第34話 本当の言葉は
シュナスとテティレイシアは、ルカの傍に並んで座りながら星を見ていた。
男達が部屋を出ていってから一、二時間が経っただろうか。
辺りを見渡せば、ここは朽ちかけた古い建物の一室だった。石造りだが、以前閉じ込められた屋敷とは石の色が違う。きれいな長方形に加工されて積み上げられたものではない、一つ一つ形が違う石を組み合わせて作られている。
広い部屋だが、高い天井は一部が落ちて空が見えていた。夜風が吹き抜け、寄り添うテティレイシアの身体が冷えていた。できる限り身を寄せてみても、彼女を寒さから守る術もない。手枷に遮られ、抱きしめることも、手を握ることすらできなかった。
シュナスは星を眺めながら、それでも必死に考えていた。どうにかしてこの状況を覆さねば、待っているのは恐らく——死だ。
(ここはどこだろう、何故奴らは私たちをすぐに殺さない……? 本当に売り飛ばすつもりなのか……?)
彼らの狙いはテティレイシアの命だ。結果として巻き込まれたのは、自分とルカ。殺すつもりで攫ったはずだ。売り飛ばすとかなんとか言っていたが、きっとあれは何も知らないごろつき共が勝手に言っているだけなのだろう——多分。
どちらにしろまともに生きて戻れるとは思えない。
絶対に、テティレイシアもルカも死なせない。そのために、今は考えなければならない。
精霊を飛ばして助けを求める。
でも、誰に?
兄は今、頼れない。近衛隊も駄目だ。ロザリアがテティレイシアを殺すよう命じたのは、近衛騎士にだ。
ゾズマなら?
ゾズマに直接飛ばせば——でも、近衛騎士たちに「鳥」を見られたら?
兄がこれまで、塔で何をしていたか。それが、サリガンに気付かれてしまうかもしれない。
(飛ばせるのは一度だけ……どうする……!?)
間違うことは許されない。失敗は、死に直結するのだ。何が正しいのかわからない。不安だけが大きくなる。
シュナスは、テティレイシアの横顔にそっと視線を移した。
まだ少し赤い瞼に、もう涙はない。
その菫色の瞳に映る、満天の星空。懐かしい記憶と共に、シュナスの胸が鈍く痛んで、そっと視線を外す。
あの日、星空の下で。兄がいて、セラフィーナがいて。
テティレイシアと一緒なら、何でも乗り越えられる気がしていた。
ずっと、そのままでいられる気がしていた。幸せで、幸せで幸せで——ただ、それだけだった。
結局、自分はあの頃と何も変わっていない。今だって、一度目の誘拐事件の時とまるで一緒だ。思い付くのは助けを呼ぶことだけ。自分自身で何ができるわけでもない。
自分が迂闊に飛び出したりしなければ。自分がもっと強ければ。自分が、レグルスのように立ち回れたなら。
無力だった。どうしようもなく愚かで、どうしようもなくちっぽけな——そんな無力な自分が、心底嫌になる。
シュナスがぎりぎりと奥歯を噛み締めるのを、テティレイシアが見ていた。視線に気付き、シュナスは彼女を見る。
「シュナス様。彼らの狙いは……わたくし、ですね」
テティレイシアの瞳は、怖いくらいに透き通って見える。あれほど泣いていたのに、もう彼女は違うものを見ている。
シュナスの心臓が、大きく脈打った。
「シュナス様には、何があっても生き延びていただかねばなりません。たとえ、わたくしやルカ様を犠牲にしても。それが、王族である貴方の使命」
テティレイシアの瞳が語るもの。ずっとずっと、シュナスが見て見ぬふりをしてきたもの。
——覚悟だ。
シュナスの頭に、一気に血が上った。
「テティ……違う。それは! 違うっ!」
シュナスは叫んでいた。
テティレイシアに向かって声を荒げたことなど、これまで一度もない。ずっと彼女の理想の王子になりたかった。そのために、必死に努力してきたのに。
「そんなの……違う。私は……!」
テティレイシアは、驚きもしない。ただじっと、シュナスを見つめていた。
「……わたくしがどうしてあの場にいたのか、もうお気付きでしょう?」
テティレイシアが少し俯きがちに言う。そして「わたくしは」と続けようとしたところで、シュナスがそれを遮った。
「あのさっ、テティ! なんだか懐かしくなるよね! 星がさ、その……っ」
自分の声が震えていることも、めちゃくちゃなことを言っていることも。彼女が何を言っているのかも、全てわかっていた。
彼女は、あんな時間にあの場所で、たった一人で。少し大きな鞄を持っていたから。
責任感の強い彼女だから。こんな日が来たらどうしようと、考えたこともあったから。
でも、聞きたくなかった。彼女の口から——彼女が自分の前から姿を消すなど。
そんなこと、聞きたくもなかった。
テティレイシアは少しの間をおいて、静かに口を開く。
菫色の瞳に、強い意志を宿して。
「……貴方は、とてもお優しい方です。きっと、他の誰よりも。わたくしは今までとても幸せでした。貴方に出会えて」
テティレイシアが、微笑む。
「貴方に、恋をして」
その美しさに、決意に、シュナスは思わず息を飲んだ。
テティレイシアはもう覚悟を決めているのだ。自らの命を捨てでも、シュナスを生かすことを。
ここで、別れることを。
これが、最後だと。
「だっ……大丈夫、テティ。必ず助けが来る。私が呼ぶから、『鳥』を使って! だからっ……」
慌てて口を動かしても、テティレイシアの表情は変わらない。
違う。そんなことを伝えたいんじゃない。本当に伝えたいことは、本当は——!
