第26話 平気ですから
シュナスとセラフィーナは並んで廊下を歩いていた。
シュナスの笑い声が荘厳な廊下に明るく響く。
両脇で控える衛兵たちの敬礼が、彼女の姿に気付き僅かばかり遅れる。何の報せもなく久し振りに訪れたヴァレリア王国の王女を、城で働く者たちは驚きながらも遠巻きに見つめていた。
思わず視線で追ってしまう、抗いようのない引力。それを彼女は持っていた。
琥珀の深い輝きを放つ瞳は優しく細められ、深紅の髪は彼女の動きに合わせてしなやかに揺れる。すらりと伸びた手足、洗練された動作には隙ひとつない。
彼女は、シュナスにとって自慢の義姉だ。
幼い頃から、彼女はいつもレグルスの隣にいた。シュナスは、二人が並ぶ姿を見るのが好きだった。
あの戦争でも、セラフィーナはレグルスと共にあった。それがシュナスにとって、どれほど心強いことだったか。
だが、今の二人の間には距離がある。——そんな気がする。
一見昔と同じ、だが、目に見えない壁のような何かが……あるような気がしてならない。
終戦を迎えてから? それとも、それ以降? わからない。わからないけれど、シュナスはそれがどうしようもなく不安だった。
「アルも不在となれば、レグルスもさぞ不便しているかと思ったが……あの二人の騎士、なかなか頼りになる」
「そうなんです、ミンタカもリゲルも優秀で」
「可哀相に、レグルスに見付かったのが運の尽きだな」
悪戯っぽくふふふ、と笑う。
彼女の笑顔は変わらない。それだけでも、シュナスは胸の奥がじわりと温かくなる。きっと、それはレグルスも同じだろう。
「しかし、随分と用意がいいな」
セラフィーナが言っているのは、彼女がアルカ城に滞在する間の部屋のこと。今まさにシュナスとセラフィーナが向かっている場所だ。
「兄上が『早ければ五日でセラが来る』と」
「……本当に可愛げのない奴だ」
兄の口調を真似たシュナスと、それを聞いて悔しそうなセラフィーナは声を揃えて笑った。
小さな頃一緒に庭園で遊んだこと、テティレイシアと四人で星を見たこと。昔飼っていた小鳥の話や、一緒になってクロエに叱られたことなど、他愛もない会話が続く。
とても、とても穏やかな時間だった。
セラフィーナを一旦王宮の応接室に案内したシュナスは、確認のために一度部屋を出た。
侍従や侍女たちに部屋の準備などの細かい確認を取っていると、近衛騎士の一人が早足で近付いてくる。彼は少し慌てたように敬礼した。
「殿下。ロザリア様が……」
「えっ」
反射的につい声が裏返ってしまったのを、シュナスは慌てて咳払いして取り繕った。
平静を装い、にこりと微笑む。
「そうか、わかった。ロザリア嬢は今どちらに?」
両手を後ろ手で組んで、余裕を醸し出そうとする。
「それが……セラフィーナ殿下のもとへと……」
「えぇっ!?」
今度は取り繕うどころではない声が出た。シュナスは慌てて応接室へと向かう。
扉の前では侍従が心配そうにおろおろしていた。どうやら中で彼女らが言い合い——というより、一方的にロザリアが食ってかかっているようだ。
「シュ……シュナス殿下、いかがいたしましょう」
ロザリアが気性の激しい令嬢だと、この王宮の侍従や侍女たちはよく知っている。シュナスは青い顔で盛大な溜息をつくと、侍従に下がるよう命じた。
一人になったのを確認して、シュナスはそっと扉に手をかける。そこに立っていると、扉越しに中の会話がよく聞こえた。
「ですから、遥々ヴァレリアから何のためにいらしたのかと聞いているのです!」
「言っただろう、ロザリア嬢。我が婚約者殿が療養するというので、心配になって見舞いに来た……それだけだ」
