第28話 弓張月
「……ロザリア嬢が?」
サリガンはマルフィクへ視線を向ける。彼は小さく「はっ」と応じた。
「かなり取り乱しておいででした。その後はシュナス殿下としばらく庭園でお過ごしになり、少し落ち着かれたようではありますが」
サリガンは「ふん」と鼻で笑い、顎に指を当てる。
「『大輪の薔薇』と名高いあのロザリア嬢が、珍しいこともあるものだ」
皮肉たっぷりの言葉に、細作が少し身を固くする。
その気配を感じ取り、サリガンはまた少し笑った。
「シュナス殿下も、上手くあの暴れ馬を手懐けておられるようではないか」
普段優雅な立ち振る舞いで淑女を装ってはいるが、その実彼女の本性は我儘で傲慢なただの子供だ。普段は表に出さないが、一度癇癪を起こしてしまえば祖父であるアシュフォードですら手に負えない。美しい薔薇には棘があるというが、下手に身分も気位も高いだけに棘などと呼べる生易しいものではないだろう。
そんなロザリアを落ち着かせられるなど、シュナスも幼いながらにして女の扱いに長けているのかもしれない。近頃は一層剣術に励んでいると聞く。ヒュローへ近衛副隊長を派遣した件も含め、まだまだ子供だと思っていた第二王子もそれなりに成長しているようだ。
「例の少年はどうだ」
「は、それが……時折監視の前から消えてはまた姿を現すそうで、実態が掴めておりません。それ以外では傭兵稼業をこなしているようにしか見えませんが……」
ふむ、と少し考えてサリガンはにやりと笑う。
間違いなく監視の目に気付いている。それでいて細作を殺すでもなく、身を隠すでもない。これではまるでわざと見張られているようなものだ。
「囮にでもなったつもりか、それとも本当に関係のないただの傭兵か……」
細作たちもさぞ悔しかろう。マルフィクを筆頭に、彼らは皆それぞれ己の仕事に矜持を持ってサリガンに仕えている。それが第二王子と同じ歳の頃の少年にいいようにあしらわれているのだから、面目が立たないとはこのことだ。
いずれにせよサリガンにとってその少年が興味を引く存在であることに変わりはない。残念なのはいくら気にかかるとはいえ、少年一人に時間を割いているほど暇ではないということだ。若い頃ならば城下に赴いて手合わせの一つでも申し込んだかもしれないが、歳を取るとどうしても背負うものが増え身動きも取りづらくなるというものだ。
「にしてもギルツめ……孫娘一人満足に扱えぬとは、耄碌したものだな」
数多の戦場を共に生き抜いた剣豪、ギルツ・アシュフォードとあろう男も愛する孫娘の前では形無しだ。
可愛さのあまり我儘に育てた結果がこの有様だ。王子の前で騒ぎ立てるような令嬢など、とてもではないが王妃の座に相応しいわけがない。
それでも今までのロザリアならば、そんな失態を犯すはずはなかった。だからこそ気に入らぬ毒の花芽であろうとも、手折らず利用するつもりだったというのに。
——ふと、違和感がよぎる。
「……何かしでかしたか、あの小娘……?」
老練の騎士の瞳が、ギラリと鋭い光を放った。
*
レグルスはぼんやりと星を眺めていた。
春とはいえ時刻はそろそろ日付も変わる頃だ。塔の屋上を吹き抜ける風は冷たい。隣にはセラフィーナが座っている。触れ合う肩の温もりだけが、じんわりと心地よく伝わっていた。
レグルスは手の中にある金の腕輪の、その拉げた輪郭を指でなぞる。細い金色は、漆黒の空に昇り始めたばかりの少し細い半月とよく似た輝きを放っていた。
——母であるアイリーン王妃が亡くなったのは事故だった。
慰問として訪れた治療院での火事に巻き込まれ、多数の患者たちと共に命を落とした。
知らせを聞いたレグルスがその場に駆け付けた時、既に全ては燃え尽きていた。燃え跡から見つかったのは最早人としての形を辛うじて留めるだけの、漆黒の塊だった。
誰が誰とも判別のつかない中、見覚えのある金色の腕輪が残る「手」を見つけた。母がいつも身に付けていたそれは、シュナスが母の誕生日に送ったものだった。
震えながらも思わず触れたレグルスの手の中で、かつて母であったものはボロボロと崩れ落ちた。熱で拉げたその腕輪を、レグルスは今もシュナスへと渡せずにいる。
母の葬儀の日、当時九歳だったシュナスは母の棺に縋って泣いていた。あの日を最後に、弟の涙は見ていない。
焼け焦げた死体など見慣れているはずだった。戦場でそれをいくつも積み上げてきたのは他でもない、己の魔術だったのだから。
放った炎が、喚んだ雷が、いくつも奪った命。泥にまみれ、血を浴びながら、守るためだと言い聞かせて。
そんな自分が母の形見をいつまでも持っていていいはずもない。
いいはずがないのに——それでもレグルスは手の中にその腕輪を握り締めた。
