。黒髪に銀目、間違いようもない。そいつは特別だ。死んだと思っていたが……いい土産ができた」
ルカが男を睨みつける。そして言った。
「お前が……『上』か……!」
シュナスはハッと男を見た。
「上」に報告しに行ったのではない。この男がその「上」——この誘拐の、首謀者なのだと。
(そうか、こいつ……!)
この男はシュナスを孤児院へ誘導し、誘拐に巻き込んでおきながら手下には『殺すな』と命じた。
だけどそれは——殺さないのは、ルカだけだ——!
(何なんだ、どうしてルカを……?)
同時にこの男はシュナスを暗殺しようとしている……のだろう。
何故——何者なんだ!?
ぎりっと奥歯を噛み締めるシュナスの視線の先で、マスクの男は背後から何かを取り出した。
「……これは、お前の? 随分珍しい代物だねぇ」
ルカの、剣だ。
男の手の中にあるそれを見た瞬間、ルカがぴくりと反応したのがわかった。ただ見ていることしかできない少年の前で、男は弄ぶように左右の手で剣を何度も持ち替える。
「やめろ!!」
ルカが叫んだ。
その目の前で、マスクの男はまた笑う。それが、ルカの感情を揺さぶるものだと理解したように。
「そうか、大事な物なんだねぇ」
ルカの反応を楽しむように、ゆっくりと隣にいた顎髭男へとそれを手渡す。
「抜いてみるといい。業物だよ」
手渡された男は、興味深そうにその剣の柄に手をかけた。
「やめろ……触るな!!」
それでも男はにやにやと笑いながらルカを見ていた。押さえつけられたまま身動き一つとれない少年が何を叫んでいても、止められるはずはないのだ。
だが、顎髭男は気付いていなかった。
ルカを押さえつけている二人の男、そしてつい今しがたルカを踏みつけていたレサト。彼らは、自分達の足元のルカを愕然と見下ろしていた。その顔に、先程までの愉悦はない。ルカの気配に、完全に気圧されている。
——殺気だ。
肌をぴりつかせるほどの凄まじい殺気に、敵ではないはずのシュナスでさえも背筋に冷たいものを覚えた。
アグラフがゆっくりと眉間に皺を刻む。その隣に立つ男が、「ヒッ」と小さく声を上げた。
剣を持った顎髭男は柄に力を込める。鞘の中を滑る小さな音とともに、剣が抜けた。
「なんだこりゃ」
細身で片刃、緩く反り返った刀身は、他に見たことがない。鈍銀に淡く光る。薄く研ぎ澄まされた刃、その波文様。
どこか禍々しいまでの、美しくも武骨な剣。
こんな状況で、それでもシュナスは思った。なんとはなしに。
ルカみたいだ、と。
「これが業物? 見たことねぇぞこんな剣」
「大昔に存在した島国で作られてたって言われる剣……『刀』ってやつだよ。切れ味なら、試してみればいい」
じっくりと刀身を見る顎髭男に、マスクの男がシュナスとテティレイシアを指差した。
ルカが息を飲む。
「ふざ……けるな!!!」
ルカが叫んだ。
身体を強張らせたテティレイシアを、シュナスは慌ててその背に隠す。
顎髭男が鞘を捨て両手で剣を持つ。そのままゆっくりと、シュナスに近付いた。その顔は新しい玩具を手に入れた子供のようだ。忌々しいぐらいに、期待に顔を輝かせている。
こいつらは試し斬りなんかで躊躇いなく人を殺せる——。それがわかったから、シュナスは奥歯を噛み締めた。
そんなことのために自分達は斬られるのか。そんなことのために。
震える手を、ぎゅうと握り締めた。こんなやつらの思い通りに殺されるなどまっぴらだ。目の前に立った男を、精一杯睨みつけた。
何か、どうにかして、何か——!
