第25話 策動
青年は壁に寄り掛かると小さく溜息をついた。そのまま右手の窓から邸宅の門を見下ろす。窓の外では、配達所から届けられた書簡を、この屋敷の侍従が受け取っているところだった。
黒い髪、黒に近い茶色の瞳。自分の姿が一瞬だけ窓に映り込んだ。青年は外から自分の姿が見えないよう、そっと窓辺を離れる。
リックス侯爵邸には彼が引退した後も多くの書簡が届く。彼の人脈、そして見識の広さが故だ。恐らく、その中に青年が待っている手紙も一通、混じっているだろう。
執務机の上に置かれた書類を確かめる。てきぱきとそれらを仕分けし、そのうちの一通にじっくりと目を通す。
コンコン、と扉が叩かれた。少しだけ開かれた扉から、侍従の声が聞こえる。
「ティナート卿、お手紙です」
スッと差し出されたのは一枚の書き付けだ。扉まで歩み寄った青年がそれを受け取ると、扉は静かに閉まった。
青年は書き付けに目を走らせると、すぐさま本棚の前で調べ物をしていた男の前に差し出す。
「……父上。エナール殿より報せです。例の帳簿、買い付け先は国外に繋がっている……と」
父は紙を受け取ると、サッと目を通した。
「アル、これはレグルス殿下の指示による調査か?」
「はい。新興の小さな商会が買い付けるにしては規模に見合わぬ量だ、と」
大きく息を吐いて、父は「そうか……」と呟き本を閉じる。その様を、アル——アルニラムは、じっと見つめていた。
「エナール」はクロエの夫の名だ。彼は国内外の商会や流通経路にも精通し、商人ギルドの監査役も務める有能な人物だった。
「殿下は帳簿をご覧になった時点でその仕入れ先がどこか、おおよそ推測されていらしたようです」
「そうか、そこまで……」
父は虚空を見つめて、少し寂しそうに笑った。
父にとってレグルスは仕えるべき王族であると同時に、息子であるアルニラムと共に育った家族同然の存在だ。早くから才覚を見せた王子と、その王子に忠誠を誓った息子。父は、二人が幼い頃からずっと見守ってきた。
誰よりも二人の成長を喜び、誰よりもその境遇を知っている。知っていたのに。
「あぁ……陛下にも、あれ程……」
父の言葉は、それ以上続かなかった。
アルニラムは知っている。レグルスを認めるよう、父が何度も王に進言してきたことを。
父は、長年王であるアレクシアスの側近として仕えてきた人物だ。王妃の事故の責任を押し付けられ、謹慎処分となった今でもその忠誠心は変わっていない。王妃が亡くなってからサリガンの言いなりになってしまった王に、どれ程の言葉を投げかけられようとも、だ。
父は「陛下」の一言で息子の眉が吊り上がったのを見逃さなかったようだ。こちらを向いて苦笑する。
「……アル。陛下とて、アイリーン様がご存命の頃は……」
アルニラムは父の言葉を遮るように「いいえ」と吐き捨てた。
「父上には申し訳ありませんが、私は忘れておりません。レグルス殿下に対するあの仕打ち……あれはもっと以前からではありませんか」
「言うな。お前とて王家に仕える身。陛下に対する不敬、許されるものではないぞ」
父が眉間に皺を寄せ少し低い声で息子を咎める。だが、アルニラムはそれを物ともせず鋭い眼差しで父を睨みつけた。
「私がお仕えするのは王家ではなく、レグルス殿下ただお一人です」
父は困った顔で笑った。
「お前のその頑固さは、誰に似たのだろうな」
アルニラムは記憶の中の王の姿に、拳をぎゅっと握り締める。
レグルスが生まれ持った魔術の才には目もくれず、剣術に夢中のシュナスばかりを可愛がる。長い間培ってきた騎士としての誇りが、矜持が王をそうさせるのだろう。
レグルスが戦場で必死に戦ったというのに労うことすらせず、投げかけるのは冷たい視線や心無い言葉ばかり。戦後復興のために奔走した彼を一切顧みることもない。
レグルスがどれだけ努力し、国を治めるためのあらゆる能力を身に付けてきたか。王にとって、そんなことは些末な問題に過ぎないのだろう。レグルスは数年前に立太子の儀を済ませている。にも拘らずシュナスを擁立しようとする勢力の前に、今やレグルスは「形ばかりの王太子」として身動きが取れなくなっているのだ。
(なにが『金獅子王』だ……対帝戦争でもあれだけレグルス殿下の力に頼っておきながら——!)