それでも言葉が出てこない。シュナスはもう気付いていた。
言葉が出ないのではない、自分の中にその言葉がないのだ。
今まで見ないふりをしていたことが。気付かないふりをしてきたことが。全て、今に繋がっている。
わかっていたのに。本当は、気付いていたのに。
テティレイシアの指先が、あの時あんなに冷たかったこと。今だって——震えていることに。
それでも彼女は、いつだって笑顔だった。
テティレイシアが、誰かを頼らねば生きていけないことを。そしてきっと今も、自分が招いてしまったこの状況を。
これまでだってずっとずっと、自分を責めていたことを知っていた。
なのに、本気で向き合ってこなかった。向き合おうともしなかった。
どうしていいかわからなかったから。踏み込んで、彼女を傷つけるのが怖かった。
——違う。彼女が身を引こうとするのが、怖かった。引き留められるだけのものが、自分には何もなかったから。
怖かったんだ。何もできない無力な自分を、認めてしまうことが。
彼女にそれを、知られてしまうのが。
レグルスが何とかしてくれると、そう思っていなかったと言えるか——?
どこかで兄に任せておけばと、そう考えていたのではないか?
いつかは守れるようになると思っていた。大人になれば、煩わしいこと、悪意の手、全てのことから彼女を守れるようになると。
でも違う。大人になってからでは遅いんだ。
今。
——今なんだ。
剣術だけではない。それだけでは足りない。全てが、足りていない。
湧き上がってきたのは怒りだ。ルカを痛めつけた男たちへの、その男たちにテティレイシアを殺すよう命じた、ロザリアへの。
そして、何よりも。無力で迂闊な、どうしようもなく愚かで幼い、自分自身への。
逃げていた。ずっと、逃げ続けていただけだ。
なのに、彼女に「待っていて」と——そう言い続けた。
なんて残酷だったのだろう。覚悟なんて、何もできていなかったのに——!!
(あぁ、そうか……テティは……わかってたんだ、全部——)
守るからと一方的に約束したあの日。
孤児院で、彼女の手を握って言ったこと。
あの時彼女は何も答えなかった。返事をくれなかった。
わかっていたんだ。シュナスが本当の覚悟なんて、何一つ——できていないことを。
「シュナス様。わたくしが絶対に隙を作ります。ですからどうか、わたくしたちを置いて……。シュナス様お一人でなら、逃げられるでしょう?」
「駄目だ……テティ、私は……っ!」
言葉などない。何も浮かばない。それでも伝えなければ。
今、この場で。
この場だけの嘘でもいい、彼女を止められるなら何でもいい。
何か、何か——。
シュナスの目から、涙が溢れるその瞬間。
「痴話喧嘩なら向こうで……やってくれ……」
二人は驚いて、背後を振り返る。
「ルカっ!!」
シュナスは飛びつくようにルカに向き直った。
目線だけをシュナスに送ったルカは、眉間に皺を寄せて「うるさい」と一言。
「良かった、このまま死んじゃったらどうしようかと……! 大丈夫!?」
シュナスの言葉に、ルカは小さく溜息をつく。
「お前は、これが大丈夫に見えるのか……?」
「あっ、いや、そう……だよね、ごめん……」
しゅんと肩を落とすシュナスを見上げて、ルカがふっ、と小さく息を漏らした。顔を上げてルカを見たシュナスは、彼の口角が少し——ほんの僅かだけ、上がっていることに気付く。
ルカが笑っているのを見たのは、これが初めてだった。
「お前、本当に子犬みたいだな」
そう言いながら、ルカは身体を起こす。
その瞬間顔を顰める彼に、隣にいたテティレイシアが息を飲んだ。
「……っ……くそ……これだから慣れてない奴は、加減を知らない……」
無理矢理起こした背中を壁に預け、ルカが大きく息を吐いた。乱れた呼吸を整えるように、痛みを堪えるようにして目を閉じる。
「ごめんなさい……わたくしのせいでこんなに酷い怪我を……」
テティレイシアが俯きがちに言う。シュナスは慌ててそれを否定した。
「違う、私のせいだ! 私が勝手に城を抜け出して人質になんてなったから……!」
ルカは目を開けると二人の顔を呆れたような表情で眺め、天を仰いだ。そのまま今日一番大きな溜息をついて、顔を顰める。
「これは俺自身が招いたことだ。……誰のせいとか、そういうことじゃない」
しゃら、と小さく金属音がした。ルカが拳を握り締めたことで、彼の手枷の鎖が立てた音だった。
テティレイシアが顔を上げ、「でも」と食い下がるのをルカは遮った。
「原因は俺の甘さだ。……少なくとも、倒れてる怪我人の傍でやかましく喚く必要は全くない」
「「ごめ……」」
シュナスとテティレイシアの声が重なり、二人は思わず目を合わせた。
少し頬を赤らめるテティレイシアに、シュナスは何だか気が抜けて、ふふ、と苦笑を返した。
それで少しだけ、シュナスは冷静になれた気がした。意を決して口を開く。
「ルカ。私は召喚術で誰かと連絡が取れる。一度だけだけど。どうにかして、助けを呼ぶことができれば……」
何やら思案していたらしいルカが、一瞬目を丸くした。それからほんの少しだけ、目を細める。
「……ともかく、お前らが揉めてた話」
ルカは、部屋を見渡した。
「全員助かれば、何も問題はないってことだ」
その目が、鋭く光を放つ。
空に浮かぶ細い月と、良く似ていた。




