第30話 遠ざかる音
シュナスとセラフィーナが連れ立ってレグルスのもとへやってきたのは、朝食の時間を終えて少し経った頃だった。
「……お前。ちゃんと休んだか?」
セラフィーナが呆れたように言う。
「朝の挨拶がそれか?」
レグルスが苦笑しながらそう返す。セラフィーナがそう言うのも無理はない。レグルスの目の前の小さな机の上は、すでに資料や報告書で埋め尽くされていた。
「お前がそんなだと、二人も休めないだろう」
セラフィーナが片手を腰に当て、レグルスの横で必死に書類を整理するミンタカを見る。その隣ではリゲルが地図を広げながら難しい顔をしていた。ミンタカはセラフィーナの言葉に少し困ったように笑いながら、隣に立つリゲルと一瞬目線を合わせた。リゲルは涼しい顔で視線をそらす。
その二人の様子に、セラフィーナは一瞬怪訝な表情をした。
「ルカがくれた情報も含めて色々と精査したくてな。……言っただろう、忙しいくらいの方が俺には合っていると」
溜息をつくセラフィーナの横で、シュナスが不機嫌そうにしているのに気付く。腕を組んで、こちらを睨むように不満気な顔をしている。
「……どうした」
見当は付いているが、一応そう聞いてみる。
シュナスは待ってましたとばかりに勢いよく口を開いた。
「ルカが! 来ていたそうではないですか!」
予想通りの言葉が返ってきて、レグルスは思わず込み上げてくる笑い声を喉の奥でどうにか留めた。
「どうして私を呼んでくれなかったのですか、兄上!」
シュナスの元気な声は、まるで子犬がキャンキャンと吠えているようだ。レグルスの机の周りを飛び跳ねるように抗議する弟の姿に、昨夜のルカの言葉を思い出しながらレグルスは苦笑する。
「俺は引き留めたぞ。文句があるならルカに言え」
「会えないのにどうやって文句を言えばいいんですか!」
セラフィーナがくすりと笑う中、ひとしきり文句を言い終えたシュナスが唇を尖らせた。
「あーぁ、今度ルカに会えたら聞いてみたいことがあったのになぁ……」
「ほう? 何を聞くつもりだ?」
「……兄上には秘密ですっ!」
シュナスがぷいっと横を向く。それにはセラフィーナが声を上げて笑った。
扉を叩く音が聞こえ、リゲルが向かう。訪れてきたのはゾズマだった。
「殿下、失礼いたします」
ゾズマは部屋に入るなり敬礼する。そのまま手に持っていた書類をレグルスの前に差し出す。
「昨夜遅く、守備隊の騎士より報告がありまして…………殿下?」
ゾズマが怪訝な顔をしてレグルスを見ていた。レグルスも思わず眉を寄せ、視線を返す。
「……殿下。あまりお顔の色が優れぬようですが」
レグルスが口を開く前に、窓際に立っていたセラフィーナがゾズマの方を向く。
「そうだろう? お前からも言ってやってくれ、ゾズマ。もっとしっかり寝ろと」
「大丈夫だと言っているだろう。急ぎやることがある、そちらが優先だ」
レグルスは少し困った表情でセラフィーナを見る。彼女は呆れたように「またそれだ」と両手を腰に当てた。全員の視線が彼女に集まる。レグルスは立ち上がり、ゾズマの持つ書類を受け取ろうと手を伸ばした。
「……殿下!!」
自分の身体がふらついたことに、気付かなかった。
ガタン、と響いた大きな音。椅子が倒れた音だと理解するより早く、ゾズマの太い腕に身体を支えられていた。
「レグルス!?」
セラフィーナが駆け寄ってくる。それを手で制し、「大丈夫」と言おうとしたその瞬間。
突然、突き刺すような胸の痛みがレグルスを襲った。
「ぐ……」
代わりに口から漏れたのは呻き声だった。
ミンタカの手にあった書類がバサバサと音を立てて床に散らばった。
支えられながら床に膝をつき、身体を折る。
呼吸がまともにできない。奥歯を噛み締めて堪えようとするも、痛みは和らぐどころか次第に強くなる。レグルスは服の胸元を握り締めた。
「レグルス……レグルス!!」
セラフィーナの手が、腕に触れる。応えなければ、そう思うが、声は出ない。
「侍医を! ミンタカ、侍医を呼べ!」
ゾズマの声に、レグルスは彼の腕を思い切り掴んだ。
「駄目だ……呼ぶな……っ」
絞り出した声に、セラフィーナが肩を揺らす。
「言ってる場合か! いい、ミンタカ呼んでくれ!」
戸惑いながらも「は、はいっ!」と答えて、ミンタカが扉へ走る。
苦痛に歪んだ視界でその背中を追う。その中に、シュナスの姿が映り込んだ。
弟は目を見開いたまま固まっていた。真っ青な顔でこちらをただじっと見て、言葉を失っている。
胸の前で握る拳が、震えていた。
「リ……ゲル……! シュナスを……出せ! 見せるなっ……」
それが精一杯だった。
慌ててリゲルがシュナスの肩を掴む。シュナスは動かない。