「嘘! 何か企んでいるのでしょう!? わたくしにはわかります!」
「何を企むと言うんだ……後ろめたいことでもあるのか?」
「あっ……ありませんわそんなこと!」
捲し立てるようなロザリアの金切り声と、冷静なセラフィーナの応対。
シュナスは知っている。ロザリアは、セラフィーナが嫌いだ。憎んでいるとすら言ってもいい。
セラフィーナはレグルスが選んだ女性だから。ロザリアを選ばずに。
(ど……どうしよう……)
侍従がおろおろしていた理由がよくわかる。この中に入るには相当な勇気がいる……。
「先程も見ていましたわ。シュナス殿下と親し気に! レグルス殿下の婚約者という自覚が足りていないのではなくて!?」
「なんだ、見ていたのか。シュナスは私にとって可愛い弟だ。弟と親しげに話して何が悪いんだ」
中に入る機会をうかがっているとはいえ、これでは盗み聞きだ。シュナスは居心地が悪くなってきた。
だが、扉の取っ手にかけた手は小刻みに震えている。
(は……入りたくない……怖い……兄上ぇぇぇ)
いくら半泣きで念じようとも、この場に兄はいない。いない以上は自分がセラフィーナを助けなければ。
……いや、きっと当の彼女はけろりとしているのだろうが。それでもこのまま放っておくのは男として、王子としてよろしくない。
「……大体、シュナス殿下とお話している暇がおありなら、レグルス殿下のもとへお行きになればよろしいのではなくて!?」
「行っていたさ。シュナスとも話したいことが沢山あるのだよ」
「貴女のような野蛮な方が、お可愛らしいシュナス殿下と何を話すというのです!」
そこまで聞いて、シュナスは少しムッとした。
確かにセラフィーナは淑女の嗜みとされる刺繍や詩歌などは好まず、剣術や乗馬を得意とする活発な女性だ。だからと言って彼女が野蛮などということは決してない。
セラフィーナは綺麗で凛々しくてカッコいい、自慢の義姉だ!
苛立ちのまま取っ手を握る手に力を込めて——ふと、シュナスは違和感を覚える。
彼女の様子が、いつもと違う……気がする。
いくら気性の荒いロザリアとはいえ、冷静さを欠きすぎている。いつもの彼女なら、人を見下した余裕の笑みで相手を震え上がらせるのに。
ましてやここは王宮だ。 相手がセラフィーナだとしても、あの計算高い彼女のことだ。こんなに激しく相手を責め立てるような真似を、この場でするだろうか。
「野蛮で悪かったな。昔の話だよ、怖い侍女頭に叱られた話とか、ほら……昔シュナスが飼っていた小鳥がいただろう? その……」
セラフィーナの声が聞こえた直後、ガシャン!と大きな音が響いた。
驚いたシュナスの肩がビクッと震える。
「嫌いです! わたくし、鳥は大嫌いですわ!」
一層語気を荒げたロザリアの怒鳴り声。
シュナスは取っ手を掴んだまま、立ち尽くしていた。
「わ……わたくしは悪くない! だって……わたくしがっ……いるのに! なのに、あんな……!」
「……ロザリア嬢?」
言葉が、次第に崩れていく。
こんな彼女は初めてだった。
「あんな女と……っ……!」
どくん、とシュナスの心臓が脈を打つ。
愛しいテティレイシアの笑顔が、脳裏に浮かんだ。
「だからっ……少しだけ……困ればいいと……っ! それだけ、なのに……あの小鳥っ……」
シュナスの手が、ピクリと揺れた。
「お前っ……まさか小鳥を……!」
「違う! 違うわ! あれが悪いのよ! わたくしの手をっ……突くから……っ!」
また、部屋の中からまた食器の割れる大きな音。
シュナスはそれを、茫然と聞いていた。
(……え……?)
