第32話 亡国の令嬢
孤児院の明かりが消える。
子供達は各々が自分の寝台に潜り込み、穏やかに眠りについた。
早い消灯時間も、日々繰り返せば習慣となるものだ。テティレイシアは隣の寝台を横目で確認する。あっという間に寝息を立て始めたエララの様子に、ほうと小さく息を吐いた。
この院へ来て二年と少し。見上げる天井は、もうすっかり見慣れてしまった。
エルド帝国とルブルム国の戦いが始まる、その直前。父アルドリア辺境伯が子供達を逃がしたのは、まさに間一髪だった。
せめて子供達だけでも助けて欲しい——辺境伯のその願いをレグルスが叶えてくれるかどうかは、わからなかった。
かつて個人的な親交があったとはいえ、対帝戦争では敵対してしまった隣国の王太子。だが、レグルスはそれに応えてくれた。
きっとレグルスも相当な無理を通したに違いない。
子供達を救出する為に極秘で使者を送り、テティレイシアやイオ達を無事にアルカへと迎え入れ——この孤児院も、身を隠す為に用意してくれたらしい。
そのおかげでテティレイシア達は生き延び、シュナスに再会することができた。
ルブルムの、国の存続と誇りを賭けた最後の戦い。その中で辺境伯軍は先頭に立ち、敵を迎え撃ったという。果敢に戦い、勢力で勝る帝国軍の南下を食い止めた。だが圧倒的な物量の前にはそれも時間稼ぎに過ぎないと——父も、よくわかっていたのだろうと思う。
わかっていながら戦場に身を投じ、最期まで戦い抜いた。テティレイシアにとってそんな父は誇りだった。
それでも、どうしても考えてしまう。
生きていてくれたら。生きて、抱きしめてくれたならと。
父は、いつもテティレイシアの身を案じていた。
早くに母を亡くした娘が寂しい思いをしないようにと、使用人の子供達と積極的に交流させてくれた。後妻も取らず、忙しい仕事の合間を縫っては一緒の時間を作ってくれた。
シュナスとの婚約の話が浮上した時、父はどこか寂しそうな、少し複雑な顔をしていた。それでもシュナスと会える時間を増やす為、頻繁にアルカへと同行し見守ってくれていた。
普段切れ者として名高かった彼も、テティレイシアの前では娘の幸せを願うだけの——ただの優しい父親だった。
別れの日。
父は笑顔だった。
シュナスとレグルスを頼れ、と。
ここまで来ても国や王への忠義を捨てることのできない己を責めるように、何度も「すまない」と。
そして「どうか、幸せに」と——。
テティレイシアは零れ落ちた涙に、慌てて瞼をシーツへと押し付けた。漏れ出そうになる嗚咽を必死に堪え、ゆっくりと身体を起こす。
なるべく音を立てないように、足を下ろした。ひんやりと冷たい床の感触が、爪先に触れる。
寝台の下に隠してあった荷物をゆっくりと引き出す。手早く着替えて、脱いだ寝間着を掛け布の中に隠した。
肩に掛けた鞄から一通の手紙を取り出すと、寝台の上に置く。
眠るエララの横顔をじっと見つめた。唇を小さく動かし、別れを告げた。
誘拐事件の後、孤児院の世話役が二人増えた。辺境伯軍の軍団長として騎士達をまとめていた父や、その部下たちと接することの多かったテティレイシアにはわかる。彼らは恐らく世話役に扮した守備隊の騎士だ。
事件を受けて、テティレイシアを護る為にレグルスが手配してくれたのだろう。本来の任務とは違う孤児院の仕事にも、騎士達は笑顔で子供達と接してくれている。
彼らが騎士であることを隠しているのは、きっとレグルスの心遣いだろう。テティレイシアが責任を感じないようにと考えてくれているのだ。
だが、だからこそテティレイシアは気付いてしまった。誘拐犯が狙ったのは、自分かもしれないということに。
シュナスではない、自分の可能性がある。だからこそ、テティレイシアを護る為に騎士達が送り込まれたのだろう。
今は亡きルブルムの亡霊、それが自分だ。国に殉ずるべき家の娘として生まれながら、のうのうと今まで生き延びた。
それを誰かに気付かれたのだとしたら。ラディアで、自分は敵国の人間だ。テティレイシアの生を望まぬ者がいたとしても何ら不思議ではない。
自分がいれば、いつか孤児院の仲間達やクロエに迷惑がかかる。それはきっと、レグルスやシュナスにも。
テティレイシアはこの孤児院から——いや、アルカから姿を消そうと決めた。
ここ数日、何やら騎士達が外を警戒していた。怪しい人物が辺りをウロウロしている、という騎士たちの会話も聞いた。
テティレイシアを狙う者たちが孤児院の様子を伺っていたのかもしれない。子供たちにも決して庭から外に出ないように、とクロエから話があった。
その人物が、数日前から姿を見せなくなったらしい。
騎士が常駐していることに気付いて諦めたのか、それとも誰かが排除したのか——そこまではわからなかったが、新たに誰かがここを狙う前に姿を消すには絶好の機会だと思った。
夜のうちにそっとここから抜け出して、他の街へ向かう朝一番の馬車に乗り込むつもりだった。遠く離れて身分を隠してしまえば、きっと追っ手も探せないだろう。
仕事さえ選ばなければ、辺境伯令嬢だった自分でも何かできることはあるはずだ。最低限食べていければそれでいい。どこか別の場所で、誰も自分を知らない土地で、ひっそりと生きていければそれでいい。
——父の最後の願いは、叶えられないかも知れないけれど。
騎士達が交代で見張っている玄関を通ることはできない。テティレイシアは靴を手に持ち、暗い廊下を裸足のまま歩いた。玄関とは反対側にある廊下の突き当り、窓の前まで来て、振り返る。
