第35話 気配
「助けを呼ぼう、すぐに! 何か、書くものは……」
テティレイシアが「ハンカチが」と答え、シュナスは頷く。後ろを向いて彼女のスカートのポケットに、手を差し入れた。
「ごめんっ……」
王子たるもの、女性のスカートのポケットに手を突っ込むなど無作法にも程があるけれど。そんなことを言っている場合ではない。恥ずかしさと後ろめたい気持ちを押し殺し、目をぎゅっと閉じてポケットの中を探る。指先に触れたハンカチを握り締め、引き抜いたところで自分の手から血が出ていたことに気付いた。そういえば、捕まった時にナイフの刃を思い切り掴んだ。その時の傷がまだ完全には乾いていなかったらしい。
手枷が許す限界まで身体の横に手を伸ばす。テティレイシアと協力してハンカチの端を持ち、床に広げた。
「……えーと、ここへの案内は精霊がしてくれるから……ねぇルカ! 『つかまった、たすけて』でいいかな!? 名前も必要かな!?」
ルカが心底どうでもよさそうに「好きにしろ」と答える。シュナスは「わかった!」と大きく頷き、血の付いた指をハンカチに乗せた。
意識すると不思議なもので、掌がズキズキと痛み始める。それでも手を強く握って血を滲ませ、それで字を書いた。綺麗に書けなんかしなかったけれど、何とか読めないことはない……だろう。
シュナスは小さな声で詠唱を始める。風がふわりと巻き起こり、編んだ髪を尻尾のように揺らした。掌の上に現れた白い小鳥は翼を広げ、シュナスの肩に降り立つ。
「頼んだよ、兄上は今ちょっと……動けないけど……! 義姉上に報せれば……!」
一瞬脳裏によぎる、レグルスの苦しそうな姿に胸がぎゅうっと痛んだ。それでも、こんなことになるなら最初からセラフィーナやゾズマに相談していれば良かったのだ。急がなければ間に合わないかもしれないと、そればかりに気が焦っていた。その結果がこのザマだ。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
兄は今、頼れない。頼りたくない。それでも他にどうしようもなかった。
小鳥はその小さな嘴に血文字の書かれたハンカチを銜え、シュナスの肩を飛び立とうとした。
その時。
「何をしてる!!」
「くそっ、魔術が使えるなんて聞いてないぞ!」
扉が勢いよく開け放たれ、男が二人飛び込んできた。
(しまった、魔素の流れを読めるやつがいた……!?)
シュナスは男たちの方を振り返る。咄嗟に立ち上がり、背後にテティレイシアを庇う。
その瞬間、男たちが片腕で目から下を隠した。
「……!?」
シュナスはハッとする。薄暗い中でもはっきりと見えたその顔には、見覚えがあった。
——近衛騎士。
若い金髪の騎士はすぐに問題を起こすと噂のある男だ。名は確か——レサトと呼ばれていたはずだ。もう一人の黒髪の騎士は古参の騎士、アグラフ・ディアス。アシュフォードに連れられているところを何度も見たことがある。
「……どういうことだ、何故ここにシュナス殿下がいる!?」
「そんな馬鹿な……」
その声に聞き覚えがあった。間違いない。あの時、城で話していた二人だ。
シュナスは二人を睨みつけるように見た。視線の先で、騎士達は驚きの余り固まっている。
ほんの僅かな沈黙の後、ルカが叫んだ。
「飛ばせ! 今!」
我に返ったシュナスは、小鳥に合図を送った。小鳥は今度こそシュナスの肩を蹴って大きく翼を広げ、空に舞う。
「行かせるな、止めろ!!」
ハッとしたアグラフが叫ぶ。レサトが短く詠唱する。
「『風針』!!」
風を切る音。
「やめろ!!」
シュナスの叫びが、星空に響き渡った。
魔力の針が、小鳥の純白の翼を貫く。
ピイッ、と小さな鳴き声が聞こえた。白い魔素の欠片をまるで羽根のように散らしながら、それでも小鳥はよろよろと翼をはためかせる。
「くそっ、もう一度……」