セラフィーナがレグルスの腕に頬を寄せた。
彼女は俯き、それから琥珀の瞳がこちらを見上げる。
レグルスは眉尻を下げ、ほんの少しだけ笑って、それから——ふいと顔を逸らした。
「……覚えているか? セラ。戦後すぐ、俺とアルがあちこち駆けずり回っていた頃」
逃げるように。咄嗟に浮かんだことを、そのまま口に出した。
セラフィーナは一瞬の沈黙の後、それでも口を開いた。
「……あの頃は、本当に忙しくしていたな。アルが気の毒になるぐらいだった」
武官でもないアルニラムが国中を飛び回るレグルスと行動を共にするのは、本当に過酷だっただろう。常に顔色を悪くしながらそれでも愚痴ひとつ言わずに付き従った側近というのは、レグルスにとって何者にも代えがたい存在だ。
「エルド帝国の周辺やルブルムとはその頃も緊張状態が続いていたし、国境近くの村や町の惨状は酷いものだった。……アルがいなければ復興もかなり遅れただろう」
「あれだけ一人で仕事をこなしながら、どの口が言う」
セラフィーナが笑う。レグルスは、少しだけ肩の力を抜いて苦笑した。
「焼き払われた小さな村の窮状に、アルが武官どもに詰め寄ってな……御託はいいからまずは水と食料、医官を寄越せとそれはもう容赦なく理屈で追い込んだ」
「ははは、アルらしいな。いっそ全て任せてしまえば良かったのではないか」
「そう言うが、後で怒り狂う武官どもを説得したのは俺だぞ。あいつはどうも、カッとなると周りが見えなくなる」
「……やはり2人揃っていた方が何事も迅速に進むということか」
ひとしきり笑い合った後、楽しそうに微笑むセラフィーナの横顔に目線だけを送って、レグルスはまた空へと意識を移した。
「ゾズマと初めて会ったのもその村だ。……そうか、もう五年も前か」
独り言ちるように呟き、僅かに嘲笑する。
「どうも俺はあれくらい忙しくしている方が、色々と考え過ぎなくていいらしい。療養など性に合わないものだな」
そう口にしてはみるが、もうレグルスは気付いていた。
あの頃走り回っていたのは、見たくないものから目を背けるためだったのかも知れない、と。
「そもそもレグルスは昔から考え過ぎなんだ。もう少し肩の力を抜いて、気楽に過ごすことも大切だぞ」
「……そういうお前はもう少し考えて行動しろ。あまり無鉄砲なことばかりしていると、見ているこちらの身が持たない」
「おや、私を心配してくれるのか?」
「当たり前だ」
苦笑して、ふとセラフィーナを見る。彼女もまた、じっとこちらを見つめていた。
「……セラ?」
名を呼ぶと、彼女は少し怒ったような顔をした。
レグルスはほんの僅かに目を見開く。
「……お前は。誰よりも心配をかけているのが自分だと、その自覚がない」
レグルスが少し目線を外して「わかっている」と答えると、セラフィーナは膝で歩くように詰め寄り、レグルスは思わず身体を逸らした。
両手を床に付き上半身を支える。
「わかってない! お前っ……どれだけ皆がお前を心配しているか、全然わかってなどいないではないか!」
レグルスの服の胸元を掴んで、セラフィーナが乱暴に引き寄せる。
「シュナスだって! お前を護るために必死だぞ!!」
無意識に、小さく息を吸った。
言葉を失ったまま、レグルスは彼女を見ていた。
怒ったような、哀しいような表情のまま、セラフィーナはゆっくりと俯く。
その場に崩れ落ちるように座り込み、レグルスの服を掴んでいた両手から力が抜けていく。
「……私だって…………」
あまりにも小さな声。胸の奥が、酷く痛んだ。レグルスは思わず眉を寄せる。
彼女の肩へ、無意識に手を伸ばした。
その指先が触れようかという瞬間、レグルスは我に返る。躊躇して、手を止めた。そのまま軽く拳を握り、目を逸らす。
名を呼ぼうとして、それより前に彼女はするりとそこから抜け出した。
レグルスの指先に、彼女の髪の先端が僅かに触れた。
「……戻ろう。ここは冷える」
セラフィーナは振り返り、にこりと微笑んだ。
「これで体調でも崩したら、本当に療養になってしまうぞ」
ふふ、と悪戯っぽく笑った。
レグルスは一度目を閉じ、深く息を吐いた。自嘲気味に、ほんの少しだけ笑う。
「……そうだな」
立ち上がり、先に昇降口へ向かう彼女の後を追おうとした、その瞬間。
ぐにゃり、と視界が揺れた。
セラフィーナの背中が、一瞬歪んで見える。
「…………っ……」
倒れ込むところを、片足を踏み出して耐える。
金属音が鳴った。
手の中にあった金の腕輪が落ち、石畳に当たった音だ。
「……レグルス?」
セラフィーナが振り返る。
レグルスは弧を描いて転がる腕輪を、そっと拾い上げた。
「……いや、何でもない」
レグルスは、そのまま歩き出した。
何事も、なかったかのように。