理解できない。頭が、それを知るのを拒んでいるかのようだ。
何を言っているんだろう。
——聞きたくない。
もう、この先を聞きたくない。なのに、身体が動かない。
やめてくれ——そう思ったが、声は出なかった。
「ちょっと叩いたら……動かなく、なって……でも、それだけよ! 叩いただけだもの! わたくしは、何も悪くなんてっ……」
ひゅう、と喉が鳴った。息が、上手く吸えない。
胸元の鮮やかな橙色が、とてもきれいな小鳥だった。懐っこくて、シュナスの肩に乗っては頬を摺り寄せてきた。
届くはずがない手紙を、何通も書いた。
テティが助けた小鳥だよ。こんなに元気になったんだよ。
そう、伝えるはずだったのに——。
「あの女も! 貴女も! 邪魔なのよ!」
「お前っ……!」
セラフィーナの声に、明らかな怒気が滲んでいる。
義姉のその怒りはきっとシュナスのためだ。ロビンを失ったシュナスがどれだけ悲しんでいたかを、よく知っているから。
シュナスは込み上げる感情のままに、取っ手を強く握った。そのまま力の限り引こうとして——再びどくんと心臓が鳴った。
(駄目だ。今ここで私が彼女を責めたら……)
きっとロザリアはアシュフォードに泣きつくだろう。そうすれば恐らくサリガンにも伝わってしまう。
彼らにとって都合のいい王子でいなければならない。無知で愚かな、操りやすい駒として。
ロビンを可愛がる自分を見つめていた、兄の姿を思い出す。
澄んだ声でよく鳴くロビンに、兄は「まるでお前のようだ」と笑っていた、その柔らかい笑顔を。
知れば、兄もロザリアへ怒りを抱くだろう。
だが、今のレグルスに何ができる?
その怒りは、きっと己に向くだろう。
ロザリアを問い詰めることもできない自分を。シュナスにただ耐えることを選ばせた自分を。
——レグルスは、きっと責める。自分自身を。
兄はそういう人だから。
「皆わたくしの、邪魔をしてっ……!」
シュナスは奥歯をぎりっと噛み締めて、勢いよく扉を開けた。
「シュ……」
愕然とした表情でこちらを見るセラフィーナ。
その足元に、割れたティーセットが散乱していた。
ロザリアの背中が、震えていた。
「シュナス……いや、これは……」
セラフィーナが言葉を探す。義姉は気付いてしまったのだろう。ここでシュナスが、全て聞いていたことを。
シュナスは顔を上げた。
にこりと、微笑んで。
「どうしたのです、ロザリア嬢。お怪我はありませんか?」
ロザリアの横に歩み寄ると、彼女の震える手を取る。
それはまるで、彼女の理想通りの「王子様」のように。
ロザリアがびくりと震えた。ゆっくりとこちらを向く彼女の目から、大粒の涙がいくつも溢れている。
「シュナス殿下……わたくし……っ」
「何があったのです?ロザリア嬢。あぁ、血が出ているではありませんか」
取り出したハンカチで彼女の掌の小さな傷口をそっと包んだ。そのまま彼女の涙を指で拭う。
彼女はどこかほっとしたような表情を浮かべている。
シュナスは、優しく微笑んだ。
「殿下、どうなさいました!?」
大きな音がしたからだろう、駆け付けた侍従が扉を開けた。
「誰か、ロザリア嬢を治癒師のもとへ。お怪我をされている」
侍従に連れられて歩き出すロザリアが、部屋の入り口でシュナスを振り返る。
シュナスはとびきりの微笑みで、彼女を送り出す。
「ロザリア嬢、また後程」
何か言いたげな彼女の姿を、扉が遮った。
一瞬留まり、それから歩き出した足音。
それが遠ざかると、セラフィーナが小さく息を吸った音が聞こえた。
「シュナス、お前……」
セラフィーナの声を遮るように、シュナスは彼女の胸に飛び込んだ。
ぎゅうっと抱き付き、そのまま小さな声で呻くように言う。
「ロビンのこと……兄上には……言わないで……」
セラフィーナが息を飲んだ。
シュナスは震える肩を誤魔化すように、少しだけ腕に力を込める。
「私は……平気ですから……」
そっと、彼女の手が後頭部に触れた。
「お願いです義姉上、兄上には……っ」
セラフィーナは、少しの間無言でシュナスの頭を撫でた。
そして、小さく「……わかった」とだけ、答えた。