(クロエ院長、皆——ごめんなさい、今までありがとうございました……)
深くお辞儀をして、テティレイシアはそっと閂を外し、窓を開けた。壁をどうにか乗り越え、窓から外に身を躍らせる。
ひゅうと吹いた外の冷たい風が、テティレイシアの長い栗色の髪を揺らした。なるべく音を立てぬよう、外から静かに窓を閉めて、小さく息を吐く。
ふと可笑しさが込み上げてきて、テティレイシアは少しだけ口角を上げた。
(ふふ、夜中に窓から逃げ出すなんて……まるでシュナス様みたい)
心の中でそう呟いた瞬間、胸の奥がズキンと痛んだ。
きっとテティレイシアがいなくなったことを知ったら、彼は悲しむだろう。必死に探すかもしれない。だから、その前にできる限り遠くへ行かねばならない。
彼は落ち込むだろうか。泣いてしまうだろうか。本当は泣き虫なのに、一生懸命それを隠して強くあろうとする、あの心優しい王子様は。
シュナスは知らないのだ。あの戦乱の中で、どれ程心の支えとなってくれていたのかを。守ろうと必死になってくれる姿を、どれ程頼もしく思っているのかを。
——初めて会った時、彼の笑顔にどれ程惹かれたのかを。
きっと、うまく伝わっていない。伝えられていなかった。けれど、それでいい。
そのほうがいい。
手紙はクロエに宛てた。イオ達に元気でと言伝を、レグルスには感謝を。
シュナスには、何も書かなかった。
このまま、自分を忘れて欲しい。忘れるべきなのだ。
シュナスには第二王子として国に貢献する義務がある。その隣に立つ資格は、もう自分にはない。
いつか、他の誰かと幸せになって欲しい。自分のことなどすっかり忘れて、笑顔で過ごしてほしい。足枷になどなりたくなかった。
あの透き通る水色の瞳に、哀しみは似合わないから。
テティレイシアは孤児院の木製の門をそっと開き、隙間から滑り込むようにして外に出た。いつの間にか溢れていた涙を、自分にしては乱暴に服の袖で拭った。
既に自分は辺境伯令嬢ではない。ただの一人の少女として歩いていく。
(これ以上、誰にも迷惑をかけない……)
そう決意して、テティレイシアは道を進んだ。
細い路地を歩き、角を曲がろうとした——その時だった。
「……え?」
目の前に、男が一人立ち塞がった。
驚いたテティレイシアが見上げるより早く、頭上から声が降ってきた。
「よーぉ、お嬢さん」
知らない男の声。
嘲笑うかのような、そんな口調だった。
恐る恐る見上げる。男の顔は、布が巻き付けられていた。
「あ……っ」
テティレイシアの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
シュナスと共に攫われて、閉じ込められた――あの日。その男たちと、一緒だ。布に隠れた隙間から、ぎょろりと歪んだ目だけが覗く。
全身から一気に血の気が引く。
後退りするが、足が竦んで上手く動けない。それでも振り向いて、元来た道を戻ろうと足を無理矢理動かした。
だが、いつの間にかそこにも男が立っていた。
「ざぁんねん、逃がさねぇよ」
愉悦に満ちた目が、テティレイシアを見下ろす。
左右の路地からもう二人、同じように顔を隠した男たちが歩み出る。
テティレイシアは、完全に囲まれていた。
「ちょうどこれからアンタに会いにいくとこだったんだぜぇ? 騎士共がいるって聞いてこりゃあ骨が折れると思ってたが、まさか自分から出てきてくれるとはなァ」
背後から、男の声がした。
テティレイシアは振り向くこともできなかった。震える唇からは、悲鳴さえも上がらない。
冷たくなった指先で、ただひたすらに鞄の肩紐を握り締める。
じりじりと距離を詰めてくる男たちの手が、テティレイシアに伸びる。
(シュナス様――!)
テティレイシアはぎゅっと目を瞑り、心の中でシュナスを呼んだ。
「…………?」
捕まる——と思って身構えたテティレイシアに、男たちの手が触れることはなかった。
どしゃっと重みのある何かが地面に落ちる音。恐る恐る目を開いた。
テティレイシアの瞳に映ったのは、茫然と立つ正面の男。男は、テティレイシアの左側を見て固まっていた。テティレイシアは、ゆっくりとそちらに視線を送った。
男が一人、倒れている。
その後ろに、黒い塊が見えた。暗がりの中で、ゆっくりとそれは立ち上がる。
顔を上げ、光るのは銀の双眸。
「……ル…………」
無意識に彼の名を呼ぼうとして、テティレイシアの真っ青な唇が微かに動いた。
その瞬間、そちらから勢いよく腕を引かれた。
「なっ……んだ、てめぇ!」
我に返った男が叫ぶ。
「……こうなると思った」
ぼそりと、ルカが呟いた。
彼は地面へと座り込んだテティレイシアに背を向けて、男たちの前に立ち塞がる。
「邪魔してんじゃねえぞ、小僧!」
男たちが、腰の剣を抜く。
テティレイシアはそれに全く動じる様子のないルカの、その背中をただ茫然と見上げていた。
「……こいつに手を出すと、子犬に噛まれるぞ」
ルカの言葉に男たちが「あぁん!?」と声を返す。
「何わけのわかんねぇこと言ってんだ、そこをどけ! どかねぇとガキでも斬るぞ!」
男たちの剣を持つ手に、力が籠る。
ルカは背中の剣の柄に手をかけた。鞘ごと背中から剣を下ろし、目の前で横に持つ。
「……少し貰い過ぎた。もうひと働きさせてもらう」
そのまま、ルカが剣を抜き放った。