口の形が、「兄上」と動いた——気がする。
リゲルが、動かないシュナスを無理矢理抱えた。肩に担がれたまま、シュナスが手を伸ばす。
「兄上!!」
弟の悲痛な声が、やけに遠くから聞こえた。
ゾズマの腕を掴んでいた手が、床に滑り落ちる。そのまま石畳に爪を立てる。痛みは、何一つ消えない。
セラフィーナが呼んでいる。何度も。
答えなければ、きっと彼女は泣いてしまう。
一声でいい。早く、大丈夫だと伝えなければ。
泣くなと、伝えなければ——。
意識は、そこで途切れた。
*
『……レグルス。レグルス——貴方の髪と目は、私に似たのね』
母の白く華奢な手が、頭を撫でる。翡翠色の瞳を細め、微笑みながらこちらを見ている。色素の薄い金色の髪は、まるで春の日差しのようだ。
『この子はシュナス。貴方の弟よ。大切に、護ってあげてね』
母は胸に抱く赤ん坊を見せながら言う。
弟の瞳は水色だが、少し緑がかっているのは母譲りなのだろうと思う。
小さなレグルスの手を、もっと小さなシュナスの手が握る。
母はそれを見て、幸せそうに微笑んだ。
『この子は剣術が好きかしら。それとも、魔術が得意? どちらでもいいわ。どちらでも、二人は私の宝物』
柔らかな風が、母の髪を揺らす。シュナスはそれに、手を伸ばす。
母の手が、頬に触れる。
母の細い手首には、あの金の腕輪。
——違う。
違う。これはシュナスが十歳の頃、母の誕生日に贈ったものだ。
ざわり、と胸の奥で何かが蠢く。
『お前が、騎士であれば――』
父の声に、ハッと振り返る。
父の手が、剣を持った幼いシュナスの肩に置かれている。父の横に立つのは、サリガンだ。
父を呼ぼうとして、口を開くが声は出ない。
『お前が騎士でさえあれば、こんなことにはならなかったのに』
父が、背後を指差す。
それを、振り向く。
真っ黒な塊が、そこにあった。
手首には、金の腕輪。
黒い手は目の前で崩れる。
伸ばしたレグルスの手が届く前。
腕輪が床に落ちて、跳ねた。
音もなく。
「…………っ……」
すっかり見慣れた、古い石造りの天井。
僅かに首を巡らせると、窓の外は茜色に染まっていた。
「レグルス!」
セラフィーナの声に、そちらへと視線を移す。乱れた呼吸と脈を悟られぬよう、息を殺しながら。
——もう幾度となく見た夢だ。今更慌てる必要もない。レグルスは大きく息を吐いた。
「……気分はどうだ? 痛みは?」
そこに彼女を見つける。少し赤く腫れた瞼に、レグルスは力なくふ、と笑った。
「痛みは、ない。気分……良くは、ないな」
自分の発した声は、想像よりも擦れていた。悲痛な面持ちの彼女を見て、また僅かに笑う。
「……なんて顔をしてる」
その一言に、たちまちセラフィーナの顔が怒りに染まった。
「お前っ! 気付いていたな!?」
一瞬遅れて、わずかに視線が泳いだ。しまったと思ったが、もう遅い。
「やはりそうか……! ここ二日、食事も満足にとっていなかったそうではないか! ずっと不調を隠していたんだろう!?」
「……」
レグルスは苦い顔で、少し離れて立つミンタカを見る。彼はサッと目線をそらした。
「せ、セラフィーナ殿下、レグルス殿下もまだ安静が必要ですから……」
今にも殴りかかりそうな勢いのセラフィーナを、罪悪感からかミンタカがやんわりと止めた。
「……侍医はなんと?」
レグルスの問いに、二人は一瞬言葉に詰まり、顔を見合わせる。「呼んだのだろう?」と重ねて問われ、セラフィーナは小さく溜息をついて俯いた。
そして寝台の横に置かれた椅子へ腰を下ろし、不満げな顔で言った。
「……疲労、だそうだ」
レグルスは一瞬の間を置いて、苦笑した。
「……その答えはお気に召さなかったか?」
ばん、と寝台を叩いてセラフィーナが叫ぶ。
「当たり前だ! 倒れたんだぞ!? あんなに苦しそうにしていたのに、それがただの疲れなどと納得できると思うか!?」
レグルスは「そうか」と一言だけ答え、微かに笑う。
そして、身体を起こそうとした。
「う……っ…………」
猛烈な目眩に襲われ、顔をしかめた。慌ててセラフィーナが肩を支える。彼女の力を借りて上半身を起こすと、ミンタカが背中にクッションを入れてくれた。
深く長い息を吐いて、レグルスは眉を寄せつつもゆっくりと部屋を見渡した。
「……シュナスは」
セラフィーナが少し表情を綻ばせる。困ったような笑みで小さく息を吐いて「リゲルが付いてる」と答えた。
「……早く治して、元気な顔を見せてやれ」
俯きがちに言う彼女に、レグルスは苦笑を返す。
彼女の指先が、シーツを強く握り締めているのに気付いていた。
——だが、すぐに視線をそらす。
「…………」
虚空を睨みつけ、レグルスは思案した。