騎士の国ではなく、魔術を重んじる国であったなら。王や主要貴族たちに、新しい価値観を受け容れられる度量があったなら——。悠久の歴史と伝統。故に深く染みついた慣習を振り払うことは、長きに渡り玉座を支えてきた老骨たちにとって容易なことではないのだろう。
そんな「もしも」をいくら考えてみてもどうにもならないことなど、レグルスはとうに知っているのだろう。だからこそ、ただひたすらに前を向いて——。
扉が二回、叩かれた。
開くとそこにいたのは、侍従の姿をした若い騎士が二人。レグルスが手配してくれた、守備隊の騎士だった。
「アルニラム殿、客人が。——モリア伯爵家の使いと名乗る方です」
「わかりました。こちらへ通してください」
アルニラムは頷くと、父を振り返る。
アルニラムとその父、ティナート侯爵ニルタ・オーリンドは、共に領地への謹慎処分中の身だ。
アルニラムは処分を受けたその日のうちに、レグルスからの手紙を受け取った。一度領地へ戻り、父と共に身を隠してすぐさまアルカへ戻った。そして、協力者であるリックス侯爵の館へと匿ってもらっている。
そこに訪れた、伯爵家の使い。モリア伯爵、彼の家もまた代々続く王家の協力者だ。レグルスに賛同し、秘密裏に力を貸してくれている。
アルニラムの視線の先で、父は一瞬顔を顰め、目を閉じた。それからこちらを見つめ、ゆっくりと——深く、頷く。
父が懐から一通の手紙を取り出す。それは、「鳥」が運んできたレグルスからの手紙だった。
アルニラムは執務机に置かれた手袋を見た。先日届けられたばかりのその「忘れ物」を、ギュッと手に嵌める。
レグルスが自由に動けない今、自分がやるべきこと。
「では父上、始めましょう」
それは、王の意向に逆らうことを意味している。
だがそれでも、進むことを選んだ。
「レグルス殿下の手に、政権を取り戻します」
まだ見ぬ国の未来のため。忠誠を誓う主のため。
アルニラムは、虚空を睨みつけた。
*
「ラディアに来たからにはアレクシアス王にご挨拶をせねばならんな」
セラフィーナの言葉に、紙の上を走っていたレグルスのペンがぴたりと動きを止める。
それまでセラフィーナと向かい合って会話していたシュナスは、ひゅっと小さく息を吸って途端に身体を強張らせた。
「……必要ない。会わせてなどもらえないだろう」
レグルスがそう答え、何事もなかったかのように再びペンを動かす。その様子を見たセラフィーナが胸の前で腕を組み、呆れたように口を結ぶ。
「どうせお前たちもしばらく会っていないのだろう」
シュナスは自分の方に向けられた彼女の視線に、思わずサッと目を逸らした。俯き、目だけを動かして兄の様子をちらりと見る。
顔を上げない兄と、揺れる羽ペン。シュナスは唇を一問字に結び、ゆっくりと自分の膝の上に置いた指先へと視線を落とした。
セラフィーナは小さく息を吐くと、目を合わせようとすらしない隣のレグルスを見る。それからまたシュナスに視線を戻し、ぽつりと呟くように続けた。
「……私がとやかく言うことではないが……後悔のないように、な」
レグルスが一瞬の後に「ああ」とだけ答える。
シュナスは少し考えて、それから少し困った顔で「……はい」と小さく返した。
しゅんとしてしまったシュナスに、セラフィーナは苦笑する。
「……大体、レグルスは頭が回るようで自分のこととなると途端に鈍くなるからな」
それにシュナスは「え!?」と驚き、勢いよく顔を上げた。
「昔もな、シュナス。遠征先で用意された寝台が硬くてよく眠れなかったらしくてな。次の朝に目の下を真っ黒にしてフラフラしてるのに『問題ない』と」
笑いながら言うセラフィーナに、レグルスは小さく溜息をつきながら「そんなこともあったな」とさらりと答える。
「そのおかげで今はどんな場所でも眠れる。何事も経験してみるものだ」
平然とそう言うレグルスに、セラフィーナが笑う。シュナスは瞳を輝かせてセラフィーナを見た。その期待の眼差しに、悪戯っぽい笑顔で「まだまだあるぞ」と続けようとする彼女に、今度は困った顔でレグルスが「セラ」と止める。
シュナスとセラフィーナは声を合わせて笑った。
レグルスも困ったまま少し笑うのを見て、シュナスは何だか自然に胸が温かくなるのを感じた。
セラフィーナがいると、レグルスの表情もよく変わる。
昔テティレイシアと四人で笑い合った記憶が蘇る。
変わらないセラフィーナの笑顔。あの日と同じように柔らかく笑う兄。違うのは、ここに彼女がいないことだ。
シュナスは胸の奥をちくりと刺す痛みを、意識の外に追いやった。