その瞬間。ぞくり、と身体の芯が震えた。
先程の比ではない。まるで周囲の空気に押しつぶされるかのような感覚。どっと冷や汗が噴き出た。
シュナスは顎髭男の背後を見る。ルカを押さえ付けている二人の男が視界に入った。
彼等は真っ青になって、下を見ている。その顔に浮かぶのは、恐怖だ。
あたかも自分達が触れている物が、恐ろしい何かのように。言葉を失い、目を見開いて、ただ見ている。
もう何もできないはずの、手の下の少年——ルカを。
男達の手が震え、その力が僅かに緩んだのであろうその瞬間。黒い塊が飛び出した。
傷だらけで、全身に赤黒い汚れを付けたまま。後ろ手に自由を奪う、手枷を付けたまま。
武器もなく、ただその身一つで。
シュナスに向かって剣を振りかざした顎髭男の、その喉元へ——食らいついた。獣のように。
男が痛みに顔を歪める。漢の手から離れた剣がシュナスの目の前で弧を描き、時間の流れが止まったかのように、ゆっくりと落ちていく。
剣がガシャン、という音を立てて地面に落ちる。舞う砂煙と同時に、赤い雨がシュナスに降り注いだ。
顔に、服に、いくつも紅の花が咲く。
男の身体が崩れ落ちる。
その横に、黒い獣が静かに着地した。
口の中のものを、勢いよく吐き捨てる。
少年がゆっくりと顔を上げた。
光のない銀の双眸は、まるで剣の刀身のような——。
全員が、言葉を失った。
無意識であろう、完全に気圧された男達が半歩後退る。
シュナスの肌が粟立った。それでも目が離せない。真っ赤に染まった口元を、拭うことも許されない少年から。
ただ一人、マスクの男が「ヒヒヒッ」と笑った。
「これだ! これが『氷狼』だよ!」
男の叫びに、アグラフが震えを含んだ声で独り言ちた。「……狂っている」と。どちらに向けた言葉なのかはわからなかった。
彼はそのまま少年に向かって剣を構える。
「これは危険だ。……斬る」
マスクの男が答える。他人事のように。
「いいよ。斬ってみるといい。そうしないと——全員殺られてしまうからね」
できるものならやってみろと言わんばかりの口調だった。
アグラフが眉を顰めて斬りかかり、それを少年が難なく躱す。背後を狙うレサトの一撃もルカの身体をかすりすらしない。斬りかかる男達の攻撃全てを、少年の小柄な身体はひらひらと舞うように躱し続けた。
「このガキ、ちょこまかと……!」
男が大きく振りかぶったその瞬間、少年の姿が消えた——ように見えた。
男の剣が虚しく宙を斬る。シュナスの目には捉えられないほどの速さで少年が後ろに回り込み、空中で身体を捻った。両足で男の頭を挟み、そのままぐるんと横に回転させる。地面から突き出した鋭い石壁の破片に、吸い込まれるかのように男の側頭部がぶつかる。
何かが潰れる鈍い音が聞こえた。そのまま男の身体が力を失い、地面に崩れ落ちる。
音も立てず少年が着地した。倒れた男のすぐ前で、身を屈める。
まるで黒い獣が、獲物を見据えるかのようだった。
男達は——戦慄した。
「こいつ……っ! もう駄目だ、殺す!」
レサトが叫んだ。騎士二人が剣を握り直す。
今度こそ本気でルカを斬るつもりだ。
シュナスは息を飲んだ。
少年がアグラフに飛び掛かる。その背後に回ったレサトが、短く詠唱する。魔素が勢いよくその掌に集まる。
「ルカ!!」
シュナスは飛び出していた。
後先なんて考えていなかった。レサトがルカに向けて掌をかざし、魔術を放つその瞬間。シュナスは、その太腿に、思い切り噛みついた。
レサトが痛みに叫ぶ。軌道のずれた魔術の針が、それに気付いて避けた少年の左腕を浅く裂いた。
「くそっ、貴様!!」
レサトが足に噛り付いたままのシュナスの髪を鷲掴みにした。
思わずシュナスの口の力が緩み、引き剥がされる。そのまま力任せに地面に転がされ、そこに騎士が剣を突き立てた。
「うっ……!」
シュナスの左肩を、騎士の剣が貫いた。
テティレイシアの悲鳴が聞こえる。剣を乱暴に引き抜かれ、シュナスは痛みに歯を食いしばった。
もう一度剣が振り上げられた。
シュナスはそれをただ見上げる。剣が振り下ろされる光景が、妙にハッキリと見えた。
そこに、黒い影が飛び込んだ。
察知したレサトがシュナスから離れる。その一瞬前まで騎士の頭があった空間を、鋭い回し蹴りが切り裂いた。
土埃を巻き上げながら着地した少年を見る。体勢を立て直すレサトを、肩で大きく息をしながら睨みつけていた。
「……下がれ!」
ルカが叫ぶ。
少しふらつきながらも、シュナスと男達の間に立ちはだかる。
シュナスは彼のその後ろ姿を見た。ちらりと後ろに視線を送る彼の目。
銀色に光る、その瞳。
いつもの、ルカだった。
——戻った。いつもの、ルカに。
絶望的な状況なのに、笑みが込み上げる。
こちらを見て怪訝な顔をするルカに、肩の傷に視線を送って「……お揃い、だねぇ」と口角を上げた。
「言ってる場合か!」
ルカから怒鳴りつけられ、シュナスはふふ、と笑った。