「やめろー!!」
レサトが魔力を籠めようと手を翳した瞬間、そこにシュナスが飛び込んだ。
全身の体重をかけて肩から体当たりした。レサトは衝撃でよろめきつつも、シュナスの腕を掴んでそのまま引き倒す。
「うっ……!」
「シュナス様!」
テティレイシアの悲痛な叫び声の中、床に打ち付けられたシュナスの背を踏みつけて、レサトが剣を抜いた。
アグラフが慌てて「よせ!」と叫ぶが、レサトは気に留める様子もない。脚の下のシュナスに向けて剣を突き立てようと、肘を引いた。
「王子を! 殺すのか!!」
ルカの声が響く。
騎士達がルカを振り返った。
視線の先で、ルカは壁で背を支えて立ち上がっていた。鋭い目で騎士たちを睨みつける。
「あんたらに……王族を殺せる度胸があるとは思えないが?」
シュナスの背を踏みつけていたレサトは、ふんと鼻を鳴らすとその足を下ろした。
そのままゆっくりとルカのもとへと歩み寄り、傷だらけの彼を見下ろす。
「ボロボロのくせに随分と威勢のいいガキだ」
「……また『ガキ』か。それしか言えないのかあんたらは」
顔色ひとつ変えずにルカが言う。
テティレイシアが小さく息を飲んだ。
騎士は眉を顰めると、緩やかな動作で片足を上げる。そしてルカの首を石壁へと押し付けるようにして、勢いよく踏みつけた。
ルカの顔が苦痛に歪む。反射的に騎士の足を掴もうとしたルカの両手の動きすらも、手枷が遮った。
シュナスは慌てて上半身を起こし、声を振り絞って叫んだ。
「やめろ! 王を守るべき近衛騎士が、こんなことをして許されると思うのか!!」
騎士たちはハッとしたようにシュナスを見る。
「城でお前たちの会話を聞いた。テティレイシア嬢を殺すつもりなのだと! だから来たんだ、お前たちを止めるために!」
シュナスは身体を起こしながら必死に叫んだ。レサトがこちらを振り返り、舌打ちする。
「くそっ、あいつがあんなところで待てなんて言うから……!」
シュナスの横に立っていたアグラフが、諦めたように顔を隠していた腕をゆっくりと下ろした。
「……これでもう、我らに後はなくなった。許されるかどうかなど、そんなもの最初から——」
苦しげに笑う。騎士はそのまま振り返った。
「行くぞ。挑発に乗るな。それ以上は殺してしまう」
そう言って扉へ向かう。
ルカの首を壁に押し付けていたレサトはアグラフの言葉にふん、と鼻を鳴らした。足を下ろすと、少年の身体が崩れ落ちて床に転がる。
ようやく許された呼吸にルカが何度も咳き込み、その度に襲う痛みを堪える。その腹めがけて、騎士の足が思い切り踏み下ろされた。
「ゔっ……!!」
呻き声と共に、ルカが身体を縮める。
それをニヤニヤと笑いながら少しの間見下ろして、騎士は扉へと向かった。
「ルカ!!」
シュナスが転がるように駆け寄る。その背後で、騎士が振り返った。
「殿下。二度はありません。次に魔素の動きが見えたら、そのガキか女、どちらかを殺します」
シュナスが振り返る。睨みつけるその先で、騎士はにやりと笑っていた。
重い音を立てて、ゆっくりと扉が閉まる。シュナスはそれを見届けてから、ルカの方へとまた視線を戻した。
「く……そ……っ、割に……合わない……っ!」
肩で荒く呼吸しながら、それでもルカは強引に身体を起こして背中を壁で支えた。
「お前らを……送り届けたら、追加請求してやるっ……」
涙目になっていたシュナスだが、吹き出さずにはいられなかった。
その背後でテティレイシアが大きく息を吐いて項垂れた。
笑いながら何度も「ごめん」と謝るシュナスを疲れた顔で見ていたルカが、呼吸を整えながら「上手くいったのか」と聞いた。
「……わからない。『鳥』はまだどうにか形を保ってるみたいだけど、あの状態でどこまで飛べるかは……」
途端にしゅんとするシュナスを見て、ルカは一度目を閉じて息を吐いた。
「振り出しだ。別の方法を……考える」
シュナスは表情を引き締めると、大きく頷いた。
落ち込んでいても事態は好転しない。それよりも、誰かと連絡を取られたと思って奴らが急ぐかもしれない。自分たちの——始末を。
シュナスは改めて部屋を見渡す。かなりの広さがある部屋だ。
ルカは座ったまま天井を見上げている。あちこち朽ちかけて落ちてはいるが、それでも相当な高さだった。
「……ここってどこだろう? 随分古い建物みたいだけど」
「古代遺跡の入り口。昔の学者連中が調査の時に使ってた研究施設……だと思う」
意外なことに詳しいルカを、シュナスが少し感心しながら振り返る。その視線に気付いて、ルカは言葉に迷いながら「仕事だ」と答えた。
「……知り合いに、学者がいて……遺跡調査の護衛として、何度か来た」
ルカの顔色は、あまり良くない。呼吸もかなり浅いように見える。
いくら彼が強くても、身体の大きさはまだ少年だ。大人の大きな手足であれだけいたぶられたのだから、当然だろう。シュナスは心配と申し訳なさとで落ちかけた気持ちを、拳をぎゅっと握り締めて無理矢理に奮い起こした。
「では……アルカからは少し距離がありますね。それでわたくしたちをここへ運ぶとき、荷馬車を使ったのですね」
テティレイシアの言葉に、シュナスが頷く。
以前の誘拐事件の時も街外れの館に閉じ込められた。あの場所もアルカの北東側、そのまま街を出ればこの古代遺跡の方角だ。
「あの時も、ここに運ぼうとしてた……のかな」
ルカが「だろうな」とだけ答える。
「なんで古代遺跡……?」
シュナスが首を傾げるが、テティレイシアは答えられない。そのまま二人の視線が、自然とルカに向かう。
「……なんでって……ここなら滅多に人が来ない。閉じ込めておくにも殺すにも、ちょうどいいんだろ」
ルカが「売り飛ばすのにも」と付け加える。シュナスは身体からサッと血の気が引くのを感じた。
「……あいつら、私たちやルカのことも、売り飛ばすって言ってた」
「商品ならもっと丁寧に扱うべきだったな」
ルカがふん、と鼻を鳴らす。
けろりとしたその様子に、シュナスは改めてルカがこれまで見てきた、生きてきた世界が自分とは違うのだと——そう思わざるを得なかった。
隣でテティレイシアが「あの……」と顔を上げる。
「狙ったのはわたくしのはず。わたくしのことも殺さず、その……売り飛ばす、つもりだったのでしょうか?」
テティレイシアの言葉に、シュナスはハッとした。
城で聞いた近衛騎士たちの話では、テティレイシアを殺すよう命令を受けている様子だった。なのに何故、前回の誘拐の時すぐに彼女を……殺してしまわなかったのだろう。
シュナスは思わずごくり、と唾を飲む。
「ルカ、あいつら何なんだと思う?」
シュナスは険しい目つきでルカを見る。ルカは少し考えて、あの誘拐事件の夜のように話し出す。
「最初にいた男四人、あいつらは前回の傭兵崩れの連中と、多分同じ。俺が『仲間を殺った』んだって言ってた。ただ……」
「ただ?」
「……後から来た五人。その中の、フードの男……」
シュナスは城で近衛二人と会話していた黒い外套のフードの男を思い出しながら、黙ってルカの次の言葉を待つ。
ルカは少しの間考えて、それから口を開いた。
「今の二人とは違う、また別の……」
ルカのその言葉に、シュナスは「その男も、騎士?」と返す。
それに違和感があるのだろうと、ルカの目が言っていた。
「いや、騎士じゃない。ただの傭兵崩れとも違う。もっと違う気配の、何か。あれは……」
ルカが、その後に続く言葉を探すように虚空を見つめる。
背筋にぞくりとしたものを感じて、シュナスは身震いした。得体が知れない。ルカにすらわからないなんて、どう考えても普通ではない。
「……何が起こってるんだろう」
シュナスは、ぼそりと呟いた。




